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わたしは語る|自己語りの社会学

『自己語りの社会学:ライフストーリー・問題経験・当事者研究』

本が大好きな夫がほくほくしながら買ってきたのが、この本だった。タイトルを見た途端、これはわたしの好きなやつだと確信した。

自己語り、他でもない「わたし」が「わたし」を語るということ。わたしは児童福祉の現場で働いているのだが、そこで出会うのは複雑な生い立ちを抱えてさまざまな葛藤のさなかにある子どもたちだ。自分のことばで自己物語を紡ぎ出すということは、一種の治癒だと思う。
支援者と位置づけられるわたしたちが何をしてあげられたかじゃない。子どもたちが自分の人生のこれまでと今をどのように捉えて、これからをどう眼差しているのか。子どもたちがそこに自分なりの解を持てたときに、大人たちの都合に振り回されて生きてきた苦しみから抜け出して、真に自分の足で自分の人生を歩めるようになるんだろう。そんなふうに思うのだ。

だから、社会学という文脈で「自己語り」を読み解いていくこの本に強く惹かれた。二日間で勢いのままに読み切って、期待通りにわたしの問題関心に響くものがあったので、この興奮をここに残しておこう。

フィクションを介した自己表現

第二章「なぜ演じるのか」(西倉実季)。
血管の疾患のために生まれつき鼻と口が変形している川除さんは、一人芝居の脚本を自ら書き、演じ続けている。題材は「見た目問題」。描かれる世界は、川除さん本人の体験や感情をベースにしたフィクションである。
個人的な経験の語りとは異なる、フィクションを演じるという表現について次のように述べられている。

フィクションを演じるという表現の特徴のひとつは、現実の状況や関係性のなかでは表出が困難な感情を表現できる点である。…(中略)…もうひとつの特徴は、必ずしも一貫しない自己を無理なく表現できる点である。(pp.50-51)

フィクションは、リアルで生々しい自己を外から守る緩衝材のようなものなのだろう。フィクションに守られているからこそ、安心して「わたし」を語れる。「わたし」ではない別の人の仮面をかぶっているから「わたし」の思いを口にできる。そういうことは、現場でもよくあるなと思う。
心理士とのプレイセラピーはまさにその例だし、一見ぶっ飛んでいるようなファンタジックな語りだとか、好きなアニメや漫画のキャラクターに自分を投影するだとか、そういうことは生活の場面でもままある。いきなり自分を語るのはハードルが高いけれど、フィクションの力を借りて少しずつ語る力をつけていけばいいのだ。それに耳を傾けられるわたしでありたい。

語りにおける一貫性/非一貫性

フィクションが守ってくれるのは、「わたしの思い」の言いづらさだけじゃなかった。「必ずしも一貫しない自己を無理なく表現できる」のだ。

第六章「たった一人のライフストーリー」(桜井厚)では、「わたし」の物語に生じる亀裂(非一貫性)について述べている。

こうした語りがたさや沈黙は自己語りの一貫性に「亀裂を入れるはなはだ危険な要素である」が、同時に、沈黙は自己の一貫性を辛うじて守るための最低限の抵抗といえるかもしれない。(p.145)

人は、自分の物語の一貫性を損ないかねないものへの語りを止めたり、葛藤したりする。そして沈黙することで、一貫性を守ろうとする。
だけど、一貫してなくたっていいんじゃないの? と思う。

「わたし」は統合された一つの存在だけれど、一瞬一瞬のわたしが何を感じ、何を考えるのかはその瞬間によって違う。違う「わたし」一つひとつがそれでも「わたし」に集約されるのは不思議だけれど、でも「わたし」なのだ。

ヴァージョンのある話だからといって、それらは必ずしも互いに矛盾し合うわけではなく、語りの様式の位相が異なる自己語りであるため併存可能であり、ライフヒストリーそれ自体の書き換えにまでは至らない。(p.152)

非一貫性が気持ち悪いならば沈黙すればいいし、仮面をかぶって「わたし」じゃない誰かに語らせたらいい。一貫していることだけが人生の正しさではないはずだ。

否定されたり修正を迫られたりしないことが自己物語を可能にする

第七章「薬物をやめ続けるための自己物語」(伊藤秀樹)。
ここで印象的だったのは、ダルクの利用者を経てスタッフになったEさんの語りだった。

しかしEさんによると、ダルクの利用者やスタッフなどに(自身の)ギャンブルの問題を開示しても、それに対して否定的な言葉を投げかけられることはなかったという。…(中略)…仲間たちの前で同じ自己物語を語っても否定されたり修正を迫られたりしなかった経験があったと考えられる。(p.174)

「わたし」の物語は、文字通り「わたしの」ものだ。語り方は一通りじゃないし、必ずしも一貫性があるわけではないし、もしかしたらフィクションも織り込まれているかもしれない。でもそれは間違いなくわたしのもので、それを「そうじゃないよ」と否定されたり、修正を求められたりするとしたら。そういう可能性に晒されているとしたら、そこにはもう「わたし」を語るという行為をしうる安心・安全な環境はない。
ありのままに受け止めてくれる、沈黙も受け入れてくれる。そういう関係性があればこそ、わたしたちは「わたし」を語れるのだろう。

