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生誕140年吉田博展(巡回最終展)に寄せて

2017年夏、SOMPO美術館で開かれた吉田博展に合わせて書いた記事のまとめです。この時点では吉田博人気が一つのピークを迎えていました。たくさんの評論記事がWeb上に出回りましたが、それらとは違う視点で総括しました。この記事は、大変恐縮ですが、今後の資料探索の経費補填のため、有料とさせてください。


(1)客足が少し心配?

昨春(2016年)千葉から始まった吉田博展は、国内5会場を巡回して、最終展が7月8日から東京で始まった。主催者はどう考えているか知らないが、私は傍観者として少々心配している。

事前のチケットプレゼントが余りに目立つ。始めからそんなに客足に困っているのか。だいたい、この美術館の名前が「東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館」と長すぎて覚えられないのが痛い。ジャパンときて日本だから重箱読みかと勘違いするほどだ。

冗談はさておき、上田市立美術館が展開したWEBコラム「週刊YOSHIDA」とか、烏帽子岳登山スケッチワークショップとかのような、美術館本来の企画力を見せてほしい。どれだけ魅力的なイベントにするか、それが本筋だ。それなのに、夏休みも後半になってから開く家族向けイベントでは心もとない。

私なら、まず導入ビデオ『痛快! 吉田博伝』を短く再編集して、WEB動画としてホームページにアップする。このビデオはとにかく面白い。これをPRに使わない手はない。このビデオに解答があるような子ども向けのクイズでも考えてみてはどうか。

山岳雑誌の特集に期待したいところだが、次の8月号では少し遅い。そもそも夏山シーズンでは美術展に紙幅を割くことができる余裕がないのではないか。となると、頼みは毎日新聞だ。吉田博のこぼれネタか、ダイアナ妃がらみのネタをうまく記事に仕立てるか。いずれにしても、毎日新聞学芸部は威信をかけて自社事業を盛り上げてもらいたいものだ。

吉田博《精華》再論を書くつもりが、最初から脱線してしまった。夏山シーズンの吉田博展、つまるところ話題を《劔山の朝》から《精華》へもっていくのがいいのではないか。(2017-07-10)

(2)『グラヒック』と《精華》

黒田清輝と対立した画家、吉田博。その反骨精神をうかがうことができる作品と言えばどれか。

ポスターにある木版《劒山の朝》や《帆船》ではない。ダイアナ妃に愛された木版《光る海》でもない。NHK日曜美術館が取り上げた油彩《穂高山》や木版《渓流》でもない。

それは油彩の大作《精華》である。現代の学芸員たちの間では意外なほど評価が低い。当時の雑誌記事からすると、作画の意図が不明だというのである。ただ気になる作品なのか、図録の解説などでは必ずと言っていいほど触れられている。

岩窟に裸婦とライオンの図。風景を得意とする吉田博にとっては極めて異例のモチーフである。

巡回最終の東京展が始まったので、図録をまた見返していたら、また《精華》に行き着いた。あの『グラヒック』2巻16号(明治43年8月1日)の、今度は記事である。

記事と一緒にある写真については既に記した。アトリエの壁面に掛けられた《精華》を背景に、キャンバスに向かう吉田博の姿を撮った写真はとても意味深である。実は記事もまた意味深なのだ。

あらためて調べてみると、『グラヒック』はこのころ、画家のアトリエを写真で紹介するシリーズを連載していた。2巻6号で竹内栖鳳、2巻13号では橫山大觀が出ている。そして2巻16号は吉田博を紹介した。明治43年8月1日発行だから、《精華》が出品された第3回文展からおよそ半年後である。

「交情蜜の如き吉田博氏と夫人ふじを子 吉田画伯夫妻閒遊鸞鳳相親」
『グラヒック』明治43年8月

1ページの3分の2ほどの誌面で、写真が2枚あり、1枚はアトリエ、もう1枚は妻ふじをとのツーショット。記事は「東西モデルの別」という表題で、表題のあとにすぐ「吉田博」とある。吉田博本人が書いたのか、それとも記者が吉田博から聞き取ってまとめたのか。532字の短い文章には《精華》の2字はない。しかし明らかに《精華》のことを書いている。(2017-07-18)

