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WEBで吉田博作品鑑賞〔2017年〕

吉田博作品の周辺話題を取り上げた独自ダネです。


(1)2つの《街道》を比べて

いまから20年前の生誕120年展図録『近代風景画の巨匠 吉田博展 清新と叙情』を見ていて、不思議に思っていたことがある。それは、あの水彩《山路》の対抗ページにある《街道》という水彩画だ。英名《Highway》。《山路》と同じように140年展では扱われなかった。1903年の作で、サイズは同じくらい。つい見比べてしまうわけだが、《街道》は一見して貧相な松並木の作品である。なお、静岡県立美術館が《街道》を所蔵しているが、これは別の作品である。

やや上り坂の道がただまっすぐ伸びている。道のわきにひょろ長い松の木が10本余り。添景の人物と馬は道のわきに止まっている。その反対側には民家だろうか。曇天なのか、雲さえ見えない。こりゃ味わいがない、道路山水くずれの凡作だなあ、というのが第一印象だった。

ところがある時、WEB上でこの絵を見つけて驚いた。大きなサイズの画像なので、拡大すると細部が見える。3人が道端でたたずんでいる。1人は女性で笠のようなものを背負っている。たくさんの荷を背負った馬は尻を向けている。これだけ細密に描くとはさすが吉田博だ。

《街道》 明治36年  34.3×50.8 水彩
《街道》(補正)
街道(部分) 名刺大サイズに相当


ひとしきり感心して、再び絵全体に視野を広げた瞬間、なんと、それまで見えなかった富士が見えたのである。隠し絵ではないけれども、経年変化に伴い黄ばみ、隠れたような状態になっていたわけだ。

貧相な松の並木の向こうに、雪をかぶった富士山がほのかに見える。その裾野はもはやほとんど消えている。これか、これだ。吉田博がとらえた主題は、街道の向こうに微かに見える富士だったのだ。その奥ゆかしさに吉田博は美を見いだしたに違いない。富士山がくっきり見えてしまうと、ありきたりの絵になってしまう。ほのかに見えるからこの絵は凄いのだ。やや登り坂になった道には、雨が流れて削られたような跡も描かれている。

鑑賞者というのは現金なもので、平凡だった作品ががぜん秀作に見えてくる。

WEB上には、この構図と非常によく似た別の水彩画が存在する。題名は《富士の見える街道》。英名《Farmhouse and figures on a tree lined path overlooking Mt_Fuji》

《富士の見える街道》 明治36年頃 35.5×50.5 水彩
《富士の見える街道》(部分) 名刺大サイズに相当

松の木立と民家、そして往来を行く人という主題はほぼ同じ。しかし、富士山はしっかり描かれ、雲まで描かれている。民家のそばにも2人ほど人影がみえる。やはり吉田博が描いた作品なのだろうか。いささか疑念が生じるけれども、署名をみるかぎりは紛れもない吉田博作品だ。同じ場所から写生し、描き分けたのだろうか。

《街道》の方が断然、詩情がある。同じ場所でも目の高さが低く、パースペクティブが違う。やや傾いて伸びた松の樹形にも断然、趣がある。画面全体に占める路面が広く、安定感がある。坂道に表情がある。

一方の《富士が見える街道》。添景人物は、《山路》のそれと似ていて丁寧に描かれているように見えるけれども、前の2人と後ろの人物との関係性が薄いように思える。《山路》のように民家が茶屋であるなら、まとまりがでてくるが、そこまでは分からない。周囲の草むらや路面の描き方はけっこう雑な印象がある。

別の人が描いたのではないかという疑念がぬぐえない。仮にどちらも吉田博が描いていたとしても、描いた時期が違うと見たほうがいいのではないか。鑑賞する側に、どちらがいいと思うか言ってみろ、と吉田博が言っているのかもしれない。(2017-09-09)

