【資料】大井冷光「昨年の少年読書界」_1911年の児童文学出版状況
昨年の少年読書界
大井冷光
明治四十四年は広い意味の少年読書界にとりては非常に多事な年であった。従来少年物の出版を続けていた出版者の活動はもちろん、あらたにこの年から少年物に手を出した向きのにわかに増えたのは蓋しかつて見られない現象であったろう。
新刊雑誌の続出
まず雑誌界から見ても新春劈頭に博文館から『幼年世界』が出た。『少年世界』と『幼年画報』の間を行くもので主幹は巌谷小波氏、少年雑誌の編集術については老練の聞こえある武田櫻桃氏が編集の任に当られたので、わけもなく出版界の一勢力となってしまった。
続いて四月の新学期になると同文館から小学教科書の参考雑誌という標榜で『小学生』が生まれた。教鞭を執っておられた葛原しげる氏が主任で、記事も絵もすべて学課と連絡をつけた編集法は教育者側から好評を得て、最初は非常な勢いで売り出されたが、しかしそれは実際少年読書界の潮流としっくり合ったかというとなお未だ惑星に過ぎないのであった。
その次に現はれたのはわが『お伽倶楽部』で第一号の出版されたのは六月の一日であった。
さて九月の出版期に入ると増沢出版社という新しい営業社の手でお伽文学専攻の文学士、木村梅吉氏が主幹となり、松美佐雄氏が編集に当たられて『少年雑誌』が生まれた。その大体について別に新しい方針もうかがわれなかったが、堅実で整った編集ぶりはなかなか少年界に喜ばれたそうである。
『少年』と『日本少年』
こう続々新雑誌の生まれた間にも少年向きでは『日本少年』『少年世界』『少年』の三雑誌は各その特長の下に着々発展の道開け、少女向きでは『少女世界』『少女の友』まためきめき進歩して、発行部数も容易に一般の及ぼさる地保に達した。
中でも『日本少年』の如きはいわゆる米国流の雑誌主義に似た営業本位の活動で、主管、瀧沢素水氏をはじめ記者たちが巧みに少年界の潮流に乗って活動された。大人から見せたら甚だ不真面目な、教育上にも少年文学上にも価値の乏しと見られる記事や絵も、否ある場合はかえって近代少年の弊害ある点を無雑作に突進するものではなかろうかと気遣はれる材料も、少年読者の気分にしっかり合っておったためその勢力は非常なものであった。
ところがこの『日本少年』と全く反対の道を行ったものは『少年』であった。この雑誌は出版された最初から営業を度外視しているほどで、昨年もその絵に印刷に体裁に紙質にすべて都向き、上流向きの読者に着々勢力を占めてきたので、特にその記事の大部分は知名科学者の学術談、でなければ外国最新の記事画報、ないし西洋種のお伽噺を主眼とされたため、独り少年の読者ばかりかやや青年期に近い読者間にも喜ばれた。昨年の四期に一冊宛出た特別号の如き、主幹、安部村羊氏が独特の編集法のいよいよ円熟を示されたものであった。
しかし前者と後者との編集を比べて見ると『日本少年』の記者は、例えば雑誌という舞台で跳ね回るのが狭くて時には見物席まで飛び込む役者というべく、また『少年』の記者は、よし舞台に上っても絶えず花役者の影に立って働く黒頭巾のようなもので、従って双方の読者もおのずから異ったものがあるに違いない。
『少年世界』の活気
『少年世界』は巌谷氏の本城ともいうべき歴史と勢力を持った雑誌である。ひと頃は営業上に充分な力が入らなかったせいでもあったろうが、概して記者も読者も疲れ気味に見えた。それが昨年の夏頃から急にその特長の読み物に活気を帯びてきた。同時に読者の気受けも月々よくなったようである。
殊に正月号から十数回、十数人の異った作家の手になった合作冒険小説「血面児」は近来行き悩みの状態にあった少年冒険読み物に確かに新機軸を造ったものとして好評を拍した事は、同誌編集主任竹貫佳水氏の一成功というべしである。
