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第4章第4節 記者1年目の懺悔


明治39年11月30日、大井冷光は1年志願の兵営生活を終えて富山に戻った。生後3か月になる長男光雄と初めて対面した。許婚の文と伯母、いとこ3人、祖母の8人の大家族となった。[1]

明治40年元旦。インバネスコート(和装用の二重マント)といういでたちで、冷光は午前8時、井上江花の家(富山市鹿島町18番地)に年始の挨拶に訪れた。そして連れ立って回礼に出た。『高岡新報』富山支局(富山市旅籠町)の新聞記者としての1年目がスタートした。[2]

次のような入社の辞が残っている。

「風に曝され雨にうたれ或は空とぶ鳥に啄ばまれて漂浪の幾年を過せし予や名無小草のこぼれ種なり、今度天地の運気そなはり暖かき慈恵を授かりて馴染み深き新報社の片隅にその二葉を開くの栄を得たり、元より装ふべき色香などは更々有せぬ代物なれど筆と腕との別目は未だ存せぬ聊かのたてまへ誓つて先輩の驥尾に従ひせめては麻圃の一草たらんことを期す、希くは此の微哀を諒し給ひてよと爾云」[3]

強い気負いが感じられる文章である。冷光はまだ兵営にいた明治39年10月27日に井上江花から新聞社入社のために課題の作文を求められた。そのとき書いたのがこの入社の辞なのかもしれない。江花への手紙の中には、『記者の覚悟』を7、8回作り換えていると記している。

明治40年1月5日、本社がある高岡で開かれた高岡新報新年宴会に、富山支局主任の井上江花や支局営業担当の安村和吉らと一緒に出席した。

冷光は明治40年から43年にかけて4年間、富山で新聞記者をつとめた。前半は『高岡新報』に在籍し、その後『富山日報』に移籍した。

残念ながらこのころの『高岡新報』は図書館に保存されていない。現在まとまって所在が確認されている『高岡新報』は明治42年11月からの紙面である。したがって、冷光が記者1年目に何を担当しどんな記事を書いたのかはほとんど分かっていない。井上江花が後年に連載した「冷光余影」の中に、記事と見られる文章がいくつか収録されているのみである。

一方、日記は明治40年1月から6月ごろまでの半年間、比較的丁寧に記され、忙しい記者生活が垣間見られる。明治40年夏から翌41年夏にかけては短文のメモになり、41年6月で終わっている。

冷光の記事は明治39年の元日紙面に載ったかもしれない。歩兵第35連隊入営中の11月23日の手紙に「初刊に何ぞ拙作を載せて下さる仰せ、それでは兵営日記の中から引伸したものもありますから、何れ御相談仕りませう」とある。井上江花が後年まとめた冷光の「新兵日記」(明治38年11月28日~12月17日「冷光余影」所収)が、それにあたるのかもしれない。

富山支局の取材対象は県庁、市役所、高等小学校、師範学校、警察、監獄署などさまざまだった。冷光は「江冷日誌」や「富街放語」というコラムを書いたらしい。江冷日誌は、江花と冷光が交互に書いたものか。

1月14日「江冷日誌出る、予が弥三馬処で牛蒡を御馳走になったことなどが書いてある」
2月7日「晩江冷日誌をかく」
2月19日「冷光はレコなり女なり金なりと云ふ江冷日誌今日の新聞にのる」
3月2日「晩に富街放語をかく」

井上江花とはいつしか家族ぐるみの付き合いとなっていた。江花の妻操が残した日記では明治40年1月、冷光と文ら家族が江花の家を訪ねた日は1か月間で19日間あり、何度もの食事の提供を受けている。1月30日、江花は娘の涼江のために風琴(オルガン)を買いに冷光とともに中田書店に行き、翌日、20銭で購入を決めている。風琴が届くと、涼江は大変喜び、冷光も弾いて見せた。「実に些の不足なき井上先生の家庭哉」と日記に記している。

冷光は月末の初給与で早速、書店の清明堂に行った。『話の聞書』『膝栗毛』『武蔵野』の3冊を買った。福引を引いても10等の鉛筆ばかりだったが、店の人は『西国立志篇』をくれた。「一時長者にでもなったような気がして頗る愉快なり」と記している。

