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聞いてもらっていないうちは、まだ何も成し遂げてない

聞くって大事だよって話。

今ちょうど東畑開人さんの新書『聞く技術 聞いてもらう技術』を読んでいて、まだ第一章が終わったところだけど、すでに心が満ちていくのを感じている。

聞くということは、わたしの仕事の大きな要素の一つだと思う。聞かれるということもまたそうである。
なぜなら、わたしたちはクライエントとの対話と関係性を通して「支援」というものを実行するからだ。

それなのに、聞く・聞かれるの測定は結構大雑把である。

日々のクライエントとの関わりは日誌に記録してチーム内で閲覧し、記録を蓄積させていく。だけどそこに書かれていることは、クライエントやわたしが「何をしたか」「何を言ったか」、それについてわたしが「どう考察したか」。そういうことはもちろんとても大切なんだけど、何か足りない気がしてしまうのだ(とはいえすでに日々厖大な記録を書いているので、もっと書けと言われても困るんだけど)。

「○○と伝えた」
「○○について話した」
「○○を共有した」
「○○と言った」
……そういう言葉を並べ立てるけど、それらのうちのどのくらいが実際にクライエントの耳に届いているのだろうか?
言ったのに伝わっていなかったということは本当によくある。クライエントが聞ける状態でなかったということもあるだろうけれど、それだけじゃないのだ。関係が拗れているとか、伝え方が不十分だとか、そういうことだって全然ありえるし。

耳に届かない言葉は、支援とは言えないだろう。誰にも聞かれなかった言葉は独り言と同じだ。
聞いてもらえなくても関わり続けること、働きかけ続けることはもちろん大事。でも、聞いてもらえなかった言葉を「こう言いました」と日誌に書いたところでわたしはまだ何も成し遂げていなくて、ただ何か「やった感」だけを主張しているにすぎないわけで。
ともするとそんな「一応言うだけ言いましたよ、聞いてたかしらないけど」みたいな無責任な仕事に陥ってしまいやすいんじゃないかとヒヤッとするのだ。

そんな仕事のやり方はしたくない。
だけど、タスクをこなすこと考えるあまり、「何もできていない」現実が耐えがたくて薄っぺらい関わりに逃げてしまうことがある。

人間相手の仕事なんだから、ぜんぶ思い通りになんていかないのが当たり前だ。どう頑張っても一歩も前に進めないことだってあるだろう。
そんなときにぐっと堪えて待つことができるかどうか。
わたしの器が試されている。

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