【資料】連載「お伽ノート」『富山日報』(1910年)

『富山日報』明治43年6月23日~26日、30日1面連載


お伽ノート(一)

▲飯でも薬でもない

児童の娯楽に供する為めに作らるる一種の小説をお伽噺と云ふのだ、児童が小学校で教はる教科書が三度の米の飯であるならばお伽噺は少なくともお菜か食後の菓子であらねばならぬ、但お菜や菓子である以上は必ずしも滋養分があるとは限らぬ、直接米の代用は出来ぬが、それでも喰って消化の助けとなれば血液を肥やす為めにもなき如くお伽噺も教育の補益となる許りでなく一種の精神教育を施こす事にもなるのだが、さればとて最初から腹をふくらす為めや消化剤を取るのを目的で児童にお伽噺をあてがふ者がありとすればそれは飛んでもない慮見違ひと云ふべしだ、唯甘すぎたり、喰ひ過ぎたり、胃腸を損ねるやうな菓子に気を付けて適度に用ゐさするに越したことはない、即ちお伽噺の価値はその健全なるや否やにある…と解り切った事を説明して置く

▲乞食でもお父さん

そこで教育上のお伽噺の功用を強ひて取り立てて云はふならば情育の発達と、智育の涵養、想像力の養成、それから言語の練習より延ひて意志の発表と迄もなると云ふ得る、例へば浦島が亀の子の虐められる所を救ったとか桃太郎が黍団子を振まったとか云ふのが即ち感情の教育となるし、人真似をして馬鹿を見た隣の爺さんの話を聞けば自然道徳上の観念が付いて来る、又風船玉に乗って空中旅行をしたの、魚と一所に海中旅行をしたと云ふ話を聞く間に自然界の観察心が出来るし同時に児童の心理上に想像力の進歩は著しいものである、最後にお伽噺は乞食の児でも親を呼ぶのにお母さんお父さんと云ふのが普通だ、而してこの叮嚀な奇麗なそれから正しい言葉が児童の言語に及ぼす影響は実に大したものである、かかるが故に従来第一流の文学者であってさへお伽噺を書くのにまだ七八ツの少年の会話に『僕は感心した』とか『実に残念至極さ』などとコマシャクれた言葉を使はせるなどは甚だ以て其罪軽からずである

▲子供らしく嘘らしく

罪の軽くないのはまだまだある、それは近来稍発育しかけた児童の人気に投ぜんとて盛んに人情的なお伽噺を書く人だ、小学生が同志討ちをやるの、小僧が大賊を組み伏せたの位はまだしもだが、義妹を描き従妹を描いて異性に対する観念や人情上の繋累の紛れを描く事に努むる熱心な大人らしい事実らしいお伽噺の行はれるのは、雑誌を売る為めの所謂雑誌主義の然らしむる所とは云ひ大に注意すべき趨勢である、お伽噺は児童の讀物飽迄子供らしい噺、嘘らしい噺であるべき筈だ

お伽ノート(二)

▲お伽大家の事業

お伽噺を大別すると伝説口碑及び仮作談の三つとなる、その仮作談を更に分けると、桃太郎の冒険的、イソップ物語の喩訓的、鼠の嫁入の諷刺的、分福茶釜の座興的、中将姫や松山鏡の如き人情的、ロビンソン漂流記の科学的等に分類出来る、巌谷小波氏の如きは昔から之等の各種を一丸に鍛え上げて凡ての要素の含ました完全な創作に努めて居らるゝ、其試作こそ十六年以来未だ欠けた事のない少年世界の巻頭のお伽噺である、が惜しむ事には実際現時の文壇や教育界が此の巌谷氏の苦心に左程の注意を払はず却って同氏が第二の事業とも云ふべき日本昔噺や世界お伽噺に於ける各国の口碑伝説の紹介の方が遥かに歓迎されると云ふのは頗る味はふべき点であらう、尤も獨逸のお伽大家グリンム兄弟の名を成したのも矢張其創作ではなくて國中の口碑伝説を蒐め廻った功績にあると云ふ