入営前の生活が戻りつつあった。1月28日には江花・五艘・操と4人で俳句会を開いた。一番たくさん詠んだのは操だった。江花と冷光は「鹿島庵三趣」という小品文を競作した。[4]

江花が主宰する探検団は、1月20日の日曜日に越川楼で入団式が、2月1日と3月1日に講話会が開かれた。団の雑誌も引き続き発行されたようである。

1月20日「午後雨、探検団入団式を越川楼で行ふ、それから支局で滅多汁会を開き福引余興僕に「男でござる」の六尺褌があたった」
2月1日「晩 探検団の講話会あり僕が黒壁探検談はアッケなかったが先生が中村門平が北海道金庫探検記は頗る団士を喜ばしめた、十一時閉会」
2月9日「支局で先生、白舟、浮瓢の三人と明日の探検団の行動に付協議しそれから一緒に鹿島町へ行き粟餅を頂いて箱根塔の澤探検談や八笑人の話を聞く十一時にかへる」
2月10日「午後探検団員九名にて山室町村の蓮乗寺へ行き卯花汁をこしらへる」
2月19日「午後より晩にかけて井上先生宅で探検雑誌の編輯のお手伝へをして晩餐の御馳走になる」
2月23日「探検雑誌に白舟さんの肖像画をかいて置いたとて白舟兄にうらまる」
3月1日「晩探検団の講話会にて先生は越中上古史の奇説を述べられ予は昨夜の夢物語をする」
3月28日「支局へ戻ると探検の校正五枚来る校正を終り同活版所田中へ持って行き帰ると三時半、空腹でからだの肉が溶けて行くやうに思った、晩に先生方へ行くと探検団士、渡邊ポンキン、及び予等別々に綺麗な絵はがきが先生から来てゐた」
4月7日「探検の表紙が刷れたからそれを持ち五艘さんを訪ね二人にて呉山を一周しかへる」
4月8日「探検出来団士へ分つ」[5]

先輩久田二葉の急死

明治40年2月27日朝、東京から悲報が舞い込んだ。「八ジハンケンキシンダセイ」。農学校時代の先輩で読売新聞の園芸記者、久田二葉(賢輝)が亡くなったのである。24歳の若さだった。セイは久田の妻誠子である。

後輩の島谷直方から久田が風邪を引いたという知らせが来たのは2月4日で、それから3週間余り。東京府下西ヶ原294番地の自宅で療養中だったのだが、病状の悪化を伝える知らせが何度か来ていた。

久田は農学校を冷光より2年早く卒業し、明治36年、葉煙草専売局の技術官として、北陸を代表する葉たばこ産地である石川県鶴来町に在住したらしい。明治36年9月から『農事雑報』、同年10月からは『家庭雑誌』に寄稿。明治37年には、幸徳秋水と堺利彦(枯川)が編集する『平民新聞』1月17日付に「予は如何にして社会主義者となりし乎」と題して自分が社会主義者になったいきさつを投稿している。その後、『家庭雑誌』『博物学雑誌』に数多く園芸記事を寄稿している。このころには結婚していたという。

久田は明治38年5月に静岡に移って焼津に居住していたが、明治39年4月に上京して読売新聞の記者となったという[6]。「農芸付録」だけでなく「小供の新聞」という科学読み物も多数連載し、冷光よりもひと早く文筆で身を立てていた。『園芸十二ケ月』が代表的な著作となった。『簡易生活』『少年世界』『園芸之友』にも記事を寄稿している。

冷光が久田に会って人生論を聞かされたのは、農学校を卒業した春、明治36年5月のことだった。それから4年近く、冷光も久田も人生の荒波にもまれ、顔を合わせる機会もないまま文通だけを重ねてきた。

「予が性来の意気地なさと潔癖とで何時も淋しい独り旅をして居るのに初めて憧れの良師を紹介してくれたのも又彼であった」

2年ほど前、大学進学の夢を断たれ、一家を背負って働くことを余儀なくされたとき、井上江花を紹介してくれたのが久田だった。久田が尽力してくれたから、記者としてスタートを切った今の自分があった。