(3)人物画への苦手意識はあったか

『グラヒック』2巻16号の記事「東西モデルの別」。この記事には《精華》の2文字はないのに《精華》を念頭に置いた文章であることは明らかだ。

記事は主に2つのことを書いている。前半は絵画モデルの和洋比較、後半は象徴画について書いている。

まずは絵画モデルについて。日本では、素人にモデルになってほしいと頼んでも断られる、それは絵画モデルというものへの理解が進んでいないからだと、吉田博は嘆く。

この話は、《精華》の裸婦を描くのに9人ものモデルを要したという苦労話と通じている。明治42年11月、文展の開催中に発行された雑誌『美術新報』9巻1号に「作者の談」という記事が出ている。吉田が自作《精華》《千古の雪》《雲表》について語った内容を、記者がまとめた1131字の文章だが、そこに次のような苦労話が出ている。

女のモデルは前後で9人使いました。どうも日本の婦人は線に面白味がなくて困ります。そのうちの1人はモデルとして名の売れている女ですが、いわゆる日本趣味の美人で、胸が張つていない、腰が出つ張ッて居ない、というところからしてあまり好まれないのですが、私はそのスッキリとしたところを特に選びました。

中沢君の使ったとかいう女も来ました。これも胴がスラリとしていました。それから特に足の長い女を使いました。で胴中も足もとにかく整いましたが、色は思わしくないので別に色のよいのを使いました。

ところで顔に困った。私の思ふようなのがない。親類の内には一人だってそのようなものはない。願はくば華族の嬢様か何かでモデルになってくれる人はないかと思っていろいろ考えて見ましたが駄目でした。
しかるにこの夏、越中へ旅行しました折、富山の新聞記者の紹介でちょうどあのモデルによさそうなのを見付けました。(以下略)

「作者の談」『美術新報』9巻1号 ※読みやすいように仮名遣いなどを改めた

風景を描くのと同じように題材にこだわりを感じさせるコメントである。人物画への苦手意識は感じられない。

吉田は明治42年8月、写生に出かけた富山で偶然出会った芸妓の顔をスケッチすることで、裸婦像を仕上げることになる。その芸妓のデッサンしているときの吉田博のコメントが『富山日報』に記録されている。

「額より鼻にかけての曲線は実に立派です。口もよろしいが顎から咽喉の辺は少しゴツゴツしています。目の大きいのがこの子の特長でよいですが、私の画に用いるのはやや伏し目でありたいからそのように写生します。その代わり顔が似ないかもしれません。髪は束髪が一番面白いから明日は束髪にしてもらいましょう」

(「玉太郎の曲線美」『富山日報』明治42年9月)
吉田博の美人画《月見草と浴衣の女》を使った表紙装丁

これも題材と向き合う真摯な姿勢がわかるコメントである。風景であれ人物であれ、吉田は題材に強いこだわりを持っていた。

吉田は風景画家であり、人物描写を苦手にしていたかのように解説している文章をたまに見かける。その見方は当たっていないのではないか。

吉田博の人物画と言えば、水彩《鳩と少女》そして水彩《月見草と浴衣の女》(明治40年ごろか)がある。浴衣の女の額から鼻にかけての曲線、それから手の曲線には、いかにも吉田がこだわる美が感じられる。

吉田博には確かに人物画が少ない。しかし、苦手だから書かなかった、というのではないような気がする。気に入ったモデルがもっといたなら、吉田博はもう少し人物画を描いていたかもしれない。(2017-07-22)

(4)象徴画・動物画への挑戦

『グラヒック』2巻16号の記事「東西モデルの別」という記事の後半で、吉田博は重要なことを述べている。旧字を改めて引用しよう。

昨今日本の洋画界も風景画はよほど進歩してきたが、人物や動物画の方は極めて幼稚なものである、これも専門の動物画家がないからでもあろうが、一つはモデルが自由でないのにもよるだろうと思われる。それに日本には象徴画家がほとんど皆無である。たとえば象徴画はモデルの線や四季折々の草花木葉の萠芽凋落の状等をふだん頭の中に入れて置いて、描出しようとする画題に応じて気持ちに応じた画材を配合して象徴せしむるのであるから、天才者にあらねば至難の業である。

(「東西モデルの別」『グラヒック』2巻16号、1910年8月)

2度の海外遊学を経て、これが明治43年時点の吉田博の認識である。国内の洋画界は風景画は進歩しているが、人物画や動物画は「極めて幼稚」だという。かなり厳しい見方である。

