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第4章第3節 一年志願兵と黒壁山探検


大井信勝(のちの冷光)は、明治38年12月、一年志願兵として金沢にある陸軍第9師団歩兵第35連隊に入営した。

一年志願という語感から自ら望んでお国のために戦地に赴こうとしたなどと早合点してはいけない。そう思ったとしたら、それは徴兵制を知らずに平和な現代を生きている私たちの罪である。リアルさを追求した映像と美しい音楽とともに日露戦争の勝利を描いた映画やテレビドラマに感化されすぎているのでないか。徴兵制の社会で、二十歳を迎える男たちは誰しもが本音と建前に苦しんだ。特に、明治37年と明治38年、日露戦争のさなか戦死者が増えていくのを見ながら、彼らはどんな思いで兵役に就いたのであろうか。

日露戦争という観点から信勝の日記を読むと、信勝の心の内がおぼろげに見えてくる。一年志願をする直前の2か月間、信勝は井上江花ら仲間と一緒に日曜日ごとの探検を楽しんでいたように見えるが、実は同じ頃、補充兵のはずが一転して一年志願を余儀なくされるという事態に直面し、ぎりぎりの判断を迫られていた。

反戦意識は見られず

日露戦争は明治37年2月10日、日本ロシア両国の宣戦布告で始まった。農学校を卒業した信勝が上京してちょうど3か月目だった。その日、「慶応義塾の炬火行列を見てなく」と日記に記している。この行列は、カンテラ行列とも言われ、祝賀の意味であったらしい。信勝はなぜ泣いたのか。嬉し泣きとは思えない。前年6月に友人の盛一一隆(もりとき・かずたか)が「徴兵に合格」し、19歳の信勝にも徴兵が迫ってきていた。友人がいつ出征するかもしれない、いや自分が出征するかもしれない。それが現実になりつつあった。

明治36年末から明治38年3月まで上京中の日記は、内容が少ないことを既に述べたが、そうした中で信勝は明治37年6月に出くわした軍人の様子を2度書き留めている。

6月9日 「上野で出征軍人をおくる」
6月24日 「午後軍人の葬送を見る」

(大井冷光『波葉篇』日記 明治37年)

この年9月、盛一に出した手紙には、盛一が出征することを予期して気遣いの文言が並ぶ。さらに翌年1月に旅順が陥落したのち、まだ激戦が続いていた2月25日にこんな記述がある。

「軍人の葬式あり、少年音楽隊を見て涙潜然、僕一番泣かさるゝものは少年」

(大井冷光『波葉篇』日記 明治38年)

つい2か月前に帰省した際、8歳のいとこが「兄ちゃんが出征するときは門出を見送りに行く」と約束してくれたことが思い出されたのかもしれない。このころ新聞は連日、戦争関係の記事で埋まり、死亡した兵の氏名や負傷兵の記事が載っている。信勝が所属することになる陸軍第9師団歩兵第35連隊は、旅順攻略の主力をつとめすでに多数の犠牲を出していた。

信勝は日露戦争をどうみていたのであろうか。堺利彦らの『平民新聞』に寄稿していた先輩の久田二葉から影響を受けたとしたら、反戦意識や社会主義思想があったようにも思われるが、日記を読むかぎりそれは全く認められない。[1]

徴兵検査は、前年の12月から1年間に20歳を迎える男子が毎年4月か5月ごろに市町村単位で行われることになっていた。

信勝は明治38年春、早稲田大学高等予科に合格して入学手続きを済ませたあと、徴兵検査を受けるために帰省した。しかし、そこで借金を抱えた伯父の出奔と家の差し押さえという事態に直面する。やむなく大学進学を断念し、祖母と伯母といとこ5人の一家を背負う決意を固めた。おそらくこの4月から5月かけて、本籍がある中新川郡の徴兵検査を受けたものとみられる。結果は甲種合格、くじ番号は70番であった。このくじ番号70番が、現役兵として入営するか、入営せずに補充兵となるか、微妙な番号であったらしい。