冷光が春に上京するという噂を聞いていたのか、2か月前に久田から便りが届いていた。東京・西ヶ原の自宅に遊びに来るようにという誘いだった。久田の葬儀に駆けつけたい冷光だったが、そんな余裕は時間的にも金銭的にもなかった。結局、東京にいる島谷直方と市山雄二(いずれも富山県農学校卒業生)が葬儀の世話をした。

反省ばかりの記者1年目

新聞記者1年目に冷光が残した仕事は、紙面が残っていないため正確には分からないが、翌年の年頭に明治40年を振り返った文章が残っている。[7]

「明治四十年は予の記者となりし初陣の歳なりき、入門の歳なりき、而して嘗てこの経験なき予に取りては実に過去十年にも増して価値ありしと覚ゆ、蓋し予の記者となりたる当初は趣味の為なりき、素より才短く修養至らず、未だ充分に世相を解し得るの能なくて大胆にも之を報道するの任に当りし所以は則ち予の深き趣味の為なりき、而して斯く趣味に依りて経過せし過去一歳は概ね予の失敗蹉跌にて終りたり、試みに二三を懺悔せん乎」

趣味で文章を書いて仲間内で楽しむのと、取材して文章を書いて大勢の読者に伝えるのとでは、責任の重さが全く違う。1年目はそれが分からないまま書いていたということだろうか。文芸趣味の延長で仕事をしていたことを素直に反省しているのである。冷光は、3つの取材を懺悔している。5月の東京勧業博覧会、7-8月の立山登山、10-11月の第9師団機動演習である。

東京勧業博覧会記事は私的日記

東京勧業博覧会は明治40年3月20日から7月末まで約4か月間、上野公園の不忍池畔で開かれた。4月上旬に井上江花が高岡新報としては初めて出張取材している。江花はこのとき全国記者大会にも出席した。同じとき、妻操も金沢に行くことになり、家を長期間空ける事になったため、冷光とふみは井上家の留守番を頼まれた。結局、操の金沢行きは取りやめになるが、江花が留守の2週間ほどは毎日のように家を訪ねて江花からの手紙を受け取ったり操の話し相手になった。

冷光は5月4日から第3陣として東京に派遣されたのだが、9泊10日間の取材を自身でこう総括している。

「当時の予は首都の精華を視察し之を紙上に紹介すべく余りに不容易なりき、予はこれが報告を紙上に掲ぐるに及びて僅かに予の田舎者なるを説明するに過ぎざりき」

明治40年5月 冷光の東京勧業博覧会取材日程

  • 4日 東京勧業博覧会視察へ富山を出発

  • 6日 島谷と博覧会視察 富山県の銅器売店を見る。夜、島谷と話す

  • 7日 島谷と婦人博覧会(増上寺前会場)、靖国神社へ

  • ?日 肥料展覧会(本郷・麟祥院)

  • 8日 午後、亀戸の藤を見た帰り、浅草の名和昆虫館を訪ねる

  • 9日 2月死去の久田二葉ゆかりの西ヶ原農園を訪ねる

  • 10日 湯島の友を訪ねる。不忍の夜景眺める(東京最後の夜)

  • 13日 6時10分発の上り列車で東京を出発。終列車で富山に戻る

井上江花が後年まとめた「冷光余影」に、東京勧業博覧会関係の旅行記や視察記が計12本収録されている。おそらくこれが掲載された新聞記事なのであろう。冷光の書く文章は、ともすれば私的な日記に近く、斜に構えたところがあり、皮肉交じりの読物である。

冷光はこの東京取材で2か月前に亡くなった久田を弔っている。久田が理想を求めていた西ヶ原農園(東京府北豊島郡瀧ノ川)を訪ね、久田の友人、藤野至人に案内してもらった。[8]この藤野は、冷光にとって後にかけがえのない友人となる。