ダルクをダルクたらしめるもの

第八章「私利私欲を手放し、匿名の自己を生きる」(中村英代)もダルクについて取り上げている。薬物依存者のセルフヘルプグループであるダルクを、筆者は「ひとつの変数(金、人望、権力など)の最大化を抑制する共同体である」と結論づけ、以下のように述べている。

…ダルクは、階層化された現代社会で広く共有されている価値観、すなわち金銭の追求、就労の重視、上下関係のある人間関係などと明確に距離を置き、当事者同士の自由で平等な支え合いのなかで依存症からの回復を目指す施設なのだ。(p.185)

だから日々の生活でお金を貯めることを求めないし(むしろ使い切ることを推奨する)、就労を求めもしない。それよりも一日三回のミーティングに出ることを求められ、ミーティングを通して薬を使わない新しい生き方へと、生き方そのものを変えることが目指されている。

今、ここに向き合うこと。自己物語を紡ぐ今に集中すること。それはきっと、お金の管理とか仕事とかと並行しながらできるような生やさしいことではないのだ。一方で、世の中ではそれを求められてしまう。

わたしのいる児童福祉の現場もそうだ。子どもたちは成長を求められ、小学校、中学校、高校と走り続け、進学か就職を決める。立ち止まる隙が全然ないのだ。だから立ち止まることを認めてもらうために(きっと自分自身でも認めてあげるために)、心の悲鳴をもらす。それはからだの不調であったり、周囲とのトラブルであったり、自分のからだを傷つけることであったりするけれど、みんな立ち止まりたいのだ。でも理由がなければ立ち止まれない社会だから、苦しい。

ダルクでは、すべての活動の経費をメンバーからの献金でまかなっているのだという。現代社会からのさまざまな要請や圧力に毅然としてNOと言える。その背景には、徹底した独立性があるのだ。
わたしたちに同じことができないのは、児童相談所によって措置された子どもたちを、国や自治体から受け取った措置費でもって支援をするというこの構造の限界なのかもしれない。
でも、立ち止まりたい・立ち止まらなくちゃいられない子どもたちが、ちゃんと立ち止まれることも彼らの保障されるべき権利なのだと思う。構造上の制約は無視できないが、そこに挑戦することを諦めずにいたい。

意図がどういうものであれ、もらうものには必ず代償が伴う。その代償は金銭であったり、保証であったり、あるいは、営業権、特例としての容認、推薦、支持などであったりするが、代償はあまりにも大きすぎる。(p.191)

然り。

「研究モード」が生み出す自己

第十一章「当事者研究が生み出す自己」(野口裕二)。
学者じゃなくても研究はできる。べてるの家の実践は、精神障害等の当事者による研究である。野口は、わたしたちが日々抱えている問題や困難に向き合い、自責する行為のあり方を「反省モード」、反対に他者や社会が引き起こしているのだと他責する行為のあり方を「批判モード」と名づけた。

 まず、「反省モード」がうまくいった場合、「反省を生かして修正できる自分」というポジティブな自分が生み出される。一方、うまくいかなかった場合は「反省を生かせない自分」や「反省をすぐ忘れてしまう自分」といったネガティブな自分が生み出される。
 次に、「批判モード」がうまくいった場合は、「他者の誤りを見抜くことのできる自分」や「権威に対抗する勇気ある自分」といったポジティブな自分が生み出されるであろう。一方、うまくいかなかった場合には、「他人のせいにばかりして自分を修正しない自分」や「自分を修正できない自分」というネガティブな自分が生まれるであろう。(p.255)

当事者研究は、このいずれでもない。

「研究モード」においては、それがうまくいった場合、「自分の問題を公表できる自分」、「自分の問題を理解して修正していく自分」というポジティブな自分が生み出される。一方、うまくいかなかった場合は、「せっかくの研究成果を生かせない自分」というネガティブな自分が生まれるであろう。しかし、「研究モード」がすぐれているのはこの先である。「せっかくの研究成果を生かせない自分」それ自体が、次の当事者研究のテーマになるからである。「失敗した自分」に対して、「なぜ、失敗したのか」、「研究成果自体が間違っていたのか」、それとも、「研究成果の生かし方が間違っていたのか」、あるいは、「それ以外の要因がからんでいるのか」、等々、「失敗」それ自体が次の重要な研究テーマとなって当事者研究をさらに発展させていく。(p.256)

なんともポジティブな思考だが、それがいい。「研究モード」になること、つまり「わたし」でありながら「わたし」を客体化してとらえなおす作業を積み重ねること。それがあるがままの「わたし」をただ受け止めるということなのだろう。

わたしたちは、何のために語るのか。
たぶん、生きるためだ。他でもないわたしが、わたしを受け止めて、わたしとして明日も生きていくためだ。
その営みのチャンスを逃すまい。

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