(2)情緒あふれる《村祭りの帰り》

吉田博の水彩画には、農村風景を叙情的に描いた作品が多い。

140年展に展示された《汐干狩り》《村の橋》《雨の中の子守》などはそうした雰囲気が漂っている。WEBには、ほかにも同じような明治日本の情緒あふれる作品がある。

《村祭りの帰り》  44.9×65.3 水彩

中でも秀逸なのは《村祭りの帰り》だ。英名は《Returning from the Festival》。祭りからの帰り道を歩く人々を描いている。小高い鎮守の森で村の春祭りがあったのだろう。2本の幟旗と境内の赤い幕が背後に見える。画面左の水田には水が張られ、右にはおそらく梅林が花が盛りである。境内の広葉樹はまだ葉を付けていない。霞がかかったような梢の描写がすばらしい。画面左、遠くに参道が見え、かすかに別の幟旗も見える。

(部分) はがき大サイズに相当

たぶん、画面中央に描かれた道は参道ではなく裏道なのだろう。ざっと20人ぐらいの人影が描かれている。一番手前の女性は赤ちゃんを背負って傘を差している。雨が降っているわけではなく、赤ちゃんを日差しから守るためだろうか。横にはやはり子どもの背負った女性が、後向きで、子どもに話しかけている。黒い着物姿の人も見える。

村祭りの絵といえば、祭りそのものを題材にしたくなるものだ。明治43年から使用された『尋常小学読本』巻5には、いかにも村祭りという挿絵が出ている。吉田博は、そうした賑わいの風景よりも、一歩下がって余韻を感じさせる風景に目を向けたに違いない。

生誕140年展の作品の中で、水彩《富士山麓の村》や《鳥居の下の人々、花咲く日本》《吉野》は鳥居がシンボリックに描かれていた。吉田博は鳥居を意識していたのかとも思っていたが、この《村祭りの帰り》には鳥居がない。吉田博がこだわったのは形ではなく、情景なのだろう。おそらく明治30年前後から明治35年前後か。(2017-09-15)

(3)童画《花摘み》の奇妙な余白

吉田博の水彩でもう1つ見逃せないのは淡彩《花摘み》である。これも叙情的な雰囲気の漂ういい作品だ。英語では《Picking Flowers in a Field》。訳語は《摘み草》か《野遊び》でもいいかもしれない。

《花摘み》 46.8×33.6 水彩
(詳細) はがき2枚分に相当

藁が干してあるので秋の野原だろうか。ねんねこ袢纏を着て子守りをする女の子は後姿である。背負っている赤ちゃんはのけぞるように顔を天に向けている。3人の女の子が駆け寄ってきた。2人が手に花を持っている。子どもの足元は草に隠れて見えない。

よく見ると、子守りの子も右手に摘んだ花を束にしている。女の子が野の花を摘み、子守りの子に見せにやってきて、手渡すとまた摘みに行って、戻って来る。それが繰り返されているのだろうか。

現代では写真のような絵画、写実絵画が注目されている。葉っぱを1枚1枚描く画風だ。吉田博の写実はそこまで細かくはない。うまく省略しながら、野草を細かく描いている。あの《雲叡深秋》で河原の無数の石や岩を描き切ったのだから、草花を描くことにも挑戦していたろう。

吉田博の数少ない人物画に水彩《少女》という絵がある。草を手にした一人の少女がうつむき加減でたたずんでいるもので、明治27年-32年の作品と見られている。この《花摘み》も淡彩なので、おそらく同じ頃の作品だろう。

それにしても《花摘み》の縦構図はすこし訝しい。上半分の余白がありすぎる。どれだけ目を凝らしても何かが描いてあるように見えない。広い野原ならふつうは横構図が妥当だ。いつもの吉田博ならば、木版《劔山の朝》のように上半分に雲や山並みを描いて全体のバランスをとる。それなのになぜ、上半分に何も描かれていないのか。未完の作なのか。(2017-09-18)

