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第6章第1節 明治末年の音楽情勢


童謡《夕日》で知られる作曲家、室崎琴月(清太郎)は大正2年、東京音楽学校に入学した。いったいどんな学生生活を送ったのか。それは調べても調べても深い謎に満ちている。

『東京藝術大学百年史』東京音楽学校篇第2巻は、1600ページという分厚い資料集成である。平成15年(2003年)に発行された。百年史というだけに関係者が総力を結集して編まれたに違いない。第2巻は大正時代から昭和27年まで41年間を対象にしていて、人名索引は別刷りで実に6000人を超える膨大なものだ。しかしそこに室崎の名はない。

資料集成には口絵として各年度の卒業写真が掲載され、巻末に氏名が記されている。氏名は編纂時に判明した分のみで、古い写真はほとんど氏名がない。清太郎が卒業した1917年(大正6年)3月の写真には、卒業生と教職員計74人の顔がある。このうち顔と名が確認されたのはわずかに8人、久野ひさ・橘糸重・安藤幸・湯島元一・島崎赤太郎・乙骨三郎・大塚淳・萩原英一・貫名美名彦で、いずれも教員でそうそうたる顔触れである。詰襟姿の清太郎はやや後方で右前方の宙を見つめるようにして確かに写っているのだが、編纂時には分からなかったのであろう。

室崎清太郎は、戦前の作曲家としては多数のうちの一人にすぎないが、戦前の私立音楽学校経営者としては数少ないうちの一人である。昭和34年(1959年)に東京藝術大学で行われた音楽教育創始80周年記念会で功労者表彰、1969年にも教育功労者表彰を受けていることも考えてみても、『百年史』から名前が漏れたのはすこし寂しい。それは『百年史』の編集者たちの調査が不十分だったと言うことではない。86年前の卒業生を調べることがいかに難しいかなのである。

清太郎の場合、東京音楽学校関係の公式資料にはほとんど足跡が残されていない。たしかに生徒名簿と卒業者名簿に「室崎清太郎」は確認できる。しかし成績優秀者が出演した学校主催の定期演奏会や卒業演奏会には名前がないし、楽友会の雑誌『音楽』に寄稿もない。音楽家のエリート養成機関に入学はしたけれども、俊才たちのなかでは目立たない凡庸な学生にすぎなかったのではないか。そう推測してしまいがちだが、それは早合点といわねばならない。

清太郎は大正6年に卒業して3か月後に東京家庭音楽会という団体を設立する。三浦俊三郎『本邦洋楽変遷史』(昭和6年)によれば、顧問に山岡・久世・市橋の3子爵と、貴族院議員の南弘、枢密院書記官長の二上兵治などが名を連ねる団体である。洋楽と邦楽の研究団体だったという。卒業後いきなり、正確に言うと研究科1年目なのだが、そのような組織をつくることができたのはなぜなのか。この章では、清太郎の学生時代を数少ない資料から読み解いていくことにする。

明治末年の音楽情勢

室崎清太郎(のちの琴月)の学生時代を調べていくと、手がかりは少ないものの、一つのキーワードと一人のキーパーソンに行き当たる。それは「家庭音楽」と「吉丸一昌」である。近代音楽史では、それほど詳しく記述されてこなかった項目と人物である。家庭音楽は一般的な言葉としてはいまやほとんど流通していない。吉丸一昌は『尋常小学唱歌』の編纂で最も重要な役割を果たした人物の一人だが、現在は《早春賦》の作詞で知られる程度である。今も愛唱される唱歌《故郷》《朧月夜》が実は吉丸の作詞でないかという説が提示されているが、厳しい合議制でつくられた文部省唱歌に個人の著作権を設定してしたこと自体が疑問視され、大きな議論にはなっていない。

音楽学校入学後の清太郎を見ていく前に、関連する当時の音楽情勢をみておきたい。

注目集めた和洋音楽演奏大会明治45年7月30日、明治天皇が崩御し「大正」と改元された。翌日から5日間歌舞音曲が止められ、その後も自粛ムードが続いた。しかし、時代の変わり目であるこの1年を通してみると、音楽をめぐる出来事は華々しいものがあった。

この年は帝国劇場が2年目を迎え、プリマ・ドンナの柴田環が歌う創作オペラが上演されて大きな話題となった。2月の《熊野》は評判が芳しくなかったが、6月の《釈迦》は好評だった。上野の東京音楽学校も、音楽文化の発信拠点として存在感を増していた。それまでの卒業演奏会に加えて、学友会主催の定期演奏会「土曜演奏会」が7月6日にスタートし、この年に第3回まで開かれている。

