自分の機嫌は自分で取る

『自分の機嫌は自分で取る』という言葉が好きだ。
別に他人に強要しとるわけではないから個人的な不機嫌を調整できんひとは不機嫌を撒き散らして他人に迷惑をかければよかろう。知るかそこまで。

この『自分の機嫌を自分で取る』という言葉に対して危うい感情を抱いてモヤっとる層がおるそうだ。
彼らが言うには『最近めちゃくちゃ言われがち』『自分の機嫌というものは100%コントロール可能なものであり、これを実現できとらん人間は社会性がなく不完全である』というレッテル化しよるんではないかと懸念を抱くらしい。

曰く、
「自分がいま屋根のある家に住めてるとか運がそうあってくれたから以外の偶然でしかなくない? この寒空に家がないのに自分で自分のこと機嫌よく保てるか? 私は無理です」

新コロや新しい生活様式で『機嫌の悪くなってるひとを見る』というしんどさが加速しとるせいもあろう。オイラもわざわざ来店者のために消毒した手をひねりあげられて「この手は清潔なんか!?」とおらび散らされたこともある。死ねよ(←不機嫌隠せやw)。

『自分の機嫌を自分で取る』という言葉が『ほぼほぼ自己責任論の理屈』にあたるので支えとか目標にしたくないという意見も目にする。ほほー。

それはあれだな、
ひと昔前の『空気読め』に代表される同調圧力としてこの言葉が利用されよるとこに違和感を感じとんだろう。

でもなぁ、
『自分の機嫌を自分で取る』 のが100%は無理でもせめて、取り繕う努力はしてほしい。
自分イライラしとるな、よし、寝よう。おいしいもん食べとこ。とかで盛り上がってほしい案件。
自分が不機嫌を見せつけられて機嫌を損ねるなら、その機嫌の悪さを持ってこられたコッチとしてはどないせぇっちゅうねんて思わん?

それができんなら専門家の所に行ってほしい。
「これくらい許してほしい」とか言いながら友人や恋人や家族にフラストレーションを叩きつけるひとおるけど『身近なひとの機嫌を犠牲』にしてまで自分の機嫌を取ってもらおうとせんとってほしい。

自分に取り入れたら生きていく役に立つであろう『できるにこしたことはないライフハック』が
「こうはあるまい。あぁはなるまい」的な自戒の念を引き出して道徳化してしまい、
ひとに強制したりできんからと言うて非難したりする罰したりするのに利用されよんやなぁ。
他人の機嫌で自分の機嫌が左右される伝播やん。

自分を機嫌を自分で取れんひとは、
たくさんの自分の機嫌を自分で取れるひとの我慢でつきあいを成り立たせとるという事実だけはほんまに理解したほうがえぇ。

自分の機嫌を完全コントロールできるわけやない。
でもせめて、
自分の不機嫌を他人にぶつけて不快にさせたり、
迷惑かけんくらいの気遣いをおとなならしてほしい。

自分でどうにもできんくなった感情を
ひとの良心を利用して昇華させることになんの疑問も持ち合わせん『これがあたりまえ』と開き直るひとのあまりの多さよ。
自分の機嫌取れんなら取れんでかまんが、
それを開き直って他人にぶつけるんがあかんやろって話。
機嫌のコントロールってのは見えるように出すか見えんように繕うかの話で、我慢せぇとはまた違うん。腹が立つからと言うて他人にやつあたりするんは社会性がないレベルの話になるで。

自己を律することはだいじやと思うが、
決してそうでない人間を許容しとらんわけではない。
そんな不寛容なオイラは自分でも要らん。
できるひとがすりゃあえぇだけの話やのに
「できん! 無理! できん自分を気遣え!」とは。
(そこまで他人に興味はないが今回はこの言われようが引っかかったんでなぁ)

機嫌というものは個人的な感情の発露でしかないし、
根本的な精神の安定にこだわるより別の部分からアプローチした方が合理的なことも結構ある。
そこまで『自分の機嫌を自分で取る』という言葉にこだわって無理だの懸念だのという風潮はよくわからんな。

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