現代の美術史研究でいう構想画または歴史画を、吉田は「象徴画」と述べているのだろうか。明治40年9月に出版された吉田博『寫生旅行』では、ミケランジェロ《最後の審判》などルネサンス絵画をみて「人間業ならぬ偉大なる手腕」と評している。「天才者にあらねば至難の業」という言い方も、ルネサンス絵画などを念頭にしたものだろう。

『グラヒック』の記事を、《精華》と関連付けて読むとどうなるか。《精華》は裸婦画すなわち人物画であり動物画でもある。「極めて幼稚」な状況に対して、お手本を私が描いてみましたよ、というやや高慢な感じがする。《精華》はとうぜん「象徴画」の範疇であろうから、自分は「至難の業」に挑戦したのだ、と言いたいのだろうか。たしかに誤解を生みやすい記述になっているが、それは吉田の自意識の強さである。

『寫生旅行』のなかの次の記述を読むと、吉田博の性格がよく分かる。西洋の画家たちにひけをとらない、日本魂を強調したあとの記述である。

日本人の癖として何でも早く成功したがる。これがために少し調子づいてくると、画家は直ちに大家になりすます。社会もまたその名によって歓迎する、画家はますます天狗になる。日本に西洋画が入って以来なお日浅き今日、誰でも少しやればたちまち頭角をぬきんずることができる。するともう一節偉い画家になった気取りで、ほかの画家との釣り合い上から高く止まってあまり画筆を執らなくなる。何故そうなるかというに、自分は先生になり澄ましているのに教えを受けてる生徒の方がみるみる上達してきて、時々先生以上の製作をを出すようになる。先生は自分の威厳を保つためか、あるいは均衡上具合が悪いためか、つい製作に縁遠い人になって、先生なる虚名の中に祭り込まれてしまう。こんな人間の空威張りする弊害はいろいろあろうが、弊害はともかくも、私はその人のために甚だつまらぬことと思う。西洋に行ってきたからとて鬼の首を取ってこられるわけではなし、何もそう威張らなくてもよかろう。乞うらくは、も少し度量を広くして、高くとまることをやめ、すぐに腰掛けて休んでしまわないで、永く仕事を続けてもらいたい。

(「日本の日本画及び西洋画」」『寫生旅行』1907年、p352-353)

揶揄を含んだ辛辣な文章だ。吉田博は自分を客観視できた人だ。(2017-07-23)

(5)学芸員の物言いに違和感

ファンとしていろいろ勝手なことを書いてきたが、さらに少し厳しい意見を申し述べたい。

それは2016年、千葉市美術館の美術館ニュースに掲載された「担当学芸員に聞く!『吉田博って どんなひと?』」という記事である。まず、特に強い違和感を感じた部分を引用しよう。

写実という意味ではブレなかったというところは大きいですね。当時はやりの象徴主義的なものとか、表現主義的なものには一切見向きもしなかったし、自分がきれいだと思うものをあえて曲げて描こうとは絶対思わない人でしたね。
__自分の中にある何かを表現したりとか、そういうのではないですよね。
そういうのには、全く興味がない。これだけ人間を描いていないのは、たぶんそういうことで、自分の内面のドロドロしたものを描くとか、他人のそういうところにも、全く興味がなかった人だと思います。人物描写はきわめて少ないし、肖像もほとんど描いていません。
__風景の一部として必要だから入れました、みたいな。
そう。そして多分に外国人の視線を意識して。たとえば「東京十二景」みたいなものに和服の女性を入れるとか。でも1点だけ、明治42年に《精華》(東京国立博物館蔵)という、女性の裸体とひれ伏すライオンという不思議な絵があるんですけれども、それはたぶんヨーロッパのサロンの絵を見て「洋画の王道というのはこういうものか。自分のテクニックで挑戦してみるか」と思ったからでしょう。とはいえ、評判は芳しくなかったので、その後一切ないですね。
__勝負しなくてもいいところではしない、という(笑)
しないしない。悪あがきしない。そういう人ですね。大きな挫折もなさそうです。現在あまり評価が高くないのは、日本人好みのそういう葛藤や絵描き特有のエピソードがないからかもしれません。

(美術館ニュース『C'n』78号、2016年5月3日発行)