オペラ以外の音楽会は夏までに明治音楽会第56回演奏会をはじめ、音楽奨励会の演奏会、東京音楽学校や私立音楽学校の卒業演奏会、帝国ホテルの声楽音楽会、好楽会の演奏会など多数開かれた。特に注目されるのは5月5、6の両日、木挽町にある歌舞伎座で行われた東京連合和洋音楽演奏大会である。東京音楽学校の外国人教師ユンケルがヴァイオリンを、ロイテルがピアノを演奏し、柴田環がソプラノ独唱をする一方で、邦楽界を代表する音楽家たちも演奏を披露した。雑誌『音楽界』によると、企画したのは横浜二葉会会長の石原重雄(東京音楽学校本科専修部明治26年卒)で、「斯界破天荒の壮挙と云ふも敢て過言にあらず」という。

《ドンブラコ》と《うかれ達磨》

この東京連合和洋音楽演奏大会で、2009年に再現演奏されCD発売までされて話題になったお伽歌劇《ドンブラコ》の初演があった。《ドンブラコ》は昔話の桃太郎を題材にした作品である。今日では、この初演よりも2年後に宝塚少女歌劇団の第1回公演でも演じられて大ブレークしたことでよく知られている。《ドンブラコ》の作者は、北村季晴すえはる(1872-1931)である。東京音楽学校師範部を明治26年7月に卒業し、明治45年時点で40歳。明治37年に日本人による最初の歌劇として評判になった《露営の夢》を作曲したほか、長唄を五線譜にするなど、邦楽を洋楽器で演奏するいわゆる「和洋調和楽」を先頭に立って推進していた人物である。《ドンブラコ》の楽譜はこの初演より3か月ほど前の1月に共益商社書店から出版されている。[1]

明治45年でもう1つ注目しておきたい音楽イベントがある。日本橋の白木屋しろき呉服店の余興場で4月1日から5月20日まで開かれた少女音楽隊のステージである。白木屋は、明治42年4月に三越呉服店が始めた少年音楽隊に対抗して、44年に少女音楽隊を結成した。百貨店はこの時期、競うように子どもを対象にした事業を次々に展開していた。

白木屋の演目の中に、歌遊び《うかれ達磨》があった。作詞は吉丸一昌、作曲は本居長世。吉丸は東京音楽学校教授で修身・国語担当、本居は同校助教授でピアノと和声論担当。《うかれ達磨》も宝塚少女歌劇団の第1回公演で演じられている。

《尋常小学唱歌》編纂進む

音楽教育分野に目を向けると、明治45年は文部省の準国定教科書『尋常小学唱歌』が東京音楽学校で編纂中だった。前年5月から学年別に順次発行され、この年は第三学年用と第四学年用が発行された。終了するのは2年後の大正3年6月である。『尋常小学唱歌』の編纂についてはここで詳述しないが、押えておきたいのは、11人の編纂委員のうち、作詞委員の主任が吉丸一昌、作曲委員の主任が島崎赤太郎であったことである。吉丸と島崎が『尋常小学唱歌』の編纂に果たした役割は大きいものとみられている。島崎赤太郎は北村季晴と同期生である。

吉丸一昌という人物は今日、《早春賦》の作詞者ぐらいでしか知られていない。しかしこの明治45年の時点で、東京音楽学校関係者のなかで最も輝いていた人物はこの吉丸一昌ではないかと思えるほどの活躍をしている。『尋常小學唱歌』の編纂の一方で、自らの作詞で伴奏譜つきの唱歌集『幼年唱歌』を世に出した。7月に第1集、11月に第2集が発行された。各7曲が収められ、いずれも自身の作詞。作曲は学校関係者たちで、第1・2集の計14曲に限ってみると、大和田愛羅と梁田貞が各3曲、あとは楠美恩三郎・中田章・澤崎定之・北村季晴・本居長世・与田甚二郎・北村初子・中島かね子(柳兼子)が各1曲である。『幼年唱歌』は第3集から『新作唱歌』と改題され、大正4年10月の第10集まで発行されることになる。

吉丸の『幼年唱歌』はのちに研究者の間で、童謡運動のさきがけとも評される。吉丸はなぜ、国定教科書を編纂する一方で『幼年唱歌』も編纂したのだろうか。童謡運動が唱歌批判から生まれたことを考え合わせると、大変興味深いテーマである。この点については、あとでさらに詳しく問題提起する。