信勝は、補充ならばそのまま入営せず、現役に回るようであれば一年志願をして軍に入営する考えでいたようだ。一年志願は、当時の高学歴者たちに用意された特例だった。通常、現役であれば3年間は兵役に就き、除隊したのち4年4か月間の予備役がある。一年志願だと兵役は1年間に短縮し予備役6年4か月となった。ただ、一年志願は、満17歳以上27歳未満で、当時の官立府県立学校の卒業生、そして兵役中の費用100円を自己負担という条件があった。信勝は100円さえ用意すれば、一年志願して入営することができた。

早くから入営を覚悟

明治38年7月24日、夕食後、同居しているいとこの文が、富山市の借家住まいになったため入営の際を予想して「見送り人もあるまひに、せめて西番に居たらば……」と話している。信勝は「さすがは女なり」と感心している。この時点で、入営はまだ決まっていないが、覚悟していたことは間違いない。8月12日には、伯父が借金を残して逃げた代償として、伯父の実家から1か月飯米3斗の手当を受けることが決まるが、その月々の仕送りも信勝が入営するようになってからという条件と分かり、信勝は納得できないと日記に記している。

日露戦争を終結させるため米国ポーツマスで講和会議がはじまったのは8月1日である。そして月末に講和成立の報道が駆け巡った。8月30日、信勝は新聞号外を見てうれしさのあまり親友の盛一にはがきを出している。そこには旗やら星やらを書き「シメタ」と記した。「シメタ」というのは、自分が戦地に出ていく可能性が低くなったことを素直に喜んだのであろう。さらにこの日、世間の反応を知りたくて、三番町の銭湯にわざわざ行った。

「小僧丁稚連のみ大くてたゞ火鉢のぐるりで折りから入り来る大譲歩なる第二號外を黙って見て居るから、余りにも拍子抜けのした景色にあらざりし故、湯屋を出で東四十物町あたりを散策す、ところどころ軒提灯をだした家もあるが寂莫としてお話にならずすごすごとかへる」

(大井冷光『借家墨染日記』明治38年8月30日)

しかし翌31日、信勝を含めて多くの国民は、喜びと安堵が一転して落胆に変わる。講和は、日本の韓国における優先権や、旅順・大連の租借権などの譲渡、樺太南半の割譲などが盛り込まれたものの、賠償金の支払いはないという内容だったからである。

「昇庁、新聞を見るに及んで愈々ガッカリ、早速盛一へ前夜の音信を取消すべく赤く×字形を沢山かいた中にムネンとのみ記し送る」

(大井冷光『借家墨染日記』明治38年8月31日)

そのころ金沢の兵営にいた親友の盛一はいたって冷静で「ムネンとは極端なり」と信勝を戒めている。

日露戦争の戦死者は病死も含めると10万人を超え、負傷者15万人に上った。戦費は約18億円と国家予算の6年分以上もかかり、日本は大きな犠牲を払った。多くの国民は、ロシアから多額の賠償金を取ることができると信じていた。ところが講和の内容は大きく違っていた。裏切られたという思いを強くした人たちは各地で暴動を起こした。東京で9月5日起きたのが日比谷焼き討ち事件である。首都に初めて戒厳令が敷かれた。

この頃、米穀検査所に勤めていた信勝は、日給四十銭に上げる辞令を受け、帰宅して伯母に報告するが、伯母は「今になって上げるもらったってわずか2か月ばかりだ」と冷たい。伯母はすでに入営は逃れられないと考えていたのであろう。

現役・補充で慌しく

明治38年10月中旬以降、現役と補充と一年志願をめぐって、周りの事態が目まぐるしく動く。

10月17日「今朝徴兵の補充兵のことに付いて盛一へ尋ねやる、自分は歩兵甲種籤番号の七拾番だが平年は五六拾名しか徴集しないとのことだからもう籤はづれになって居ないのだらうか、そうすれば一志を取り消せばよい都合だと考へたからだ」
10月18日「西三郷村役場の兵事係へ補充兵証書が届かない訳をききにやる。一隆氏から補充一件に付き返信あり七拾番位では補充でも危険だとのことだ」
10月24日「日比野氏に今日きいたら中新川の徴収人員が六拾参番までゞ僕は補充となって居るとのことだ」
11月1日「徴兵の件に付き中新川郡役所の福井重次氏へ尋ねやる」

(大井冷光『借家墨染日記』明治38年)

当初は、50人か60人までが現役で、70番の自分は補充兵になるだろうから、わざわざ大金を支払って一年志願することもないと考えていたようである。しかし11月に入り、雲行きが怪しくなってきた。