この文章を最初に読んだとき正直がっかりした。吉田博展を担当する学芸員がこういう認識なのか。分かりやすく人柄を紹介しようとしたのだろうが、誤解を招く軽率な記述があまりに多い。

《精華》というのは、吉田博が象徴主義的な絵画を意識していた証ともいうべき力作だ。「一切見向きもしなかった」というのは違う。《精華》には、文部省・警察・白馬会など権威への批判が込められていることはほぼ間違いない。自分の内面にある煮えたぎるような熱い思いをこの《精華》に込めたのではないか。

サロンの絵を見てヒントを得たのではないかという推測には賛成しよう。しかしその後がいけない。「洋画の王道というのはこういうものか。自分のテクニックで挑戦してみるか」と思った、などという言い方は失礼千万ではないか。吉田博本人が聞いたら呆れることだろう。作者が故人であるから気が抜けてこういう軽はずみなことを(笑)を交えて書いてしまうのだ。

吉田博という画家は、テクニックを極めるために絵を描いたのではない。あくまで美を追求したのである。絵を描くことで美というものを人々に見せようとしたのであって、自分のテクニックを見せるために絵を描いたわけではあるまい。至極当然のことであるのに、技巧にとらわれていたかのような物言いに強い違和感を感じる。版画の超絶技巧にばかり注目しすぎなのではないか。吉田博は技術の人というよりも感性の人だ。

「勝負しなくてもいいところではしない」とか「悪あがきしない」とか「大きな挫折もなさそうです」とか、ずいぶん勝手な物言いである。《精華》は吉田博がまさに勝負をした絵ではないか。ほかにも勝負した絵はいくつもあることだろう。画家としての挫折があるかないか、どこまで調べたのかは知らないが、こういうことを学芸員が安易に語ってはいけない。学芸員の言葉が滑っていることを、本来は聞き手あるいは編集者が気づいてチェックしなければならないのに、一緒になって愉快になっているから、よけい始末が悪い。

ついでに言っておくが、記事中の「セルフ・プロデュースの人」という言葉も褒められた表現ではない。売るために描いたという部分を強調してしまうのは読者の気を引くためでしかなく、それは美術の本筋ではない。なぜ吉田博の審美眼という正当な論点で話をしないのか。少々ひねくれた人が売り絵だとか商売人だとか好き嫌いを書くのならそれでいいが、担当学芸員がこうした論議に誘導するのはいかがなものか。

次の記述もすこし軽率だろう。引用しよう。

吉田博は若い頃に、ジャポニスム全盛のパリ万博へ行ったり、明治末から震災後にかけて3回欧米をまわっているんだけれども、その頃日本美術は結構人気があったので、「日本には浮世絵とか日本画とか素晴らしい絵の伝統があるのに、なぜ君は洋画をやるのかね?」(「日本人なのに西洋人の模倣をするのか?」)とよく聞かれたそうです。
「じゃあなぜ自分は洋画をやるのか」と考えた。
ヨーロッパでサロン絵画とか万博とか実際に見ているので、本格的な油絵では、日本人である自分は絶対に追いつけないということを、早くに自覚 したのではないでしょうか。

(美術館ニュース『C'n』78号、2016年5月3日発行)

関心がある読者は、明治40年の『寫生旅行』のp359-360に吉田博本人が書いた文章が残っているので、一読してもらいたい。(国会デジタル211コマ-212コマ) 30歳にしてこの境地、さすが明治人である。なかなか読みごたえがある。

吉田博は、西洋の画法を借りて日本の精神(日本魂)を表現しようとしている、真似たからといって本元の外国人の仕事に追いつけないという話にならない、と書いている。「絶対に追いつけないと自覚していたのでは」という学芸員の見方は、作者の本意とは真逆ではないか。以前にも書いたが、パリ万博の絵画を見て敗北感を抱いたとか、油絵で西洋に追いつけないと自覚していたとか、なぜこんなおかしな推測になってしまうのか。いま一度『寫生旅行』を読み直してほしい。

吉田博展に水を差すのはよくないと思い、ずっとしまい込んでいたが、もう巡回展も終わりなので率直に批評させていただいた。図録やポスターを制作したときの根底にある「ウケを狙うような軽い感じ」、それがこの記事にもよく出ている。当事者のかたがたは大いに反省してほしい。リベンジするなら没後70年か生誕150年である。(2017-07-24)