甘かった立山登山取材


懺悔した3つの取材の2つ目は、7月下旬から8月上旬にかけての立山登山である。冷光とって立山登山は初めてだった。

立山は古くから山岳信仰で知られた山である。当時は毎年7月23日から登山シーズンが始まり9月5日までの45日間に3000人くらいの登山客でにぎわったという。冷光はこの年の取材で、50年以上かけて立山登山が通算99回という77歳の男性の話題や、女性が少ないとはいえ13歳の少女が山頂にいたという話題を拾っている。

冷光たちの山行は正確な記録が残っていない。ただ冷光が翌年著した『立山案内』にいくらか記述がある。それによると、「高岡新報社立山探検隊」という60人余りの団体で、これほど大規模な団体で立山に登山したのは初めてという。日記には分隊とあるからいくつかのグループに分かれていたのだろう。井上江花も参加したとみられる。

7月27日「晩高松旅館に先着せし探検隊第二分隊を訪ふ」
8月2日「探検隊下山 支局にて昼食を喫す 予は隊と共に本社へ行」

富山市から立山山頂(雄山3003m)まで当時往復で最短4日とされた。『立山案内』に30日登頂を示すスケッチがあることから、おそらく7月28日出発、30日に登頂し、8月2日下山したとみられる。立山登山は通常、本峰の雄山山頂(標高3003m)の峰本社に参拝することをいうが、この探検隊は雄山・大汝山(中央峰標高3015m)・富士ノ折立を縦走し、小走りのガレ坂を下り室堂に戻った。[9]ちなみに約2週間前の7月13日、柴崎芳太郎が率いる陸地測量部が剱岳に初登頂し、7月28日に柴崎自身が登頂した。そして31日には立山温泉に下って、柴崎が富山日報などの記者3人の取材に対応しているのだが、冷光が一連の出来事を知っていたかどうかは明らかでない。

初の立山登山の取材を終えて冷光の懺悔はこうである。

「而して余は其の幹部の末班となりて六十有余の読者と共に立山の三山を跋踏するを得ぬ、其際忠実なる先輩諸兄は是等隊員を遇すると甚だ厚かりしに反し余は担任せられし記録の職務をさへ意の如くに尽すこと能はざりき、こはその失敗の二なり」

3000メートル級の山が初体験であり、思うような取材ができなかったのであろう。

冷光は下山して「御来迎様」という探検記をまとめ、それは8月8日3面に第1回が掲載されていて、その後連載されたとみられる。この探検記は「十畳敷に六十人の雑魚寝を、やっと遁れ出て」の書き出しで始まる比較的長いルポである。午前2時20分に18人が室堂を出発し、標高差550メートルを登って山頂で午前4時15分のご来光を拝むまでを描く。

「熊先生」とあだ名をつけた仲語(山岳ガイド)と写真機を担ぐ18歳の人夫松公を登場させ、随所で笑いを誘いながら展開する。途中、切り立った龍王岳を目にすると、熊先生が「あの山は全て壁計りで峰には天狗様が居りまして麓へ近寄ると砂利を投げるから、とても近づけません、ナア松公」と言う。探検記の最後は「殊勝らしく立ちすくんで合掌する熊先生の痘痕の面に金光が漲って見えた」と締めている。

冷光の文章は、まだ江花の影響をそれほど受けていない『墨染借家日記』の前半を読んでみても、ユーモアのセンスを感じさせる。その後、江花と付き合うようになってそれが一層磨かれたものと思われる。江花によると、冷光自身はこの軽妙な筆致の探検記を得意にしていたという。[10]

立山登山は、冷光にとって大きな転機となる。翌年7月に出版される『立山案内』という書籍が一つの成果になるが、それだけではない。立山という信仰の山を調べるうちに、伝説や民話、つまり巌谷小波のお伽噺の世界に再び関心が向くようになるのである。これは後で詳しく述べる。

軍演習記事は他紙に及ばず

懺悔した3つ目の取材は、陸軍第9師団の機動演習である。明治40年10月28日から11月2日にかけて、主に富山県西部で行われた。

「我が社は余に特派陪観の重任を与へたり、余は此際直接北陸の各同業者と行動を共にし其技倆を競ふべき好個の機会を有し乍ら而かーも其の報道に甚だ及ばざりしものありき、こはその失敗の三なり」

