【資料】大井冷光「史實お伽 飛だんご」巌谷小波「飛団子の歌」(大正4年)

飛だんご
      大井冷光

越中の国の真ん中から日本海にのぞんだ海辺に東岩瀬という町があります。この東岩瀬町から右手へ二里ばかり、松青く砂白い浜は越中舞子ともいうてこの国の名所の一つとなっております。

今こそこのような景色のよいところではありますが、むかしはここは恐ろしい森つづきで、昼でも魔物が出るというところ。それで北陸道を旅する人はここを通るときはきっと東岩瀬の町で魔除け厄除けの団子を食べることとなっております。

この魔除けの団子は東岩瀬の飛団子といいますが、それにはまた面白い由来があるのです。

むかし、むかし、ずっとむかしのある秋の日に、この東岩瀬の町から舞子の松原を旅する年寄りがありました。年寄りは優しい娘と召使いとを連れておりました。この娘は年寄りにはたった一人しかない大切な大切な愛娘であったのです。三人は底気味の悪いこの松原道を脇目も振らずに急ぎましたが、そのうちにどうしたことか娘は次第に道が遅れがちとなりますので年寄りは不思議におもって見ますと、顔色はいつか真っ青になって、唇をかたく結んでおります。

「おう娘、どこぞ痛いところでもあるかの」

「いいえ……すこうしばかりお腹がいたみまして……」

「なに腹痛みがする? それはいけない、ささ、こちらでお休み。これ作造や、どこぞで水を汲んで来ておくれ。気つけ薬をふくませましょう」

と年寄りはあわてて娘をそばの松の根に休ませて、懐から反魂丹の包みを取り出して飲ませる、背や腹をさする。大騒ぎで介抱をいたしましたが、やがて、少しばかり痛みも薄らぎましたので

「まずまずよかった。日の暮れぬうちに急ぎましょうぞ。林の中で暗くなっては大変だから」

と三人はまたも道を急ぎました。

さて、この長い松林もあと七八丁でぬけられようという時、今まではまことに穏やかであった日和が、不意に冷たい風がさっと吹きおろして来たと思うとポツリポツリと額をうつ大粒の雨。

「おや、夕立でござります」

「これは大変、早く早く、……」

三人はあわて騒ぐうちにたちまちあたりが真っ暗となり、たらいを返すような大夕立となりました。するとそのうちに凄まじい響きとともに、見るも身の毛のよだつ魔物の姿が現れました。矢庭に娘の髻(たぶさ)をつかんだとみますと、そのまま魔物も娘もかき消すように姿が消えてしまいました。

「あれ娘が!」

「お嬢様が!」

年寄りと召使いとは空をにらんで騒ぎましたが答えもありません。年寄りはあまりの悲しさにばったりその場に倒れましたが、とうとうそのまま息が絶えてしまいました。

ここに東岩瀬町の片ほとり、大村の岡の上に城を構えた轡田豊後守という強い武士(さむらい)がありました。越中五大将の一人と呼ばれ、彼の川中島の戦いで有名な上杉謙信もこの豊後守には幾度か悩まされたという、まことに名高い勇将でありました。

ある日、豊後守はこの舞子松原で魔物に娘がさらわれたという話を聞きますと、たいそう腹を立て、

「おのれ憎っくき妖怪変化、某(それがし)の領内に現れて旅の者を悩ますとは不届千万な奴じゃ、いで一撃ちにしとめてくれよう」

とはやりにはやって立ちかかりますと、家来の人々は驚きました。

「御立腹のほどはごもっともの次第ではござりまするが、いかさま相手は影も形もない魔物」

「刺すにも殺すにも、こりゃ容易な業ではござりますまい」

「なにとぞ十分ともにご用心遊ばされまして」

「ぜひともやつがれどもを召し連れ下されとう存じまする」

と口をそろえて申し出でますので、さすが大胆な豊後守も、なるほどと合点し、

「それほどそちたちが気遣うならば召し連れもしよう、しかし堅く申し付けておくことはいよいよ魔物に出遇うたときにはこちらから呼ぶまでは必ず某に近う寄ってはならぬぞ」
といいのこし、いよいよ勇んで舞子の松原へと向かいました。