(6)青木繁番組と見比べて 日曜美術館再論

先日、NHKEテレ「日曜美術館」で「魂こがして 青木繁~海を越えた“海の幸”と石橋凌の対話~」を放送していた。青木繁は、吉田博と同じ久留米市出身で6歳年少、《海の幸》で知られる。画家としての知名度は青木繁が上だ。吉田博はどうしても版画家のイメージが強い。

青木繁と吉田博を比較しようというつもりはない。画風が大きく違う。つい比べたくなったのは、番組そのものである。同じ「日曜美術館」で、同じ時代の洋画家、ほぼ同じ番組尺。なのに構成は全く違っている。番組制作者の視点が違うのだ。

「魂こがして 青木繁~海を越えた“海の幸”と石橋凌の対話~」 ディレクター岩田弘史氏(レノンズ)2017年7月放送
「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 ディレクター井上元氏(オフィスラフト)2016年7月放送

一言で言うなら、青木は人物ドキュメンタリー、吉田は美術エンターテインメントか。

青木繁の番組はいきなりパリの美術館から始まる。画家本人は渡航の夢を果たせなかったけれども、100年余り後に作品が海を渡ってパリに来た、という。案内役はミュージシャンで俳優の石橋凌氏。青木繁と同じ久留米出身である石橋氏が、久留米に《海の幸》の緞帳を訪ね、《海の幸》の舞台となった千葉館山を旅して、青木繁の魂を感じ取る、という展開だ。表題にある「魂こがして」は39年前に石橋氏が作詞した歌。青木繁の墓前で生歌を捧げるシーンがヤマ場となる。「魂こがして」と内容がぴったりで、39年前から台本があったのではないか、ディレクター岩田氏も久留米出身ではないかと思われるほどだった。

一方の吉田博の番組。ダイアナ妃の執務室に掛けられた版画から一気に引き付ける。案内役はアナウンサーと研究者やゲストなど数人がいて、展覧会場で会話する。そしてVTRを挟んで作品の魅力を紹介していく。片道切符の渡航で成功を収め、黒田清輝らの白馬会と対峙した流れは比較的短くまとめられている。内容の半分以上は木版画の話題に割かれ、特に昔の版木を使って超絶技巧を再現するシーンが見どころだ。登山家の一面はあまり触れられなかったのが残念だが、版画家吉田博の取り上げ方としてはそつなく上出来だった。

どちらの番組も面白かった。岩田氏が吉田博を描くとどうなるのか、井上氏が《海の幸》を取り上げるとすればどうするか、見てみたい気がする。

青木繁の番組は、タイトルに「石橋凌の対話」とあるように、石橋凌氏という個性的な人物がいなければ成立しなかった番組だ。その点で美術番組の枠にはまらない。奇妙な言い方になるが、私にとって青木繁は響くものが感じられなかったのに、石橋凌氏にはとても共感した。墓前での歌に聴き入ってしまった。たとえ歌うことが台本上想定されていたにしても、撮り直しのきかない緊迫感があった。カメラのブレを覚悟して顔の表情をアップでとらえるため一瞬映像が暗くなったのが逆にリアルだった。

吉田博は、45分間の枠ですべてを紹介しようと思っても無理である。黒田清輝との対立を簡単に描こうとしてやや無理が生じたことは既に指摘したが、それは止むを得ない。吉田博の画業は幅広くしかも奥が深い。まともに取材するとなると、ロケが大変だ。まず3000m級の北アルプスに登らなければならないし、海外の取材先はアメリカからヨーロッパ・アフリカまでとてつもなく広範囲になる。そこは見切って、美術番組として木版画に力点を置いたのは45分番組として当然の選択だったであろう。

ただNHKであるならば、吉田博という人物を、日曜美術館にとどまらずNHKスペシャルで取り上げてほしい。日本と西洋を見て歩き、西洋に気後れすることなく、洋画の画法をもって日本魂を描いた気骨ある人物である。国内においては、芸術がすくなからず抑圧された息苦しい明治時代後期に、絵画を描くことで自己主張した。2018年は明治150年である。政府の宣伝にくみして礼賛するわけではないが、明治という時代をテレビ番組で振り返るのなら、吉田博は映像化・ドラマ化にいい人物だ。さらに大河ドラマの脚本になるといっても過言でない。(2017-07-27)

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