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こだわりが強い

こだわりの強さ、というのは就活生のころのわたしが辿りついた一つの解だった。

就活生はことさらに自己分析を要求される。自己をとことんまで知り尽くした上で適性を見極めろと、迫ってくる。それはまるで、その結果をすべて引き受けるのはお前だとでも言うかのようだ。
たしかにそれは一つの事実ではあるかもしれないが、結果の一端を担う立場の者が無遠慮に言い放っていい言葉では決してない。それは責任の放棄だ。「自己分析」というもっともらしい言葉で、誰もが主体的に自己決定をしているかのような幻想を生み出している。それって、ずいぶん卑怯な話だと思うのだ。

その自己分析のドツボにはまっていたころのわたしが、辿りついたのがこれだった。こだわりの強さ。
「あなたの長所はなんですか」という定番の問いに対して、歯の浮くような言葉を返すのはどうにも気が進まなかった。なんだか薄っぺらいし、たぶん日本中であと5万人くらい同じ回答をする人がいるから。そんな没個性的で不誠実な答えで、満足のいく「結果」を得られるとはとても思えなかった。

それに、長所を問われたあとには必ず「短所はなんですか」と続くところまでが定石である。長所と短所はコインの裏表であって、薄っぺらい長所を裏返せば、薄っぺらさが一段と際立つだけだ。

わたしは、こだわりが強い。それは言葉遊びのようなものだ。
こだわりの強い人と聞けば、頑固で融通のきかない面倒くさそうな印象を受ける。それをわざわざ長所としてアピールして、粘り強さや芯の太さを主張する。だから短所もまた、こだわりの強さであると説明できる。
言葉遊びのような「長所」が、わたしは気に入っていた。思えばあのときから、強さを欲していた。強いわたしを認識してほしくて、だからそんなひねくれたことをしていたんだろう。

こだわりが強いというのは、初志貫徹の信念の強さとでもいえよう。
強い意志をもって「やるぞ」と決めたことは、徹底的にやる。途中で諦めたくない。渦中にいて苦しいとき、「でもここでやめたら、絶対に後悔する」と確信して歩みを進める。生きていくなかで絶対に譲っちゃいけない大事なことがいくつかあって、そこにちゃんとこだわって生きていたい。こだわりをもつことは、自分を大切にすることだ。

一方で、こだわらないこともある。食へのこだわりのなさには自分でも辟易することがある。毎日お腹は空く。でも、いいものを食べたいとか、高級なものを嗜みたいとか、昨日と違うものを食べたいとか、そういう欲求が湧いてこない。飲み会で「適当に注文すること」がとても苦手である。それは、「自分が食べたいもの」という軸が曖昧だから、「他人が食べたいもの」もわからなくて、一体なにが適当なのか正解が全然わからないからだ。
でも、何を食べるかはわたしの人生において譲れない事項ではない。だからこれでいい。手に入るものを食べ、誰かが食べたいものに合わせて食べる。それで十分なのだ。

こだわりの強さは、「いま・ここ」にずっしりと構えていられる気持ちの余裕でもあると思う。「いま・ここ」に辿りついた理由がはっきりしていて、そこに価値を感じられていて、もっとこれを極めたいという野心とともにある。
わたしはこだわりが強いというシンプルな事実と、その事実を探り当てたあの頃のわたしに、わたしは今とても救われている。とはいえ、自己分析は義務ではなく権利として行使されるのが望ましいと思うけれど。

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