養育里親の歩み(その3)

戦後の混乱期

戦争の後の緊急の課題として戦災孤児と結核児童の問題が浮上し、児童養護施設の増設と病児施設の整備が進められていった。戦災孤児が海外に養子として渡っていったのもこの時期である。終戦直後は財政的理由から入所型施設を主とせざるを得ない事情があり、集団養育が定着していった。一方、養子縁組は継承されて戦後を迎えるが、その後は急速に養子縁組の件数が減り始めている。家族意識の変化の背景には社会構造の急変や家制度廃止があると考えられる。

児童福祉法施行までにも目の前にいる浮浪児などへの取り組まざるを得ず、私人による保護活動が自然発生的に各地で興っている。児童養護施設へ移行する例もあったが、農業や漁業に従事させるなどの例、中には人身売買の様相を呈するものもあり、数年を待たずに制度が整備されて行った。戦後の児童福祉法にも里親制度が掲げられているが、里親といえば養子縁組のこととであり、養育里親は篤志家による例外的存在であった。

 昭和22年 児童福祉法公布(12月)
   23年 里親家庭運営要項(10月4日)
   24年 同居児童の届出規定
   26年 保護委託者制度

養子縁組をした後に、追加の子どもを養護施設や乳児院から頼まれて「縁組を前提としない子育て」の実践も見られた。施設の沿革などを見ると、養育里親と同じ役割を果すさまざまな実践が記録されている。

・千葉県の房総学園では、職親の要素の強いものであった。同じく市川市の知的障害児施設主導で障害児を地域の家庭で養育する実践もあった。この地域では里親が集まり里子の村といわれた時期もあったが、急速に終息を迎えていった。

・秋田県の場合は、篤志家が子どもを世話し農作業を一緒にしながら自立へ結びつけるものであった。時代が安定するにつれこの動きも終熄を迎える。

・鳥取県の例では、戦争の辛酸を経験した篤志家が子どもを保護している。家には20人ほどの子どもが生活している状態であった。児童福祉法の整備に合わせて里親制度に組み込まれていくことになる。

資料:戦後里親制度の変遷:平成29年度全国里親会・季刊里親便り
(田中友佳子、貴田美鈴)


青葉紘宇


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