(4)《仁王像と子ども》と子守り場面

「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」という展覧会が2015年に開かれた。ボストン美術館と東京芸術大学の所蔵品約150点が展示された。展示リストの最後にあるのが、吉田博の《妙義神社》と中川八郎の《仁王》である。2人は1899年(明治32年)9月に渡米し、翌年2月7日にボストン美術館で二人展を開いたが、そのとき同美術館が買い上げた作品らしい。ダブル・インパクト展の観覧者のなかで、2人の物語に興味を抱いた人はどれほどいただろうか。

中川八郎 《東大寺の仁王像》明治32年頃 水彩 51.6×34.7 ボストン美術館蔵
吉田博 《仁王像と子ども》(《Children at Myogi Shrine》)明治32年頃 
水彩、49.5×32.8 ボストン美術館蔵
(部分)  はがき大相当

WEBでボストン美術館のデジタルライブラリーを閲覧した。同館は吉田博作品を198点も所蔵する。ほとんどは木版画だが、中には水彩画4点がある。

《Children at Myogi Shrine》 49.5×32.8cm
《Kara-mon, the Innermost Gate of Nikko》 49.0×60.0cm
《The Balcony of Myogi Shrine》(妙義神社) 76.0×53.8cm
《Garden in Snow》(雪の庭) 68.1×50.9cm

ダブル・インパクト展に来ていた《妙義神社》は英題《The Balcony of Myogi Shrine》だった。

《Children at Myogi Shrine》の方も見たかったなあと思う。日本語題は《仁王像と子ども》があたりがいいか。

《仁王像と子ども》と《仁王》とでは似た題材だから、関係者が気を利かせ、《妙義神社》の方を選んだのかもしれない。最初、2つを見比べた時、同じ仁王像を描いたものと思っていたが、それは勘違いだった。中川の仁王は東大寺南大門の金剛力士像であり、吉田博の仁王は群馬県富岡市にある妙義神社の金剛力士像。

2つの作品が並べて比較できたらどんなに面白かったろう。吉田博らしさが分かったような気がする。

中川の《仁王》はあくまでも正面から描いた金剛力士(阿形)が主題であって、その足元にいる3人の路上楽師らしい人物は、金剛力士の大きさを際立たせるためにいるようにも見える。そこに居たのか、それとも添景人物として描き足したのか。

一方、吉田博の《仁王と子ども》は金剛力士(阿形)だが、やや斜めから描かれている。肝心の左手の杵は見えない。足元にたたずむ子どもにまず目が行ってしまう。その子どもは、2人が赤ん坊を背負っていて、しゃがんだ2人を見下ろすように視線を送っている。仁王を主題に描くならやはりもう少し正面寄りの位置取りがいいだろうに、吉田は仁王の姿よりもまさにここに子どもが居るという情景を優先しているのだ。これは、太鼓橋で遊ぶ子どもを描いた《宮島》と同じである。

2つの仁王の絵を比較すると、吉田博は子守りをする子どもに何らかの作画意図を持っていたのではないかとも思える。

そういえば、吉田博の絵には赤ん坊をおぶった姿がなぜかよく出てくる。前述した《花摘み》はまさにそうだし、《雨の中の子守》も農村の一風景だ。《汐干狩り》も子守りを含めた人物群像がすばらしい。この時代の画家は子守りをよく題材にしたのだろうか。この視点で調べてみると案外面白いかもしれない。(2017-09-23)

(5)謎めいた水彩《庭園の婦人像》

本当にこれが吉田博の水彩画なのか。目を疑いたくなるような作品をWEBで見つけた。

題は《庭園の婦人像》。京都国立近代美術館が所蔵している。1904年(明治37年)ごろの作らしい。吉田博は明治36年12月29日から義妹ふじをとともに渡米し、帰国したのが明治40年2月だから、アメリカ外遊中にこの絵を描いた、ということなのだろうか。

《庭園の婦人像》明治37年ごろ水彩・紙 33.1×24.5京都国立近代美術館蔵

デジタル画像で見るかぎり何とも冴えない絵だ。赤紫色の着物を着た丸髷の女性が、庭の橋のような床のような場所を歩いている。やや斜め後ろから見た姿。女性の進む方向と顔の向きにぎこちなさがある。あの《月見草と浴衣の女》のような女性美はみじんも感じられない。気品がない。画面左上には、あずまやと藤の花が描かれている。画面右に猫足の置き台があるが、なぜか歪んで見える。橋の下はたぶん池で、水面に藤の花が写り込んでいるのだろうが、描き方が妙に雑である。即興の作なのか。