つい1年前まで1年志願で兵営にいた経験を買われて、期待されていたのだろうが、結果は他紙の記事に及ばなかったと反省しているのである。

冷光は、政治経済などの硬派記事や論説などはほとんど書かなかったものと見られる。ただ軍の記事を苦手にしたわけでない。約1年後に移籍した『富山日報』で兵営物の記事を得意の風刺を利かせて綴っている。

3つの取材の懺悔を記した後、記者1年目の反省の弁はこう続く。

「斯くの如くにして余は幾多の複雑なる問題に対し多くの及ばざる観察と至らざる報道とを敢てしたり、而して其の都度親切なる同人諸君の指導と、寛大なる読者諸君の同情とは愈奮励の鞭撻を余に与へたり、斯くて余は当初の趣味以外に重大かつ至難なる記者の職分を自覚し、其の職分に依りて更に新なる希望と趣味を享受するに至りたり」

そして、冷光は反省をふまえて次のような誓いを記者2年目の明治41年年初に掲げている。

「一、余は職務上情実の障害に妨げられざるを期す、毀誉褒貶何れを報ずべき場合に於ても余は余の神聖なる職分に対しては微塵だも私情を挿むなきを誓ふ、
一、余は十の悪事よりも一の善行を需めて之を報ぜんとす、而して仮令善行ならざる記事に対しても必ずやこれに美なる判断を加ふべし、地方の旧弊未だ新聞記事と言へば犯罪と猥褻に限られたるものの如く想像し且つしかく要求するの今日之が革新を促し趣味の向上に尽さざるに於ては風教上の害毒之れより甚だしきは莫らん、
一、余は筆以上に足を重んずべし、百般の事物、凡て実査精探の上ならでは執筆すべきに非ざるは勿論なるが余は一行の雑報と雖も其の責任の如何に重きかを思ひて之を苟くもせざらんことを期す」

「趣味の向上に尽くす」。これが冷光の目指すお伽倶楽部へとつながっていく。

お伽倶楽部の再開、児童雑誌全盛へ

冷光が1年志願で兵営生活を送り戻って新聞記者となった明治39年から40年にかけて、東京での児童文化運動は大きな動きを見せていた。久留島武彦が日露戦争から戻ってお伽倶楽部を再度立ち上げ、巌谷も少年雑誌の読者会を全国各地で展開しはじめたのである。

お伽倶楽部は明治36年6月に横浜で設立され、月1回の活動が半年間続いたのち、久留島が日露戦争に駆り出され、中断を余儀なくされていた。それから2年9か月後、久留島が戻って明治39年3月17日、再開された。[11]児童のため家庭および学校の補助機関となって清新の趣味と知識を与えるという目的はそのまま引き継ぎ、新たに会頭には伯爵の柳原義光(1876-1946)、顧問に『少年世界』主筆の巌谷小波と音楽家の東儀鉄笛を据え、久留島は主幹となった。

今やお伽噺の権威として全国に知られる「書き手」の巌谷小波。お伽噺や講話を語り聞かせる「話し手」の久留島武彦。黄金コンビが再び手を組んだのである。

お伽倶楽部は3月17日に第1回お伽講話会を開き、その後毎月1回、「お伽講話会」または「お伽話の会」という催しを開いていった。その内容は、お話(口演童話)を中心にして唱歌や楽器演奏、芝居などを組み合わせたもので、3年前の横浜でのお伽倶楽部とそれほど差はない。

2人は3年前から変わらず芝居という共通テーマを持っていた。巌谷はお伽芝居に加えて学校芝居という新しい脚本を『少年世界』に発表する。一方、久留島は、尾上新兵衛のペンネームでお伽芝居『蛙三の笛』(あぞうのふえ)の脚本を書き、明治39年5月17~19日に本郷座で上演した。[12]

