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影を影のままに愛せるか

一昨日、ネガティブ・ケイパビリティの記事を書いた。

ネガティブ・ケイパビリティというものを頭の中でぐるぐると考えているときに、常に片隅にあるのがnoteの世界だった。
noteのアカウントを作ってから数年。毎日入り浸った時期(今も)も、疎遠だった時期もあったけれど、帰ってくると必ずたくさんの魅力的な文章の数々がわたしを迎え入れてくれた。わたしの目に魅力的に映ったのはきらびやかな生きざまではなくて、反対に弱くて狡い、とても人間くさくて生温かい呼吸だった。

たとえば学校で、会社で、家で。「これをするぞ」と決めて、着実に遂行するのが善きことだ。テストでいい点を取る、志望校に合格する、部活でいい成績を残す、仲のいい友だちができる。華々しく初成約を飾る、新人賞を取る、上司に期待をかけられる。休みの日に早起きをして家の片付けをする、家計簿をつける、自炊をする。良き娘・息子、きょうだい、親、妻・夫として振る舞う。
世の中にはキラキラした明るい面があって、誰も彼もそれを目指して歩いているように見える。自分が概ねそちら側にいることを期待して、そのために努力して、自分よりキラキラしている他人に嫉妬する。裏側のどんよりとした影の面に自分を発見したときには、目を逸らしてなかったことにする。明るい面にいるかのような顔をしてみせる。影の面はいつも否定されて、排除される。あるいは明るい面に確固たる地位を築くための踏み台として、下積みとして、必要悪として、糧として、位置づけられる。

現実世界でみんなが目を逸らしている影の面が、主人公になりえるのがnoteの世界だった。日の目を見る、というと語弊があるようだけれど。明るい面の引き立て役としてではなく、影がただ影として魅力を放っている。「昔はこんなだったけれど、おかげで今のわたしがいる」という論法ではなくて(たしかにそういうものもたくさんあるけれど)、影そのものを静かに描写してわたしを引き込んでいく。それが美しくて、儚くて、それでいて力強かった。
影が影のままに堂々と横たわっているのを目撃したわたしは、その信じがたい光景に思わず目を見開いて固まってしまう。けれど、丸裸の影はわたしに教えてくれる。わたしの中に蓋をして閉じ込めていた影を「そのままでいいんだよ」と抱きしめて、「良き自分であらねば」という漠然とした強迫観念からわたしを自由にしてくれる。

そうか、キラキラサイドにいられなくなったらおしまいではなかったのだ。キラキラにもキラキラなりの気持ちよさがあるだろう。それもかなり中毒性の高い、一度その味を占めたら抜け出せなくなるような。だけどきっと、影を影のままに愛せることの豊かさには敵うまい。高校時代に現代文の授業で読んだ谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』も、もしかしたらそういうことを言っていたのかもしれないな(漆の黒さを褒め倒していたことしか覚えていないけれど…)。

影を影のままに、わたしも愛せるだろうか。

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