ただ記者らの今昔の感にたえぬのは毎号巻頭のお伽話で、巌谷氏自身がおなじ他の主管の雑誌に勢力をそがれるためでもあろうか、昨年の各六月に亘る長編お伽話の如き甚だ気乗りのせぬ心地がせられた一事である。
少女読者と記者
少女雑誌中では『少女世界』の勢力は凄まじいものがあった。一体少女の方は少年読者に比べてその態度が違う。と同時にその雑誌および記者と読者の関係は少年の雑誌に比べると遥かに接近しなければならなかった。『少女世界』の沼田笠峰氏はこの点においては実に得難い才を持っておられる人だ。更にその上に巌谷氏あるにおいておやである。『少女世界』は教育者側から厳粛な鑑識眼で見られたならば、かの情緒本位の少女小説ばかりで満たされている雑誌を甚だ飽き足らず思うに相異ない。
ところが少女の読者側では彼の小女小説こそ唯一の雑誌の生命と心得ているのである。この間に立ち、巧みに少女読書界の潮流に乗りながら巧みに両者の間を繋いで行かれる沼田氏の技量を多とせねばならぬ。同氏毎号執筆の少女スケッチの如き特に得意の舞台といわねばならぬ。
『少女の友』も昨年は読者と記者との接近については著しき新運動を試みられたようであった。しかし同誌の読者は『少女世界』よりはやや年少者を狙っているだけ趣味材料の範囲も広く編まれてあった。編集者星野水裏氏の少女詩、同記者岩下小葉氏および与謝野晶子のお伽はなしなどが同誌読者の呼び物であった。
その他少年雑誌界中比較的古い歴史をもっている『少年界』と『少女界』はこの年の秋、金港堂の手から離れて編集者神谷鶴伴、ト部観象の諸氏の直接経営に移されたが、誌上の改善については特記すべきものもなかった。
絵話本位の『幼年画報』『幼年の友』および『少女』『新少年』『少年パック』『フレンド』などいずれも健在し、特殊読者に勢力を持つ『英語少年』『実業少年』『初歩英語』は漸次頭角を現してきたが、中には国学院大学と関係のあった『兄弟』と『姉妹』との両雑誌はその後『兄弟姉妹』という名の下に合体したが、ついに夏の末に廃刊した。
出版者側の努力
雑誌以外の出版はその数において多いだけで、その種類や実質やは全く乱調子であった。これというのも著述者、あるいは編者間の新運動とはいえずして、出版者側から動いてきたものであれば、これが今年になってどう変化するか分からない次第である。
さてその著述者のうちでも夥しく出されたのはやはり巌谷氏で、その数においても量においても同氏お伽文学にたずさはれて二十個年になるが、昨年くらいたくさん書物にしたことは珍しいと言うておられた。曰く『おばさんお伽噺』『日本新五大噺』『袖珍合本日本御伽噺』『お伽十夜噺』『お伽の先生』『小波百話』『イソップお伽噺』そして『少女対話選』。その他に例の『世界お伽文庫』は、四冊ばかり出版された。
このうち少年文学史上特記すべき書物は『小波百話』で同氏がお伽話に初めて筆を取られてから今日まで数知れず作られたお伽噺のうち単行本になっていない比較的短いものを百編だけ氏の門下の木村小舟氏が集められたものである。蓋し明治少年文学史の代表的著述として後年この道の研究者の宝典となることであろう。しかしこの書は四十四年度の出版界の大産物ではあるが、同年度の少年文学界には直接の交渉を持たぬものである。
この意味から見ると、記者はまず『イソップお伽噺』と『少女対話選』を挙げねばならぬ。
イソップお伽噺
これは従来数多く訳出されたイソップ物語に一進転化を示したものであった。第一は『ファベールは比喩談でこそあれお伽話と呼ぶべし』というところから物語の語を改められたこと、第二は記述を原書の逆に行き、まず訓戒を前にして後に談柄を述べられたこと等で、特にその訳出方に至っては原文の骨だけとったおとぎ料理、二千五百年前の古いかび臭い話も同氏の筆にかかっては今出来たてのホヤホヤという感じ与えるのだ。題材百六十、菊版四号活字四百三十ページ。挿絵また杉浦大田両氏により大小二百余個のゼラチン版により飾られている。
経験の功能(一例)