11月7日「登庁すれば川崎君の手紙と福井重次君のはがきが来て居て補充の件愈おもしろくないやうだ、飽までも飽までも信勝は不幸な男だ。福井へ折返へし確かな調べを頼んでやった」
11月8日「西三郷村役場から『一志の納金を拾五日までにしろ』『そして補充兵の証書を返納しろ』との通達、阿まりのことにぼんやりする仕末だがとり敢えずその書式を写して一隆へ判談を求むと認め、(以下略)」
11月13日「朝検査所へ出ると福井重次から、もう僕は現役に繰り上げられたから、是非にも一年志願をしなくばならぬそれとも三年行くかとの宣告、ギァフンとしてしまった。早速盛一へ発信す、無論依頼してやったのだ」

(大井冷光『借家墨染日記』明治38年)

100円、頼りは親友の盛一

信勝は、自分が現役に繰り上げられたことを知って、何としても一年志願しなければならないと思った。入営している間は、信勝の収入はなくなり、6人の家族は伯母のわずかな収入で暮らしていかねばならない。その期間が3年というのは余りにも辛い。何としても1年に短縮したかった。それに備えてのことか、伯母は9月から製薬会社の広貫堂で働きはじめたところだった。ただ、一年志願するためには自己負担金100円を用意しなければならない。頼りになるのは親友の盛一一隆しかいなかった。

盛一の家は、能登半島の一番南、羽咋郡河合谷かあいだに村(現在の津幡町)にあった。井上江花によると豪農だったらしい。[2]盛一は、明治38年10月下旬に金沢の兵営を除隊し、実家に戻っていた。100円といえば大金である。信勝の月給が当初9円ないし10円ほど、実に給料10か月分近くに相当する。

11月17日は探検団の仲間が送別会を開いてくれた。信勝は嬉しかったが内心は落ち着かなかったにちがいない。13日に盛一に依頼状を出したのに、4日たってもまだ返信が来ていなかった。

盛一の返信が届いたのは翌18日である。13日投函の依頼状は17日に届いたと書いてあった。江花の家に行って相談していると、夜8時過ぎ、盛一本人が訪ねて来たと連絡が入った。信勝が急いで自宅に戻ると、寝ている祖母の横で盛一が火鉢を抱えてちょこんと座っていた。家族に聴かれるのをはばかってか、信勝も盛一もなかなか金の話を切り出せなかった。11時過ぎになって伯母たちが銭湯に行くと、盛一はようやく風呂敷から百円を出して並べて言った。「きのう母に内緒で相談したら、二つ返辞で蓄えを出してくれた」。信勝は「君必ず申訳するよ」と言った。ただただ感謝するしかなかった。盛一は一晩泊まり翌朝一番列車で帰っていった。

1年間の兵営、江花と文通55通

大井信勝(のちの冷光)の兵営生活は、明治38年12月1日から明治39年11月30日までである。その記録は、大正11年の『高岡新報』の連載「冷光余影」に日記と書簡でまとめられている。日記は、11月28日に見送りを受けて富山駅を出発する場面から始まり、兵営に入って12月17日まで20日間丁寧に綴られ、そこで終わっている。書簡は、11月28日から翌年11月29日まで江花に宛てて55通出している。1週間に1通以上の頻度である。

これまでも見てきたように、信勝は農学校時代から文学・お伽話・音楽などを愛する趣味人である。軍隊は全く逆の世界であり、性格に合うはずがなかった。信勝にとっては忍耐を試されるような1年だったにちがいない。そんな中で知人との手紙の交換は大切な心の支えとなった。特に江花との頻繁な文通があったからこの1年間を乗り切れたといっても過言でない。

盛一宅を訪ねて感謝

前夜から降っていた雨が上がった。明治38年11月28日朝、信勝は当時田刈屋にあった富山駅(仮停車場)にいた。金沢の兵営に入るまでまだ4日あるが、その前に大金を出してくれた盛一に礼を言おうと考え、早くたつことにしたのである。汽車の窓の下には、伯母といとこ3人、田邊嫁さん(大家の嫁)、弥三馬の姿があった。井上江花、牧野庄太郎(浮瓢)、三鍋保三、亀沢嘉七、石黒孤舟、光地の探検団の面々は、プラットホームの端に整列して見送ってくれた。探検団司令である江花のユーモアだった。