橋の手すりに沿って「H.yoshida」の署名がたしかにある。しかし吉田博の水彩画の画風とはかけ離れていて、謎めいている。

京都国立近代美術館が購入したのは平成22年度というから比較的最近のことだ。ここ数年の吉田博展リストでは見かけないし、生誕140年展にも出ていなかった。どうしても気になるので同館に問い合わせてみた。すぐさま丁寧な回答があって、正式な調査はできていないが「パリ万博日本館をモチーフにしたものではないかという指摘」があるのだそうだ。1900年のパリ万博と1904年ごろ作とつじつまが合うのか、1904年ならセントルイス万博か。今後の調査を注視したい。ただ、この《庭園の婦人像》は購入後まだ展示公開されたことがない、という。

購入後6年余りたって調査が進んでいないということなのだろうか。逆説的な言い方になるが、それなら140年展で《庭園の婦人像》を展示して、謎の作品として話題づくりするのも一案だったのではないか。

さて国立美術館の作品検索によれば、吉田博作品は東京国立近代美術館に14点(うち木版6点)、京都国立近代美術館に2点が所蔵されている。このうち有名なのは明治40年の第1回文展で3等となった水彩《新月》、そして水彩《養沢 西の橋》、油彩《高原の牧場》《白馬鎗》(4点とも東近美蔵)あたりだろうか。

それにしても、国立美術館の作品検索で鑑賞できる吉田博作品のデジタル画像は、色調や濃度が調整できていないものが散見される。ポジフィルムからデジタル化したのだろうか。最近の吉田博展の図録と比較すると一目瞭然なので、できるなら調整してほしいものだ。調整だけならそんなに手間がかからないはずである。

美術館は実物を鑑賞してもらうのが仕事、ネット上にデジタル画像を公開するのが仕事ではない、と反論する向きもあるだろう。しかし、米国の美術館の作品検索をしていると、日本はこの方面で立ち遅れているような気がする。デジタル画像で見てから、実物を見る、という鑑賞者も増えているのではないか。(2017-09-26)

(6)《京極》よりも《京都》がいい

WEB上で鑑賞できる《京都》という鉛筆淡彩の絵がある。いかにも吉田博らしいしっかりした遠近法で描かれている。手前の建物ほど線がくっきりと色もあるが、画面中央奧の三重塔は輪郭がややぼけて色もない。霞がかかっているようだ。この山並みはどの方角なのだろうか。

《京都》 23.0×32.3

連なる軒先の細密な描写がいい。17歳の時の鉛筆画《京極》と似た感じもあるが、奥行き感や画面全体のまとまりは《京都》が断然いい。建物の土台を見ると、通りはやや登り坂になっているようだ。

《京極》明治27年 鉛筆 23.0×32.3
(部分)はがき大に相当

鉛筆画といえば、WEB上には《Near Nakagawara》(おそらく中河原付近)という絵もある。鉛筆の線が強く残っている作品で、中央に描いた馬がどうもぎこちない。かなり初期のスケッチか。画面右上に「野田刈盡秋郊齊鳥雀群飛満夕日」と漢文が記されている。「H.yoshida」の署名の下に「Near Nakagawara (92)Nov.29」とある。(92)は後で書き足した可能性もある。

WEBにはこのほか、吉田博のスケッチとして《御殿場》(1894-1899年ごろ、28.2×38.4)、茅葺きの農家と谷あいを描いた題不明の素描作品(1894-1899ごろ、26.8×58.4)が鑑賞できる。たしかに吉田博らしいスケッチだが、いずれも残念ながら署名がない。(2017-10-05)

