【追悼】大井冷光 ― 巌谷小波・久留島武彦・安倍季雄

3月5日は、大正時代の児童雑誌編集者、大井冷光の命日である。
1921年、大正10年のその日、神奈川県の逗子小学校で大勢の児童を前に講演中、心臓麻痺で倒れ、帰らぬ人となった。その突然の死について、児童文化運動の巨人ともいえる巌谷小波と久留島武彦が書いた文章を再掲して、冷光への追悼としたい。

児童文学や読み聞かせという分野で現在仕事をされている方々に、ぜひ一読していただきたい内容である。3月5日の「冷光忌」をきっかけに、今いちど大井冷光という人物を偲びたいものである。

最初は、『東京朝日新聞』の投書欄「鉄箒」である。大正10年3月14日3面。葬儀を終えてまだ1週間というときに、巌谷小波は矢も盾もたまらず社会に訴えでた。自分の30周年の祝いと比較したところに、小波の熱い胸の内がうかがえる。


巌谷小波「不幸なる玉砕」『東京朝日新聞』大正10年3月14日3面

◇嘗て受持生徒が水に落ちたと聞いて、続いて川に落ちた某訓導に対しては、知るも知らぬも非常に同情して多大の慰謝金が其遺族に送られたり、為に活動写真まで編まれて、日本国中に義名を謳われた。此頃担当の囚人を助けんとして、自ら鉄路の露と消えた巡査某も、将た聾爺を救はんとして、同じ列車の轍に斃れた踏切番の姿も等しく公私の嘆称を博して、弔魂の方法は遺憾無く講ぜられた。然るに、兎角軽率なる社会は、茲に是等に敢て譲らぬ、壮烈な最期を遂げた一人者のあるのを雲煙過眼に附し去ろうとする。何たる片手落の沙汰であらう。
◇其一人者とは誰であらう。去三月六日の時事新報に依ってのみ報ぜられた『少年』『少女』記者の大井冷光君である。君は先月の末から約一週間、神奈川県三浦教育会の聘をうけて管内各所の小学校に、可憐なる小国民を樂ましむべく、十数回の講演を試みた揚句、遂に逗子小学校の演壇に於て、口演半に心臓麻痺を起し、六百余の生徒と数十の教職員の面前に於て、俄然不帰の客となったのである。
◇少年文学を以て天職とする者として、此日此場に於ける此種の最期は此上も無い立派な、犠牲ではないか。軍人の戦場に屍を曝らすのと、毫も異ならぬ殊勲ではないか。
◇況や氏は、その甚だ豊ならぬ家に、老いたる母と、若き妻、幼き子女五人とを遺して、不意に此世を去ったのである。然るに尚社会は其死を軽々に看過する許りか、是等不幸の遺族の上にも、遂に一瞥を吝む観があるのだ、甚だ心を得ぬ事だと思う。
◇今年は私が少年文学を創めてから、満三十年目に当ると云ふので、友人や知人が祝ってくれると云ふ。それは感謝に耐へぬ所であるが其発起者の一人であって、而も同業者たる氏の急変は私に無量の感慨を浴びせた。あゝ、玉砕は瓦全に如かず、生者と死者の間には、斯うも幸福の不均衡なものか。(巌谷小波寄)

【編注】この記事には反響があり、『東京朝日新聞』3月20日付5面に長野県から金10円の弔慰金が寄せられたことが記されている。

以下の3つの文章は、久留島武彦・安倍季雄・巌谷小波の3氏が、冷光の遺著『鳩のお家』(1921年5月)に序文として寄稿したものである。冷光は生前、巌谷が午年生まれで馬の玩具を、久留島が戌年生まれで犬の玩具を収集しているのに倣って、酉年生まれであることから鳩の玩具を集めていた。そして、大正6年から編集担当となった雑誌『少女』を鳩ちゃんという愛称で呼んでいた。『鳩のお家』は自分の作品集という意味で名づけられた。3人の恩師は序文でそれぞれの個性を見せながら冷光の急死を心から惜しんでいる。