汽車が走り出してしばらくしてからだった。田んぼの踏切で帽子を上げていた老爺が目に入り、信勝は絵心を動かされた。絵の具箱を取り出してスケッチをし、途中停車した石動駅で売り子に託して江花宛に投函した。緊張感を感じさせないのんきな性格がうかがわれる。津幡駅で乗り換えて10時に高松駅に着くと、8キロの道のりを歩いて初めて河合谷村の盛一の家を訪ねた。100円を出してくれた盛一の母は温容な人だった。2泊して盛一と存分に語り合った。

いよいよ金沢に向けて出発の日。別れの杯なのか正午に一緒に5合ほど飲んでから、盛一が8キロを歩いて駅まで見送ってくれた。薄暗くなった汽車の中で信勝は泣いた。盛一への感謝の涙なのか、万が一の出征を予期しての涙なのか。

軍隊教育に強い嫌悪

そして明治38年12月1日。軍都金沢で信勝の新兵生活がはじまった。信勝が所属したのは、陸軍第9師団の歩兵第35連隊である。[3]

信勝は初日からいきなりバリカンで頭を刈られるなど洗礼を受けたが、マイペースだった。麦飯に大根煮物の夕飯を5時に済ませると、手紙を17通も出した。6時過ぎからは、班長が新兵を一人ずつ事務室に呼んで、「何をしに一年志願兵となったのか」と尋ねた。日記にはこうある。「僕の答へはどうとったか名簿の上に文学思想と書いたイヤハヤ」。

日記には軍隊教育への嫌悪感が毎日のように綴られている。

12月4日「午前に六班で学課があって我生れた国は日本であると云ふことから軍人は何故エライといふこと迄教はって、あとで、今教えたことを云って見ろと僕に命じたから、お天子様が一番エライお方で……と云ひ出したが、ツイ六かしい言辞が出やうとするので困った」
12月9日「晩の学課は兵種の服袋の識別と酒保で餅を食べる数に就いて又々三本條の先生が約1時間余にわたる講演をやらかしたのには閉口、隣席の荒井志願兵の如きは恐らく空咳の百もしたろう」
12月11日「晩1時間の学課は宮腰伍長の教授営倉と云ふことと軍隊組織と云ふことであったが、又々敬礼のまねを招き猫のやうにしたり、クダラヌことをやって居るのに閉口した」

(大井冷光『借家墨染日記』明治38年)

社会と隔絶された不条理の組織ともいわれる兵営にあって、信勝は思考力を失うことなく飄々と要領よく切り抜けていったようである。

明治39年1月30日、江花に宛てて出した手紙はこうある。

「先生の御玉章百万の援軍よりも嬉しく拝誦仕り候、決して御配慮遊ばされざる様願い上候、小生は如何なる芝居が出来候とも、ハアトに負るやうな優しい者で御座なく候、なかなかお見かけに相違する冷血動物にて、どんなことがありましたつて皺づらのほゝ笑は失ひ申さず候」

おそらく江花から心配する手紙が届いたのであろう。それに対して信勝は、理不尽なことがあっても笑って乗り越えているという旨の返信をしたのである。3月20日、笠舞の猿丸神社に歩哨として立つという野外演習があった。他の新兵なら面倒がる演習だが、「大変床しい春光を浴びて」「詩的な愉快さを以て」演習ができたと江花に宛てて報告している。

4月には、戦没者の霊を慰める招魂祭の準備でちょっとした出来事があった。余興の立物を各中隊舎前に建てることになり、中隊長が信勝のアイデアを採用したのだ。棟梁に命じられた信勝は、図案を描くために寺町に鐘のスケッチに行くやら、長坂に竹を買いに行くやら、大忙しとなった。得意分野のはずだが「今更我身のこざかしさを悔やんでいます」と自嘲している。

長男誕生で自責の念

入営して次第に余裕が生まれてきたようである。3月下旬に兵営近くの野田山墓地を訪ね、井上江花の家の墓を探したが見つからず、5月ごろに再び探索し、ようやく見つけている。江花の家は士族であった。3月から書きはじめた自分自身の年表もこのころ20~30枚になった。