(7)2つの《船津》の抒情

吉田博には、《船津》という水彩画が2点ある。吉田博の船津といえば、木版画「富士拾景 船津」が有名だ。これはどうみても川口湖近くの船津(現在の富士河口湖町船津)の風景だ。水彩画の2点は富士が見えないので、よく分からない。飛騨神岡もかつて船津といい、吉田博が明治時代に訪れた場所だからその可能性がある。が、やはり順当なら、河口湖近くの船津だろう。

《船津》水彩 福岡市美術館蔵

その2点の《船津》、1点は福岡市美術館が所蔵する鉛筆淡彩画。ひなびた建物が並ぶ山村の小径を一人の子どもが歩いている、何でもない風景だが味わい深い。緑色の濃淡、茶色の濃淡で、うまく表現している。

《船津》水彩 25.5×42.9
(部分)はがき大に相当

もう1点の《船津》はWEB上にある鉛筆淡彩。筆致はよく似ているが、こちらは山村の街道筋をとらえている。2頭の馬と2人の人物が添景で、こちらの方が物語性がある。

写生する際には相当に細密な部分まで観察しつつも、着色していくときには省略しながらすばやい筆さばきで全体をうまくまとめる。これが吉田博の水彩風景画の魅力だろう。

《YAMAURA》水彩 27.0×37.5
(部分)はがき大に相当

《YAMAURA》(たぶん山浦)という作品も同じ雰囲気の作品だ。画面下は滔々と流れる川。岸の断崖に細い道が斜めに続く。親子ともう一人荷物を背負った人が登っていく。断崖の上には農家らしい建物が見える。黄土色から緑色へ、わずかな色の濃淡の差を使って断崖を描き切った点はさすがだ。輪郭線がほとんど使わていないあたりは、水彩《養沢 西の橋》とも似ている。

《興津》水彩 26.8×49.6

同じ頃とみられる作品で《興津》もすばらしい。海岸の岩場を茶色の濃淡で表現し、釣り人らしい添景人物と富士山を対比させる心憎い構図だ。(2017-10-06)

(8)《雲井桜》グリフィス館長に共感

これだったのか、グリフィス館長(1860-1930)が驚嘆した絵は……。118年前の"デトロイトの奇跡"を物語る1枚だ。

Memories of Japan 雲井桜
左から水彩《Memories of Japan》、水彩《雲井桜》、木版《雲井桜》

デトロイト美術館の作品検索で《Memories of Japan》(メモリーズ・オブ・ジャパン)という水彩画のデジタル画像を見つけた。実物でもないのに、深く感動してしまった。2000×1539という大きなサイズの画像だ。

同館はこの作品を500ドルで購入した。500ドルは当時の為替レートで1000円、今の価値になおすと約1500万円に相当する。これは吉田博の人生を左右した絵と言っても過言ではない。

安永幸一『山と水の画家』(2009年)によると、デトロイト美術館での吉田博と中川八郎の2人展は1899年11月15日から開かれ、1週間で吉田博の絵は33点計1064ドルも売れたという。そのうちの1枚《Memories of Japan》が500ドルであるから、残りの32枚は平均17.6ドルになる。《Memories of Japan》がいかに突出した絵だったかが想像される。デトロイト美術館は、友の会の援助を受けて500ドルを捻出したようだから、グリフィス館長がどうしてもこれを買い上げておくべきだと判断したのだろう。

《Memories of Japan》 1899年頃 水彩 69.7×90.3デトロイト美術館蔵
(部分) A3判相当
(部分) はがき2枚分相当

吉田博の水彩《Memories of Japan》と水彩《雲井桜》と木版《雲井桜》の3点は、よく似た構図であることは比較的よく知られている。私の場合、まず木版の青色の強い印象があった。

140年展の上田展前期では、木版《雲井桜》をじっくりみたが、枝の細さに感嘆し、見たつもりになっていた。福岡県立美術館の水彩《雲井桜》は後期展のみの展示なので見ることができず、図録で見ただけだった。もちろん《Memories of Japan》は140年展には来ていない。《Memories of Japan》はきっと水彩《雲井桜》と似た絵なのだろう、という程度にしかみていなかった。