久留島武彦「美しき君の遺著に」『鳩のお家』大正10年5月

大井君の新著『鳩のお家』が出来上ったと、楠山正雄氏からの知らせがあった。大井君が此の一冊を過去十年の決算として纏めたのは去年の秋であった。

郷國富山を出て満十年、此の一冊が先生不断の御鞭撻に対する感謝の萬分の一を表明するものとなれば仕合せで御座いますと、彼の真面目な顔で自分の書斎に両膝をつきながら話したのはつひ此の間の事であった。然し自分は大井君を鞭撻するよりも、寧ろ大井君から常に鞭撻されて居ったのであった。

一月末欧米戦後の視察旅行から還って来た時、大井君は有楽座に、多数の少年少女と共に自分を迎へて、これからは中央に於て子供の為にも少し腰を落着けて働いて貰はなくてはならないと、舞台の上でしっかりと申渡されたのが今だに耳底に響いて居る。

然し自分は、中央には人が多い、可憐さうなのは田舎の子供だ、君が中央に意義ある童話の研究をして呉れゝば、自分は地方にその宣伝と弘通の為働かう。君は身体が健康で無い、自分は、幸に頑健だからと云ふと、頑健にも程度があります、今先生に斃れられては困りますと、大真面目に叱責されたが、その困りますと云った君が、卒然として白玉楼中の人となって、那の位吾等を困らせたか、童話研究界の一燈明台とも仰いで居ったその人を失った不幸と困惑は、日を重ねるに従て一層吾等に悲痛の感を深からしめる。

然し君の最期の如きは、羨みてもあまりある美しさであった。神奈川県三浦郡下巡回講演の一夜、逗子小学校児童の対話唱歌に特色があるをきゝ、旅程を変えて夜行して逗子に入り、翌日午後心ゆくまでに子供等の唱歌と対話に楽しみ、さらば僕もお禮に一つお話をしようと、七百の児童を前に、君が得意の満州土産血染の日章旗と云ふ支那義勇少年の日本軍を助けたる話を試み、ほゞ話の大体を終って、両手をひろげた刹那、其の儘に倒れて自ら話中の人と化し去ったのである。

その前夜君は車上に逗子に近づきて句あり。

 波の音、落椿、芝居心の夜道かな

と、君は自ら讀んだ句中の落椿のやうに、ホロリと落ちて、落ちて反って美しさを増したのであった。

小波氏とも語ったのであった。斯う云ふ最期こそ吾等の尤も望むところでは無いかと。而も此の望ましさ、此の美しさは、君のみ永く独占するところのものであらう。

君は去った。然し幸に『鳩のお家』は、こゝに君の面影として永久に残る事となった。『鳩のお家』を建てた君は、誠に鳩の如き平和の人であった。永遠に平和は君を偲ぶ人の上にあるべし。君の遺著を讀む子等の上にあるべし。

久留島武彦

安倍季雄「序文に代へて」『鳩のお家』大正10年5月

大井君は他人の序文で自分の著書を飾る事が嫌ひな人であった。『哈爾賓まで』『母のお伽噺』『蜜柑船』||どれを見ても自序以外に何人の序文をも添へてない。『鳩のお家』も無論その積りであったらうが、思ひがけない運命の下にあれほど世に出るのを楽しみにして居た『鳩のお家』が、故人を偲ぶ唯一の遺著として世に問はれる事になったので、先輩として巌谷小波君、恩師として久留島武彦君、多年の友人として僕が序文を書かされる事になった。著者もどんなに不本意だらうが、吾々もこんな悲しい出来事の為に、君が嫌ひな序文に署名しなければならなくなった事を千秋の恨事とする。