明治39年6月、信勝にとって一大事件が起きた。許婚でまだ結婚前の文に自分の子供ができたことが発覚したのである。自責の念にかられた信勝は、江花への手紙で「今迄のやうに正直な姿で先生の御膝下に侍ることの出来ない誠に汚れた者となってしまひました」「生れてから自分で犯した罪で悶えることになったは今は初めてでございます」と書いた。江花は「やかましく罪だ罪だと云ふのは必然の成り行きで、罪ではないのである」と記している。文は8月5日に出産した。[4] 9月、江花に頼んで「光雄てるお」と名づけてもらった。一連の出来事を「不肖らの生涯は小説気が離れぬとみえます」と書いている。

井上江花は、信勝が父親になったことを温かい目で見ている。

「大井君が兵から還るとドンナ家庭を造るであろうかと考えてみた、千田がやったやうに児を抱いて家の近辺をブラブラしていると、新妻たる文さんが夕飯の用意をしている、そこへ予がフラリと出掛ける、オヤ郎君、井上さんが見えましたと文さんが云ふ、ウンさうかいと引還へす大井君の鼻の下にチョッピリ髭などが生えていたなら面白からう、現に若い者がたちまちオヤヂとなる例が多いからな、兵隊メ老けるナヨ老けるナヨ」

(「晩秋漫筆」『江花文集』第3巻p50、9月11日)

号「冷光」を名乗る

「光雄」という命名は、9月4日に兵営から出した手紙に記されているのだが、これに関連してもう一つ重要なことが明らかにされている。

「愚生は近頃になって無味な気持ちのする白沙の号を捨て、冷光とかへやうと思って居りましたが、その光の字がこんな面白い意義を含んだ嬉しい字として戴くことと相成りました」

(「冷光余影」46『高岡新報』大正11年5月1日3面、「光雄君誕生」)

信勝は明治39年9月、生涯付き合うことになる「冷光」の名を定めたのである。「冷」は自らを冷血動物と書いたように「冷静さ」を、「光」は幸運を迎える光あるいは未来を射す希望の光を意味するものであろうか。[5]

「黒壁山探検」の駄文

信勝が「冷光」を初めて名乗って書いた「黒壁山探検」という探検記が残っている。[6]

黒壁山薬王寺は九万坊大権現を本尊とする天台宗の寺である。信勝がいた兵営から南に4キロほど入った山間部にあり、野田山墓地にも近い。現在の金沢市三小牛みつこうじ町にある。山間と言っても標高120メートル前後しかないが、森厳な雰囲気が漂い、古くから天狗伝説で知られていた。本堂がある場所から伏見川の谷間を300メートルほど進み、急な斜面を登った場所に洞窟があり、そこは古くから奥の院と呼ばれる特別な祈願所であった。

信勝は明治39年9月15日土曜日、この黒壁山薬王寺を探訪した。軍服に脚絆姿、銃剣を携えて一人で出かけた。「日本帝国陸軍北陸探検団の一分子としてい遥々天狗退治」とあるように、探検記といっても、笑いを取ろうと軽い文章で綴られ、およそルポと呼べるものではない。信勝が富山を離れてからも、井上江花らによって探検団報が発行され、信勝に届けられていた。おそらく「黒壁山探検」は探検団報に寄稿するために書かれたものであろう。北陸探検団と書いたのは、自分の金沢での活動を含めて北陸と名づけたのかもしれない。奥の院の洞窟に着くと、信勝は自作の「探検団歌」を朗吟したあと「黒壁天狗万歳」「北陸探検団万歳」と唱え、「熾なるかな冷光独り舞台の探検式」だったと記している。

そもそも信勝がこの探検を思い立ったのは1年前、井上江花の短編小説『黒壁山』(『富山日報』明治33年6月9日~11日に掲載)を読んだことがきっかけだった。『黒壁山』は、天狗伝説をまじえて黒壁山を魔所として描き、18歳の受験生が祈願に訪れて不思議なことに遭遇する物語である。江花自身が黒壁天狗退治の話を信勝に語って聞かせたこともあった。小学生のときお伽話『天狗杉』を聞いて以来、伝説や昔話に関心を持っていた信勝は、天狗伝説に敏感に反応したのである。江花の探検団で培った探検心が加わり、黒壁山探検となったのである。