しかし、デトロイト美術館の《Memories of Japan》を見つけて、3点に対する見方は一変した。

《Memories of Japan》と福岡県美の水彩《雲井桜》と比べると、前者がいかに丁寧に描かれているかが分かる。吉田博渾身の絵なのである。《Memories of Japan》の大きさは、面積比にして水彩《雲井桜》の184.2%である。ひと回りいやふた回りほど大きい。前者は5人の人物が描かれ、大きな幹の左側にたたずむ3人、右側に歩く2人が描かれている。後者では、左側の3人はほぼ同じだが、右側の2人は描かれず桜の花が描かれている。

なお『山と水の画家』のp51では、福岡県立美術館の《雲井桜》と《Memories of Japan》と間違えて掲載しているので要注意だ。小さな白黒写真でも右側の2人が描かれているか否かで判別ができる。1996年の120年展図録では写真説明が正しく記述されているから、これは全くのケアレスミスだ。

3人のたたずむ女性は前者も後者も一見、同じようなポーズを取っているように見える。しかし、拡大してみると、前者の描き方は恐ろしいまでに細密だ。後者も細かく描かれてはいるが、着物の縦縞や手のしぐさには差がある。

桜の花びらや灌木の葉っぱの描き方の丁寧さでも、前者が数段上である。画面左やや下の、近くにある花はくっきりと鮮やかに、遠くの花ほどぼんやりとさせ色を濁らせている点はすばらしいの一言に尽きる。

《雲井桜》 1899年頃 水彩 50.5×67.5福岡県立美術館蔵
(部分) はがき2枚大相当

2015年に一宮市開かれた「吉田博吉田ふじを展」で、山村仁志氏(当時府中市美術館副館長)は「《雲井桜》は、この《Memories of Japan》の前にエスキースとして描かれたか、《Memories of Japan》または《Memories of Japan》が美術館に買い取りとなっために記録用にコピーをつくったのか、どちらかだろう」という見方を示している。私には、右側の2人をあとで描き足したように見えない。やや不自然な桜の花びらの塊を見ると、《Memories of Japan》が先に描かれ、その後で《雲井桜》は2人を省略されて描かれたのではないかと推測する。より理想的な構図に仕上げたとみられる木版《雲井桜》では、やや不自然な桜の花びらの塊というのは見られない。

木版《雲井桜》では、青みを帯びた画面の中央に見えるのが宵の口の「月」であることにほぼ異論はなかろう。

なお、ウィキメディア・コモンズには、5005×3894という大きな木版《雲井桜》の画像データが公開されているが、これはどうみても色を誇張しすぎであり参照すべきでない。この画像の原本であるはずの米国オハイオ州トレド美術館が公開している画像データをみると、青はもっと浅くて鈍い。販売されている関連グッズの青色は論外である。

《雲井桜》 1926年 木版 58.7×74.4ボストン美術館蔵
(部分) A4判相当

3点を見比べると色合いがかなり違う。これは画面中央に描かれる光源が、夕日なのか月なのか、という問題を左右する。木版《雲井桜》が月であるのに対して、水彩《Memories of Japan》と水彩《雲井桜》は夕日と見るのが自然であろう。水彩《Memories of Japan》は全体に黄色みを帯び、水彩《雲井桜》丸い光源の周りが黄色みを帯びたグラデーションとなっている。

吉田博は水彩《雲井桜》を描いて27年後、木版をつくる際、いくつか構成を変更した。当初5人描かれていた人物を2人に減らし、画面の手前に配している。画面手前の崖の雑然とした灌木は省いて、なだらかな丘のように描いた。2人の人物は、河合新蔵の娘であるという。妻ふじをの一つ上の姉美智が河合の妻であるから、スケッチするのに頼みやすかったのか。それにしてもなぜ、夕日ではなく月に改めたのか。

この絵は生誕150年展にぜひとも里帰りさせてほしい作品だ。(2017-10-07)

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