お伽倶楽部が3年前と違うのは最初から全国展開を目指していたことだった。それが『少年世界』を出版する博文館の戦略とも一致した。

明治39年1月、実業之日本社が『日本少年』を創刊した。これで『少年世界』『少年界』『少年』の主要4誌となり、競争が激しくなった。博文館は同年1月に『幼年画報』を、9月には『少女世界』を創刊した。いずれも主筆は巌谷である。

主な少年少女雑誌の創刊

  • 明治28年1月 『少年世界』 博文館

  • 明治35年2月 『少年界』 金港堂書籍 多色刷り表紙

  • 明治35年4月 『少女界』 金港堂書籍 初の小学女児向け雑誌

  • 明治36年10月 『少年』 時事新報社

  • 明治38年 『日本の少女』 大日本少女会

  • 明治38年 『少女智識画報』 近事画報社

  • 明治39年1月 『日本少年』 実業之日本社

  • 明治39年9月 『少女世界』 博文館

  • 明治41年2月 『少女の友』 実業之日本社 主筆星野水裏

  • 明治42年6月 『兄弟』 国学院大学出版部

  • 明治42年6月 『姉弟』 国学院大学出版部

  • 明治43年12月 『幼年世界』 博文館 巌谷小波・武田櫻桃が編集

  • 明治44年3月 『小学生』 同文館 葛原しげる編集

  • 明治45年1月 『少女画報』 東京社

  • 大正2年1月 『少女』 時事新報社

  • 大正3年11月 『少年倶楽部』 講談社

博文館の『少年世界』は、明治36年末に読者会規則を定め、翌37年から読者会を組織してきたが、明治39年秋、より読者の心をつかむため「少年世界幻燈隊」を行うことにした。幻燈機を持って各地を巡回し、お伽噺や子ども向けの講話をするのである。この幻燈隊を率いたのが久留島だった。

久留島は明治39年9月、博文館に入社して講話部主任となり、「少年世界幻灯隊」を指揮することになった。[13]第1回のお伽幻燈会は10月20日、東京牛込区の筑土小学校で行われた。第2回は同月27日、牛込区の市ケ谷小学校で、第3回は11月16日から甲府市一円というふうに広がっていく。内容はお伽噺に唱歌や講話、お伽倶楽部と似ているが、対象はあくまでも読者である。

各地に出かけると、巌谷は教師や文芸愛好家の求めに応じて教育や文芸の講演も行った。久留島は自らのお伽倶楽部の活動に賛同してくれる人物を見つけ、その土地ごとに活動を立ち上げることを呼びかけた。

そのかいあって同年12月16日には、京都お伽倶楽部が第1回のお伽話会を、12月22日には品川お伽倶楽部が発会式、翌40年1月11日には大阪お伽倶楽部が発足した。翌年2月には京橋、四谷にお伽倶楽部の支部が誕生している。

明治39年から40年にかけて、久留島はとにかく多忙だった。毎月1回のお伽倶楽部の活動に加えて、中央新聞社と博文館の仕事を掛け持ちしていたからである。明治時代は2つの会社に籍が置くことができたのであろうか。中央新聞社では明治39年11月に創刊した週刊の子ども新聞『ホーム』を担当し、その紙面に尾上新兵衛の名でお伽噺やお伽芝居を書いた。博文館では、少年世界幻燈隊を指揮しながら『少年世界』誌上で活動報告とお伽芝居などを書いている。

この時期、久留島は特にお伽芝居に力を入れていた。明治40年3月9日、お伽倶楽部の再開1周年にあたる記念大会が開かれ、お伽芝居「羊の天下」(巌谷小波作)を上演し、自ら舞台監督をつとめた。出演したのは島根出身の石川為一(木舟)と天野隆亮(雉彦、1879-1945)たちである。お伽倶楽部付属のこの劇団はその後「東京お伽劇協会」と名を変え、同年4月の第2回公演では久留島の「新桃太郎」を上演した。[14]

東京勧業博覧会が終わった明治40年7月以降、おそらくほどなくして久留島は中央新聞社を辞めた。お伽倶楽部が全国に展開し始めたのと『少年世界』の地方巡回で忙しくなってきたためである。

