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ほっかほかの気持ちのまま、感想

【君たちはどう生きるか】

観てきた、今。

例に漏れず、文字通り一切の予備知識を入れること無く。

いわゆるネタバレはタブーなのでストーリーには触れるつもりはない。

あくまで委ねられたアート、
そして委ねるアートについての感想を個人的に書こうと思う。

今回プロモーションのおかげで、やけに考えながら作品を観なければいけない姿勢になる。(視聴者が勝手にその空気を作ったのかな ジブリだからね)
何だかそれをしないことがマナーから外れてしまうみたいな。分かってはいたけど、うまいなあ。

そんなことを思いながら鑑賞。
段々と、ああ、これ完全に委ねられるなあと気付いた。
気付きが確信に変わってる頃には、視界のエンドロールはもうぼやけてて、悔しいけど、すごく泣いちゃった。
この解釈の正解を知らなくて良いと思うから、他の人の解釈には目を通すつもりはない。私自身の中で作品を完結させたいと思う。

これは、委ねられたアート。

意気揚々と書き始めたのにレイトショーで観たから眠いんだよな。一旦ここで睡眠。おやすみ。

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おはようございます。

思い出した。委ねられたアートについてです。
私は委ねられたアートを感じるたびに、委ねるということについての寛大さを、持ち前の価値の無い物差しで測ってみる。自分の思考や、それに準じた作品が一人歩きしていくことってかなり怖いことだと思う。世に出て、自身の意図から逸れる変化を良しとするかどうか。
例えば言葉は記号だなんてよく言うけども、普段から私達はその記号を重ねて重ねて、相手に可能な限り濁りなく伝わるように訴えかけているのに、重ねた記号は見事に分解される。

ある程度達観していないと、手放しのアートを誰かに与えることは難しいじゃないのかなと。

この規模(宮崎駿・久しぶり・ジブリ・最後とか言われてる・ファン多すぎ)で私達は手放しのアートを食らったわけだ。
この潔さはやはり寛大すぎる。いわゆる(分からないけど)最後が委ねられてしまったのだから。

誰の解釈も目に通したくないとは言ったけど、朝起きたら気が変わった。親しい人とだけはやっぱり神経衰弱をしてみよう。
ここで委ねられたアートに戻るけど、その良さは限りなく解釈にバックグラウンドや思考の深度、角度が混ざり合うことだ。混ざりあったものを見せ合いっこする、つまりはこの意見交換を現代アートの定義だと誰かが言っていた。

二回目観に行こうかな

君たちはどう生きるか

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