頃しも八月、まことに月のよい晩でありました。轡田豊後守はただ独り松原の奥深く分け入りますと、にわかに空が曇って来て、稲妻が光る、雷が鳴る、浜に打ち寄せる波は次第に荒れ狂うて今にも松林をのみそうにも思われる、恐ろしい時化となりました。

この場合、大抵の人なら直ちに腰を抜かして逃げもしましょう。しかし豊後守はさすがに名高い勇将だけにびくともしませず、闇の中に仁王立ちに突っ立って「そろそろ出て来ると見えるな」と笑いながら待ち構えておりました。

そのうちに右手の林からものすごいうなりが聞こえると、がばっとばかりに飛びついたのは毛むくじゃらな大きな魔物。豊後守はそれと見るより弓や刀もまどろしと、その場に組んでかかりました。

さあ魔物も強ければ豊後守もなかなか強い。双方上になり下になって闘いましたが、勝負はいつつきそうにも見えません。そのうちにさすが剛気な豊後守も綿のように疲れましたので、いつか魔物に組み敷かれました。

豊後守はとてもこのままでは勝てまいと思いましたから、かねて控えているはずの家来を呼ぼうといたしましたが声がたたない。ちょうどその時、どこからかポンと豊後守の口の中へ飛び込んだものがあります。つい食べてみるとなかなかうまい。夢中にのみ込みましたが、そのせいでありましょうか、たちまち元気を盛り返しましたから、再び跳ね起きますと、今度は首尾よく魔物を下に組み敷いてとうとう胸元を突き刺してしまいました。

「魔物をしとめた、ものども来たれ!」

と呼ばわる声に家来の人々馳せつけましたが、もうその時は時化もすっかりおさまり魔物の姿もかき消えて、松の枝には大きな月がニコニコと笑って懸っております。

それにしても不思議なことはどこからともなく飛んで来た団子の効き目、これがまったく魔物の退治をさせてくれたものだ、と豊後守は大いによろこんで、それからのち、毎年この魔物を退治した日になると、団子をつくり、家来とともに祝うのをきまりとしました。

その団子の評判がいつかこの土地の名物となり、越中舞子を通るものはきっとこの東岩瀬町で厄除け魔除けの飛び団子を食べる習いとなりました。これがそもそも飛び団子のいわればなし。めでたしめでたし。(終)

  ◇

飛だんご

後藤丞之輔先生作曲
巌谷小波先生作歌

   一
飛んだ飛んだ 飛だんご
 何所から 飛んで来た
  越中舞子の松原に
   さっと天から飛んで来た

   二
飛んだ飛んだ 飛だんご
 何しに 飛んで来た
  化物退治の大名に
   力を貸しに飛んで来た

   三
飛んだ飛んだ 飛だんご
 見事に 飛んで来た
  加賀の太守の御前迄
   飛んで太守に褒められた

   四
飛んだ飛んだ 飛だんご
 けなげに 飛んで来た
  大隈伯の掌の上に
   のって舌まで鳴らさせた

   五
日本一の 飛だんご
 鬼まで 払ひましよ
  桃太郎さんのお腰にも
   付けてやり度い飛だんご

【編注】出典:『史實お伽 飛だんご』(発行所:はぎのや=東京神田区通新石町21番地、大正4年頃)。本文は現代語表示に改めた。『富山日報』大正4年5月15日3面には、次のような記事が載っている。

名物 飛団子
雷門に支店設置
縣下東岩瀬町の名物飛團子は三百年來の歴史を有し大隈伯の推稱を受けたるものにて今や其名内外に嘖々たるが今回竹久夢二氏のレッテル巖谷小波氏の由來書を添え東京淺草雷門附近に支店を設け大々的に賣出し又東海道著名の各驛にも賣出すべき計畫にて本月下旬代表者犬島宗左衛門氏上京支店設置準備を爲す由なり小波氏が飛團子の爲めに物したる歌は極めて愉快なるものにて全文左の如し(以下歌詞は略)

なお、少年文学研究会編の単行本『お伽舟』(大正3年1月2日発行)は、大井冷光が編者をつとめたが、その巻頭口絵の作者は竹久夢二である。つまり、冷光は夢二と面識があったものと推測されるが、詳細は分かっていない。大正4年に制作された飛び団子の栞は、冷光がコーディネートした可能性が高い。

(2021-08-17 22:16:44)

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