大井君が久留島君の紹介で初めて僕の処にやって来たのは大正元年の夏頃であったと思ふ。丁度『少年』の編輯員に欠員があったので、早速君に入社して貰ったのがきっかけで、爾来足かけ十年間、僕は毎日君と机を並べて同じ仕事をして来たのである。

『少年』及『少女』の記者として、大井君は勤勉忠実、実に理想的の編輯員であった。前には『少年』、後には『少女』の編輯一切を君に委して僕は過ぐる十年間少しも不安を感じなかった。講演に、執筆に、行く処として佳ならざるはなき君は、多忙なる編輯事務のかたはら、童話及童話劇研究の創作に熱中した。『鳩のお家』に収められた五十余篇の童話は実にその間に成れる力作の結晶である。

今の童話及び童話劇に関しては、大分議論があるやうだ。吾々子供党にも亦相応の意見もあるが、それはこゝで言ふべき事ではない。併し||兎に角大井君の童話及び童話劇は、よく子供の心理を理解し、常住子供と握手し、どこまでも子供を本意として書かれた、真に権威あり、意義ある、真の童話、真の童話劇、であった事だけは確かである。近時童話熱の勃興につれ、名を童話に借りて、その実子供はつけたりで、専ら一部の小学校教員や、文学書生を目安にして場あたりを狙って居る今の文士、創作家の所謂童話、所謂童話劇とは全然類型を異にして居るのだ。此の意味に於いて『鳩のお家』は、三十七歳にして夭折せる著者の遺著として尊重すべき価値以外に、少なくとも日本の少年文学界に、一新時期を画する注目すべき宝玉であると確信する。

君も嫌ひ、僕も嫌ひな序文にかへ、之だけの事を記して君の尊き芸術に深甚なる敬意を表する。

君の芸術の揺籃ともいふべき
 時事新報社『少年』『少女』編輯局にて
大正十年三月二十九日

安倍季雄

巌谷小波「鳩の家の序」『鳩のお家』大正10年5月

鳩の家の著者は、鳩の如く温順に、鳩の如く怜悧な人であったが生憎にもその胸部は、鳩の如く強健ならず、彼の遠く数百哩に使するに反して、僅かに二三町の疾走だに、耐え得ぬ弱き心臓の持ち主であった。然るに天はその人の脊に、過分の重き荷物を担はしめた。否自ら進んで其重荷を負うて居た。之が其命を縮めた原因であった事は、今更悔んでも飽足らぬ所である。併し此弱き肉体の中には、又強き精神のあったればこそ、短時間に多大の荷物を運び得た事は、実に驚嘆に値する。即ちこの鳩の家の如きも、其遺業の一にして、而も大なるものなのである。之を思へば逝く者も瞑すべく、送る者も亦聊か自ら慰めるに足ろう。そして著者其人の死は、真に名誉の死であった、理想の最期であった。あゝ此の光輝ある死者の印象は何れ丈我等同人を感奮せしめたであらう。我等は此鳩の家の陰に集うて永く其余影を称ふべきである。
大正十年四月

巌谷小波

【編注】巌谷小波の文章には、具体的な思い出が記されていないが、実に深い。冷光が上京して10年という短い間に多くの仕事を残したことを「驚嘆に値する」と賞賛している。これは世辞ではない。明治42年春に富山を訪れたとき冷光がいきなり『越中お伽噺』という記念出版をして歓迎してくれたことや、明治45年夏には巌谷が主筆をつとめる雑誌『少年世界』で日本アルプス少年探検隊を指揮して連載記事を書くという、いずれも度肝を抜かれるような仕事ぶりが、巌谷の脳裏におそらく浮かんだことであろう。

久留島は冷光の5人の遺児のうち2人を預かり養育した。

また3氏の熱い気持ちは、約8か月後の大井冷光追悼お伽講演会の開催につながる。それは大正10年11月23日、帝国劇場という、あの「少女音楽大会」を開いた国内最高のステージで開かれた。講演会や遺著刊行の収益金は、遺児に寄付されたという。

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