見出し画像

わからないこと・続考

昨日は、わかりあえないことについて書いた。わからない状態それ自体を否定しなくていいんだと書いた。わからない状態すべてが、わかる状態にレベルアップしなければならないというわけじゃないことを書いた。
もう少し、考えてみたいことがある。

わかる人とわからない人の間に生じる「教える」と「教わる」の関係についてだ。あるいは、子どもという存在をどう位置づけるかという問いだ。

子どもに選挙権がないのは、子どもがそれを行使するに十分な能力をもっていないからだとされる。未熟であるから。それはつまり、世の中のことを十分に「わかっていない」とみなされているからだ。大人になった途端に何もかもわかるようになるわけじゃないし、大人だってわからないことだらけだ。
ただまあ、大人になるということは一般的な感覚へのアクセスしやすさを獲得するということだと捉えるならば、大人は相対的に「よくわかる」と言えるのかもしれない。ずいぶん婉曲で大人くさい言い回しだけれど。

では、未熟で相対的に「わからない」立場にある子どもは、わからない状態であるがために大人の支配下に置かれ、わからしめるための教育を施され、わかるように掻き立てられる存在として位置づけるのがよいのだろうか。
やっぱり、そうじゃないはずなのだ。

冒頭に書いたように、わからない状態はそれ自体が否定の対象ではない。わからないことが卑しくて、わかることが尊いという上下関係は正しくない。
そうだとすると、相対的に「わからない」子どもへの相対的に「わかる」大人の態度として適切なものとはなんだろうか。

否、わかる大人とわからない子どもという二項対立にそもそも無理があるんじゃないか。
大人というジャンルの人たちがどれほど多くのことをわかっていようとも、それは彼らもまた別の側面では確かに「わからない」という事実を変えはしない。同時に、子どもというジャンルの人たちが大人の知っていることをわからなかったとしても、それは彼らもまた確かに「わかる」という事実を消し去ることにはならない。一人の子どもはその心身の及ぶ範囲の感覚を「わかって」いるし、それは大人だって子どもだって同じことなのだ。

もしかすると、子どもが相対的に「わからない」という見方自体、大人の持てる「一般的な感覚」の範疇を超えているために子どもがどう感じているかが「わからない」というだけなのかもしれない。大人同士が共有している言語が子どもには通用しないから、その言語を使えない子どもが「わからない」せいだと決めつけて責任を転嫁しているだけなのかもしれない。
子どもだっていろんなことを感じながら世界を見ている。世界を捉えている。それは確かに、「わかっている」と言えるはずだ。大人の尺度だけで「わからない」立場に押しやるのは違う。

そう考えると、最初に掲げた問いは「わかる人とわからない人」が歴然としてあるという前提が間違っていたことになる。わかる人とわからない人がいるのではなくて、特定の感覚(これは誰かの主観)に対して、それを体験したかどうかの差異である。体験した人がしていない人にその感覚を言語的に伝達して教えてあげることは結構なことだが、体験していない人には体験していない人の体験があって、それを意味のないことだと思わせるような教え方は傲慢だ。

わたしが「わかっている」ことを他人がわからないということに、優越感を抱くこと。わたしが「わからない」ことを他人がわかっているということに気後れすること。それらはただの傲慢なのだ。わたしの感覚を基準にして周囲に過剰に期待したり、わたしはこの世のなにもかもをわかっていると錯覚したりしているだけなのだ。

わたしはわたしの感覚のなかでしか生きることができないから、時々傲慢の沼に落ちそうになる。

いろいろ複雑に考えてしまったけれど、わたしもあなたも、子どもも大人も、みんなそれぞれ自分の感覚の届く範囲しか「わからない」。
結局、それだけのことなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?