明治39年、お伽倶楽部の顧問に就いた巌谷小波と東儀鉄笛について触れておく。巌谷と東儀は明治36年1月から『少年世界』で唱歌を連載してきた。その曲は80曲ほどになり、そのうち47曲をまとめて『お伽唱歌』(上)(下)明治40年12月に博文館から出版している。2人はお伽倶楽部の会歌をつくった。[15]

さて、こうしたお伽倶楽部の展開を、新聞記者1年目の大井冷光は知っていたのだろうか。

冷光の日記や書簡には、明治39年から明治40年にかけて、お伽話や児童雑誌、唱歌などに関する記述は全く見つかっていない。おそらく古くからの愛読誌『少年世界』は読んでいたかもしれないが、深く関心は持っていなかったのではないだろうか。師である井上江花自身はお伽噺に関心を持っていなかった。[16]

前述した東京勧業博覧会で、中央新聞社は「ホーム館」を出展していた。館を監督したのは週刊子ども新聞『ホーム』を編集していた久留島で、自ら収集した犬の玩具110余を陳列したりお伽噺「三日嚊」を演じたりした。館は人気を集め、1日平均数百人の来訪者があったという。[17]

冷光はこの博覧会を視察しながら、ホーム館のことを1行も記していない。新聞記者になって半年足らずの冷光はこのころまだ子どもの文化に関心を持つ余裕がなかった。久留島が新聞社に所属しながらお伽倶楽部を運営していることはまだ知らなかったにちがいない。2年後、冷光はその久留島とよく似た道を歩むことになる。

[1]大村歌子編『天の一方より』によると、文の入籍届と長男光雄の出生届は明治40年1月20日付。「冷光余影」49『高岡新報』大正11年5月10日によると、結婚届の保証人はいとこの弥三馬と支社営業担当の安村和吉となった。

[2]「冷光余影」8『高岡新報』大正11年1月12日、「記者たる覚悟」では「明治四十年は予の記者となりし初陣なりき」とある。高岡新報社に入社した日は、正確には判明しておらず、明治39年12月の可能性もある。明治40年1月2日午前零時から江花と五艘三郎とともに初売りに出かけ、その際、支局に出入りしているから、すで支局生活もこの時点でスタートしている。

[3]「冷光余影」36『高岡新報』大正11年4月4日には、「明治四十一年、高岡新報入社の辞である」と井上江花の注釈が付いているが、明治40年の誤りと見るべきであろう。「冷光余影」では明治40年と明治41年の取り違えが他にもある。

[4]「酉留奈記」2・02『高岡新報』大正10年8月3日に、この夜詠んだ12の句と小品文がまとめられている。

[5]大井冷光の日記によれば、明治40年4月初旬に探検雑誌を出版した後はほとんど記述がなく、明治40年9月15日に「北陸探検団柳ケ島紀念会を開く」、明治41年6月15日「小泉探検団員の会堂結婚に列席」とあるのみである。『富山日報』明治41年7月2日には、「探検団の園遊会」という見出しの記事があり「富山探検団にては来る五日午前九時より団司令井上江花の後園にて夏季総会を兼ね園遊会を催ほすが其余興には団員の隠し芸数十番あり」とある。『富山日報』明治41年10月18日には、新刊短信欄に『探検』第6号が紹介されている。「富山探検団の機関雑誌探検は本號より大発展をなせり、表紙絵の極彩色目も醒むるばかりにて口絵には赤丸古墳探検の写真版を掲げ内容は言論冒険小説探検譚より文芸欄に至る迄何れも賑へり、殊に団司令の『戦争と探検』涼月子の『旅行の趣味』等読む可く又紅火の小説『古城物語』は旧作ながら西洋種丈ありて甚だ奇抜なる読物なり、兎に角北國文壇上一異彩たるを失はず(一冊拾銭富山市中町北陸探検団発行)」。この記事には富山探検団と北陸探検団という固有名詞が2つあり、現物が図書館に所蔵されていないために子細は不明である。