また有名な兎と亀のお話の冒頭にこう書いてある。
『少女対話選』
巌谷氏が学校芝居なるものを少年少女両雑誌に試みられたのはもう数年前のことである。その芝居なることばに眼をそばたてる教育者があるというので、対話といつか改められたが、とにかく同氏が本年特異な才によって作られた少年物の喜劇で学校や家庭の集会の余興に、あるいは全くその道の役者によって舞台にのせられる場合にも、いかにも少年少女の気分に適った、純潔上品な趣味を得せしむるものばかりであった。
それが近来一層円熟完備してきて、殊に『少女世界』の増刊に掲げられるものに至ってははるかに他人の企て及ばざる作である。そのうちの傑作七編を抜いて昨年の暮れ近くになって出されたのが即ち『少女対話選』である。
蓋しかの「いたづら小僧」以来漸く低級俗悪な滑稽趣味に走りつつある少年読書界にとっては感謝すべき産物といわねばなるまい。記者は少年対話選もまた遠からず出版されんことを望んでやまないのである。
日本神話の出版
日本古代の神話は一昨年あたりから通俗平易に紹介されるようになって来たが、昨年はなおその趨勢を持続していた。
正月に出た澁川玄耳氏の『日本の神様』というのもそれであれば、年末になって渡邊北海、竹貫佳水両氏の共著で現はれた『動物神話』というものも日本紀から動物に関した神話を拾い出した記憶すべき出版である。
特に読書界を賑はして、また教育者側からも歓迎せられたものは萩野由之氏編の『少年日本歴史読本』の刊行で、その名は甚だ通俗だが、第一編天の浮橋、第二編大国主令、第三編天孫降臨、第四編橿原の宮というふうに上古時代の物語から非常に詳しくかつ易しく編述されたものであった。
岩戸隠れの一節(一例)
冒険物の新傾向
少年の冒険物も飛行機に因んだものなど大分出版された。江見水蔭氏の『女水夫』、蘆谷蘆村氏の『探検画談両極の部』に某氏の『怪飛行艇』等はそれで、十二年前に出た櫻井鴎村氏の『少女冒険小説少看護婦』がこの秋ヒョイと再版を出したなども珍らしい現象ではあったが、特に紹介するほどのものはなかった。
ところがこの少年向き冒険物に代るべき有力な一書が四月に博文館から生まれた。それは松美佐雄氏の『軍旗物語』というのである。我が国の軍旗で従来の各戦役中幾多悲壮な事蹟を遺しておるそのうちの著しいもの十四と、加うるに英、仏、露の各国軍旗の奮闘史が合して十八、集められて居る。
狙撃第十九連隊旗(一例)
少年向き冒険物の代りに『軍旗物語』の歓迎されたと同じ意味で少女向きに重きをなされたのは渡辺白水氏の『少女美談』であったろう。著者は日本女子商業学校の教諭だそうで、集められたものはすべて近代史に名を残した孝女烈婦の事蹟を三十種ばかり、それはもちろん極端な非常な場合にあった出来事であるから読んでなかなか壮快なものである。その第一題目の目次を掲げて見ると、
こんなふうであるから少年諸氏の読み物にしてもまた喜ばれるものが多かったろう。
情緒本位の小話
少女の読み物、教訓を加えた情緒本位の小説の出版も昨年は多かった。しかしその大部分は沼田笠峰氏の努力で、数においてはあるいは巌谷氏の次くらいであったかもしれぬ。『お友だち』『姉妹』『少女十二物語』等皆そうである、殊に文部省で通俗教育の機関ができた年というので一面それらの資料たらしめようとて出された『通俗教育少年少女物語』の如きは大分批評界にも上ったが、記者はやはり少女読者の声と同じく前記の少女小話中により多くの興味を持つものである。『お友だち』は家庭と学校とおける少女の交友を描いたものが八編、そのうちの手紙という一節にこんなのがある。
薔薇の褥にも棘(一例)
翻譯と特種お伽