記者職打診に星空仰ぐ

ここからは信勝改め冷光と記すことにする。

黒壁山探検からしばらくしたころ、井上江花の『高岡新報』富山支局では困ったことが起きていた。余川直吉という記者が渡米のため退職することになり欠員が生じることになったのである。富山支局の記者は当時よく入れ替わりがあった。江花はすぐに冷光を後任にすることを思い立ち、2、3人の友人と相談のうえ、冷光の意思を尋ねてみることにした。[7]

冷光がその打診を受けたのは10月12日のことだった。胸の鼓動が高鳴るのを覚え、すぐさま「御返事申すまでもない光栄」と感謝の手紙を出している。14日にはより具体的な内容の手紙が届き、「営庭に飛び出して星空を仰いで祈り」「いよいよ復活の機を戴くのです」と記している。翌月末の退営まで残り約50日、人生にようやく希望の光が差し始めた。

10月下旬、冷光の伯母は新しい借家の相談をするため井上江花を頼ってきていた。娘夫婦に子どもが生まれたため、手狭な今の借家よりもう少し広いところに移るのがよいと考えたようだ。ガラス入りの障子と石油1缶を買った。江花はこんなことを記している。

「いよいよ予の空想した大井君の新生活が実現されんとしている」(10月23日)
「兵営の大井のアンチャンから手紙を寄こして、帰郷はモウ1ヶ月の後になったと云って来た、父親となるのは軍隊の苦労に増した苦労であらうが此の苦き盃はアンチャンの前にはダイヤモンドの如く輝いているのだ」

(「晩秋漫筆」『江花文集』第3巻p57-58)

家族や井上江花をはじめ探検団の仲間たちが、冷光の兵営からの帰還を待っていた。

[1]明治37年の上京中、信勝はキリスト教に目覚めているが、説教を受けた人物は、本多庸一と海老名弾正で、いずれもキリスト教の中で戦争支持派であった。

[2]「酉留奈記」2・07『高岡新報』大正10年8月8日。盛一自身は後年村議をつとめたあと昭和11年から7年余り村長の要職をつとめる。明治40年3月7日、盛一が返金を求め、信勝が手紙でやり取りしたが、それを聞いた江花は「返す返すも親友間の貸借は慎むべきだ」と戒めた。

[3]第9師団は、石川県人からなる歩兵第7連隊(金沢城跡)と、富山県人からなる歩兵第35連隊(金沢郊外の野田村)があり、歩兵以外に騎兵・山砲・工兵・輜重兵などの連隊があった。軍関係者は約2万人に上ったといわれる。民家が兵の下宿に充てられていたという。武士の町だった金沢は明治に入って人口減少が続き8万人台まで減っていたが、明治31年11月に第9師団が設置されると軍都として活力を取り戻し、明治37年には人口10万人を回復していたという。

[4]「三海借宅録」『江花文集』第2巻p110。8月5日に「大井ふみさん安産」とある。「三海借宅録」は江花の妻操の日記で、明治39年5月16日から明治40年2月11日まで。

[5]「冷光」という号は、明治40年に立山登山をして以来、立山を愛していたので「雪の光」を意味するのでないかと推定されてきた。しかし、明治39年9月に書かれたこ の文章を読むとそうでないことは明らかである。『北日本新聞』1955年5月14日の「大井冷光氏を偲ぶ座談会」では、利田与四松(北日本新聞社写真部長)が「雅号は立山の御来光からとったのではないかと思うが……」と語っている。

東京富山県人会理事長だった荒木丈太郎が『北日本新聞』1955年11月6日に書いた「大井冷光氏を偲ぶ」によれば、「故人は雅号の由来について『大いに励行するため』大井冷光を名乗ったのだと言っていた」と語呂合わせ説を書いている。この話は、荒木と久留島武彦の追憶からまとめたものだという。

[6]「冷光余影」18『高岡新報』大正11年2月7日4面。

[7]「晩秋漫筆」『江花文集』第3巻p56。操の日記(「三海借宅録」『江花文集』第2巻p110)によると、余川の米国行送別会が行われたのは11月13日。冷光の日記では、11月24日に余川が金沢の冷光を訪ねて面会している。(2013/02/11 22:34 2021/1/7追記)

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