また『高岡新報』明治42年12月6日によると、富山支局楼上で団憲法制定の紀念式と追悼会が開かれ10数人が出席した。井上江花・荒井・白舟・涼月・冷光・青蛙の名が記されている。追悼されたのは泉富喜・余川直吉・安村和吉・横山光太郎の4人である。この江花主宰の探検団が名称も含めてどのようなものであったのかはまだ調査の余地がある。

[6]堀切利高「久田二葉と添田唖蝉坊」『初期社会主義研究』第9号(1996年)による。『平民新聞』の寄稿した自伝によると、久田の家は武士出身の祖父が財産を築いたが、婿養子の父は村長などもつとめたが散財して没落した。明治36年秋に父が亡くなると、久田は20歳そこそこで一家の生活を背負わなければならなかった。信勝にとって、久田のおかれた境遇は自分の境遇と似ていると感じたことだろう。久田から来た書簡には「僕等の境遇には決して良し悪しも何にもない只其の人相当の境遇の下で呼吸して居るものとして置けば宜しく侯らはずや」(明治35年5月7日)と励ましの言葉が綴られている。

[7]「冷光余影」8『高岡新報』大正11年1月12日、「記者たる覚悟」

[8]「冷光余影」66『高岡新報』大正11年6月11日、「思出の西ヶ原」

[9]大井冷光『立山案内』(1908年)p99。立山登山会編『立山案内』(大正4年)p7では、「高岡新報社主筆井上江花君の如き自ら探検団を組織し立山探検を試み」とあり、江花自身も参加していたと見られる。小走りルートをとったことは、「天の一方より」(八)『富山日報』明治42年8月6日に回想として出てくる。

[10]「冷光余影」26、27『高岡新報』大正11年3月11日・18日、「御来迎様」。「蝸牛随筆」『江花叢書』第13巻(1935)p24、「立山の書籍」。「御来光」(ごらいこう)ではなく「御来迎様」(ごらいごうさま)であることに注意が必要だ。御来光は日の出だが、御来迎は太陽を背にしたとき霧に自分の影が映り、影の周りに虹が見える現象、つまりブロッケン現象のこと。明治40年の立山登山では結局御来光しか見ていないようだが、明治42年には御来迎を見たようだ。

[11]久留島は最初、記者として特派されたのち、後備役で召集された。本ブログは当初3月4日再開と記していたが、浅岡靖央「お伽倶楽部はいつ始まったのか―お伽倶楽部研究序説―」『大阪国際児童文学振興財団研究紀要』30号(2017年3月)によって、3月17日が正しいものと見て2019年8月に記述を改めた。生田葵『お話の久留島先生』(1939年)には誤記が多いので要注意である。

[12]お伽倶楽部は明治39年5月時点で、京橋区築地二丁目三十六番地の住所となっている。脚本『蛙三の笛』による。

[13]坪谷善四郎編『博文館五十年史』(博文館、1937年6月、102頁)。久留島の児童文化活動30年を記念して刊行された『いぬはりこ』(1941年11月)で、坪谷「旅たより」によると、博文館在籍は明治39年9月から明治44年6月まで4年10か月だという。また『少年世界』によると、幻灯隊という名称の活動は明治40年7月まで続いた。

[14]冨田博之『日本児童演劇史』(1976年)p61-62。生田葵『お話の久留島先生』(1939年)p121-125。

[15]後藤惣一『久留島武彦』(2004年)p98。巌谷は東くめ・滝廉太郎・鈴木毅一がつくった『幼稚園唱歌』(明治34年7月発行、共益商社書店)の相談にのるなど、子どもの歌にも関心を抱いていた。

[16]「酉留奈記」3・19『高岡新報』大正10年11月2日。「(巌谷小波)の著書の大部分は一通り目を通して居たが、私はお伽ものに深い趣味を有たぬ上に小波さんの作品の愛読者では無かった」と記している。

[17]後藤惣一『久留島武彦』(2004年)p84。週刊子ども新聞は、大島十二愛「新聞記者時代の久留島武彦と子ども向けジャーナル―中央新聞『ホーム』のデジタル化保存と分析を中心に―」『共立女子大学文芸学部紀要』第57集(2011年)(2013/02/28 23:16)、2019年8月修正

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