▲骨董品が玩具にならぬ

成程口碑伝説の生命は永劫である、小説に時代物の尊重さるる以上にお伽噺中に此の國民性の発揮した國々の口碑伝説が尊重さるべき筈、然し子供の玩具は獨楽や紙鳶が安全だからとて新案の汽車や自動車のおもちゃを排斥する事が出来ない、却って従来の玩具を基礎として改善を加へ或は新たに考案を施こして盛んに完全な有益な、時代の進歩に伴ふた児童の娯楽品の製作に努めなければならぬ訳だ、それと共に旧来の玩具でも五月節句に嫁の尻を撲つ菖蒲の如き児童に持たして却って害になる様な品は速かに葬むり去るべきものであらう、不肖年来越中の口碑伝説の蒐集を心掛けて居る、が多くは此嫁の尻を撲つ玩具に等しきものばかり、老人に見せたら悦こびもしやうが、児童の玩具は骨董品では間に合はぬ、せめて麦藁の馬でもよろしいから是非郷土趣味を含み乍ら子供に持たして悪くない口碑を掘り当てたいと努めて居る

お伽ノート(三)

△西洋と日本の比較

従来の西洋のお伽噺と日本のお伽噺とを比較すると西洋のは概ね放胆的で積極主義を取って居る、日本のは概ね消極的で、勧善懲悪主義で、因果応報的で、殊にお爺さんお婆さんが主人公になり、子供が副となり従となって居るのが多い、此理由は西洋では早くから子供の世界を幸福ならしめようとて児童本位で出来たも通れものが多いに反し、日本では道徳の標準が忠孝本位で『だから悪いことはならぬ』とか『だから欲ばってはいけない』と云ふ所謂だから主義で出来たものが多い為めだと云ふことだ尤も以上の比較は何れも最早一國の口碑となった話の事だ、今日日本で盛んに作られる仮作談に至っては正に反対の趨勢で、却って忠孝本位の美点を蹂躙し破壊して迄も児童の好奇心に訴ふる作物の少なくないのは注目すべき現象である、

△子供を慰みにする作家

お伽噺は積極的で、向上的で、それから放胆的であるべく、又是非主人公は児童なるべし
など、料理の注文か何ぞの様に注文されては碌な作物の出来る筈もなからうが、さればとて『子供の慰みになるものなら此方でも慰み書きだ、眼先が変って大きな事をさへ仕組めば宜しい』などと頭から子供を軽視して書くものがあるとすれば、実以て聞き捨てならぬ事だ、保母や子守が寝転んで居て子供の伽をするのと同じ話だ、お伽噺をお道化噺を同様に心得て呉れる人が、子供を敬愛する國は栄え子供を軽視する國は滅ぶと云ふ事を知らぬ人だ、

△お伽噺の潮流

静かに観望したらば現今少年雑誌の為めに幾多の文士が不真面目に執筆されて居る仮作談と雖も何時か派が出来、流儀が出来て、又自ら変遷して行く潮流の研究すべき問題があるであらうのに、遺憾乍ら我が文壇は未だお伽噺に対して批評眼を開く雅量を有たない、近い話が昨年文壇を騒がした文章世界の『文壇鳥瞰図』に、お伽噺は小波の獨舞台、他に試みる者があったとしてもそれは何れも大人の読むお伽話を作るのみだと逃て居るなど余りにも酷い事だ

お伽ノート(四)

▲子供の悦こぶお伽噺

『継ツ子が一つ団扇の修理哉』『子は寝ても手の休まらぬ団扇哉』『居ない居ない、バァと笑はす団扇哉』以上は何れも名人の俳句である、何れも子供を詠み団扇を詠んでは居るが、然し三句各其の詠む人の立場の違う所に御眼止めを願ひたい現今お伽噺と名付けられて居る中にも『継ツ子』的なものと、『子は寝ても』的なものと『居ない居ない』的なものと三様あると思ふ『継ツ子』的を作る人は普通の文士や小説家で児童に同情のない人、即ち児童を第三者の位置から眺めて『あんな事をする、こうした可愛い遊をして居る』と感ずる位な人に依って書かれたお伽噺だ、この種の作は同じ立場の大人が見たら面白いに違ひないが御本人の子供に取っては団扇の修理をすると同様些とも面白くもおかしくも感じられない、……此頃何かで江見水蔭氏が云はれた子供に講話をする時分、劈頭先ず子供を笑わせ様と思つて『私は角力を取る事は得意ですが、お話をすることは全く下手です』と、洒落を試みた処が子供の方では笑ふ所か、却って成程さうですかと云はんばかりに感心して聴いて呉れたのには困ったと云ふ話、これが講話であったればこそ江見氏が困られたのだ、当てがはづれたのだ、作る方では講話と違ひ直ちに読者の手對へが知れない處から、勢ひ好い加減に作者の当推量で『これ位の処が子供は悦ぶだらう自分の幼い頃もやはりさうだった』位の処で筆を執????が、現今なかなか多いのだ、夫れから『子は寝ても』的のお伽噺はどうかと云ふに之れは此頃なまじっかな教訓お伽噺を作る人だ、こうしたものを子供に読まする必要がある、こう云ふ点は読ませてならぬ、と浅い 教育の杓子定規を標準にして作り上げ広いのびのびした子供の天地を強ひて狭めやうとする人の作物だ教室で読本の講釈をする口調でお伽噺を語って聞かさうと云ふ人だ、嗚呼是非ともお伽噺と云ふからには『居ない居ない』的でありたいものだ、自ら子供となり、子供の言葉を使ひ、子供と一所に楽しんでから筆を執る人の作物が欲しいものだ。