なお少女物で好評のあったのはイツジオス[マリア・エッヂヲース]原著の本間久氏翻譯になった『小山羊の歌』であった。一冊一編読み切りの比較的長い読み物で、澄江という寺男の娘の優しい正直な行いが一村の風教を紊そうとする悪き弁護士にさいなまれながらよくこれに勝ち終せたという筋であった。一昨年の小公子劇以来、この種の長編は訳に作にチョイチョイ現はれるようであったが、その中でも『小山羊の歌』などは成功した部類であったとか。しかし記者はこの物語の中に、我が国と全然異なった国家観念を無雑作に日本の衣に着せ換えられている点を甚だ危険に感じたのであった。
このほか少女物では溝口白羊氏の『さくら月』、某氏の『勇ましき少女』、山岸荷葉氏の『氏か育ちか』、また少年物では堀内新泉氏の『汗の価値』、三津木春影譯の『皇帝謁見少年旅行』、滑稽物では東草水氏の『夏休み』、神谷蛇劍氏の『凸坊の自白』、佐々木邦氏の『二人やんちゃん』、樋口二葉氏の『立志新お伽』、巌谷小波氏編の『お伽の先生』など、いずれも相当の読者があったらしいが、記者はここに紹介の時間を持たない。
ただ少年読者側からの余り注意も払われなかったようだが、藤川淡水氏が夏に『御製お伽噺』を、暮れには『論語お伽噺』を出されたことを記したい。論語の方はまだ少ないが、御製の方は四六型三百ページばかりの美しい冊子で、陛下の御製十万首以上にも達しているという中から二十五首だけをお伽噺に仕組んだものである。
一例を挙げると、あるところに飛行機好きの少年があった。毎日学課の余暇に飛行機の製作に苦心していたが容易に飛べそうにもない。殊に自分が乗るなどいうことは以ての外のことと両親も最初はみくびっていたが、少年はますます研究を進めて中途でよすということをしなかったために着手してから十五ヶ月目でやや乗って飛べるものを拵えあげた、学校の先生達も非常に褒めてこの苦心談をきくと少年は天皇陛下の御製に、大空にそびへて見ゆる高峯にも、のぼればのぼる道はありけり、というのを日に五度も十度も胸の中で繰り返して必ず出来ると自信をもって苦心を続けたからですといった。
その価値は別としてとにかくお伽文学もこうした方向まで拡大されたことを喜ばねばならぬ。また『実業少年』の主筆石井研堂氏が『国民童話』の名で日本各国一つあての口碑を集めたものも出版された。
絵話の新記録
最後に絵話について記したい。昨年は絵噺には見事なものが多かった。春に竹貫佳水氏『絵噺百話』の第一編が生まれ、夏には三越から少年博覽会を機会に『海の絵噺』が数冊現われた。更に秋に至っては珍しくも従来外国の書物か難しい専門の書物より他に取り扱わなかった中西屋から、巌谷小波氏編、杉浦非水、岡野榮、大田三郎三氏執筆の『日本一の絵噺』という箱入りの非常に凝った美しいものが出たのである。もっともこの日本一の方は従来欧米で刊行され日本へもポツポツ入り込んだ影絵つづきの玩具に等しい品をほとんど丸呑みに移されたものであったが、いずれにしても出版界の新記録でもあればまた幼児玩具の一進歩と見てさしつかえない。『絵噺百話』に至ってはその豊富なる実質においてやや大きな読者をも吸収しているようであった。
これを要するに明治四十四年度の少年読書界は出版者の覚醒期に入ったものであろう。しかしその書物屋の覚醒に伴ふだけの著述者編者側の新運動は見られなかった、同時に少年読者側からもいちじるしき歓迎を受け、盛んに版を重ねたというものもなかった。殊に純お伽噺についてその感が深かったか。さて多望なる今年はどうなるだろう。
◇
【編注】『お伽倶楽部』2巻1号(明治45年1月1日発行)。句読点など適宜修正。
大井冷光という児童雑誌編集者が児童文学の出版情勢にいかに深い関心を抱いていたかが分かる重要資料。こうした業界批評は、この年(1912年)8月、少年文学研究会を結成するうえで素地になっていく。
佐々木邦『いたづら小僧日記』(明治42年)。石松夢人『怪飛行艇月世界旅行』
(2021-05-16 06:33:01)
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