明治天皇大葬の9月13日、乃木希典前陸軍大将が自刃した。吉丸は小松耕輔とともに《乃木大将の歌》をつくり、十字屋書店から発行した。この歌は、この年を代表する流行歌となった。大和田愛羅作曲で《乃木大将夫人の歌》(敬文館12月5日発行)も出している。

さて明治45年の室崎清太郎である。清太郎は受験勉強をしながら、音楽教師たちの団体である音楽教育会に入会し、年末には同会の作曲研究会に入った。音楽を学ぶ人たちの間では、演奏ばかりでなく楽曲の創作がブームになりつつあった。東京音楽学校学友会の雑誌『音楽』では、明治45年10月号(第3巻10号)から「作曲法入門」という紙上講義の連載がスタートしている。この連載は、何度か休載はあるが、大正4年1月号まで続いた。

葛原しげるが博文館入社

清太郎の学生時代に入る前に、児童雑誌の状況にもすこし触れておく。

実業之日本の『日本少年』は明治45年1月号から主筆の滝沢素水のもと有本芳水が編集長となった。芳水は少年詩を発表し、大正3年に発行された『芳水詩集』(挿絵・竹久夢二)は少年たちから絶大な支持を得て版を重ねることになる。

博文館の『少年世界』は、巌谷小波と竹貫佳水が編集の指揮を執っていた。この年の1月、白瀬矗陸軍中尉の率いる南極探検隊が極点近くまで達し、人々の探検への関心が高まっていたのだが、そこで博文館が行ったのが大井冷光指揮の「日本アルプス少年探検隊」である。これは別に記す。博文館関係で見逃せない動きといえば、葛原しげるの11月入社である。10年後に清太郎が作曲することになる童謡《夕日》の作歌者である。

葛原しげるは広島県安那郡八尋村(現在の福山市神辺町八尋)の出身で、祖父は琴の名手、葛原勾当である。明治37年4月に東京高等師範学校に入学した。在学中に、大塚音楽会で外国曲につけた詩を発表したり高等小学読本の懸賞募集に応募したり、早くからその才能をみせていた。高等小学読本の懸賞では見事入選し、42年3月16日発行の文部省編『教訓仮作物語』にその作品「花野原」が掲載されている。田村虎蔵の唱歌に刺激を受けて唱歌作家を目指していたという。41年3月に英語科を卒業して1年後の明治42年春から東京九段にある私立精華小学校初等科の訓導となった。その傍ら、音楽雑誌『音楽界』に「門の大松」という訳詩を寄稿するなど音楽関係の活動も続けた。常勤としての教員職は2年で辞め、明治44年春、同文館が創刊した児童雑誌『小学生』(44年3月創刊)の編集者となった。同文館は当時博文館とならぶ有力出版社である。

編集主任となった葛原は毎号のように自らの作詞で創作唱歌を発表した。《ネズミ》《サクラ》《春》《親鳥子鳥》《噴水のうた》《ブランコ》などで、作曲は小松耕輔と梁田貞である。これが5年後に目黒書店からシリーズで発行される『大正幼年唱歌』全12集(大正4年8月-大正7年1月)の出発点になった。葛原は明治45年5月14日、小学生文庫『さくら博覧会』という本を上梓した。

その葛原が同文館を辞めて、大正元年11月、博文館に移籍し、巌谷小波が率いる『少年世界』の編集者となったのである。葛原は当時26歳。その後、それまでと同じように小松と梁田、沢崎定之・船橋栄吉・外山國彦ら東京音楽学校出身の音楽家と組んで毎号のように創作唱歌を発表した。この一連の創作唱歌は大正3年まで続く。

『少年世界』は明治36年1月から巌谷小波・東儀鉄笛のコンビで創作唱歌を掲載してきたのだが、その詩はまだ文語的表現が多かった。これに対して、葛原は教育現場にも立った経験から、その創作唱歌は子どもの目線におりた新しい時代の息吹が感じられるものだった。

当時の少年雑誌主要3誌のうちの一つ、時事新報社の『少年』は明治45年9月、大井冷光が編集主任となった。室崎清太郎が冷光と知り合い、意気投合するのは5年後の大正6年秋のことである。

[1]北村季晴については、別稿「吉丸一昌の時代」で詳述する。《露営の夢》は吉丸一昌作詞である可能性がある。

(2014/03/15,sat) 表紙絵は上野広小路の戦前絵葉書

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