お伽ノート(五)

▲これからのお伽噺

将来のお伽噺は消極的なるべからず、因循姑息なるべからず、島國的精神を打破して飽迄大陸的精神の養成に努めざるべからざる、又例を俳句で行くとしやうか、『腕白や縛られ乍ら呼ぶ蛍』これだこれだ、お伽噺の主人公には宜しく此の腕白位な勇気を有たしむべきものだ、昨年聞いた例だが受売をしやう先づある処に雛鳶があった、外の兄弟は大きくなると五重塔に上らふ、山を超さうと望んでいるのに、此鳶は無暴にも天に上らふと考へた、巣立ちしてから早速天を目掛けて出掛けたが直ちに眼が眩んで落ちて了った、然し此奴はなかなか屈せぬ、三度も四度も失敗の結果、到頭おしまひに天に上ったと云ふのは近代の思想から生れたお伽噺これが若し従来の日本で出来たならば屹度『眼が眩んで落ちて死んでしまひました、だから無暴な欲は出来ません』と来る処だ、将来のお伽噺は是非雛鳶を天まで上すべきである

▲お伽講演の事

今迄陳べた無駄話は不肖が現今のお伽噺は斯くあるべきもの、お伽作家は宜しくこれ位の心得であらねばならぬと信じた侭を陳べたに過ぎぬ、が詮じ詰めれば、子供の教育は学校の先生や家庭の父兄許りに委すべきものではない殊に子供を度外視し、子供を玩具にするとは甚だ不心得千万である、早く大きくなれ、早く学問しろ、早く一人前の人になれと、子供の成人することのみを急いで強ひて子供の時代を短縮し、軽視ずる様では國本培養上実に嘆はしき次第だ、我が第二の國民は是非尊重してやらねばならぬ、優遇せねばならぬ、子供の天地は今少し大きく真面目に注意を払わねばならぬと云ふのだ、近日中にお伽講演に来県する久留島武彦氏の講演の主旨も亦此処にあれば、吾々同士の今度設けた富山お伽クラブの主旨も何れは之れに過ぎないのだ(完)

【解説】富山お伽倶楽部が明治43年7月3日に発足する直前に、大井冷光が『富山日報』に書いた評論記事(5回連載)。富山お伽倶楽部発足のすぐあとに書かれた久留島巡回講演同行記事「お伽多根萬記」(6回連載)とともに、上京前の富山時代の児童文化に対する冷光の考え方を知る上で重要な史料である。この時点で、お伽噺や児童文化への理解は相当高いレベルにあったことが分かる。特に、お伽噺をお菓子にたとえる「お伽噺=お菓子」論は、巌谷小波「嘘の価値」『「婦人と子ども』6巻8号(明治39年8月)に既に書かれているもので、冷光が巌谷の影響を強く受けたことを裏付ける。

「お伽噺=お菓子」論は、2か月あまり前の『富山日報』明治42年4月13日少年欄のコラム「スケッチ」でも分かりやすく子供向けに記している。「取れば取る程渉れば渉る程面白いものは雑誌である、雑誌は書斎に於ける好侶伴、教科書に倦んだ頭をチョイトそらして口絵を見るのも愉快なれば雨の日曜を冒険小説やお伽噺を読んで暮らすのは殊に好い、然し諸君雑誌はお菓子である、おいしいものには相違ないが飯の代りにはならぬものだ、されば諸君は三度の食事を止めてお菓子許りを食べる日の無い以上は雑誌ばかり読んで教科書を読まぬ否学課の復習をせぬ日はこしらえ給うな」

(2013/10/06 23:37)

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