見出し画像

第6章第3節 晩翠・藤村の詩への作曲


大正2年から4年にかけて、室崎清太郎(琴月)の足跡は、東京音楽学校の外に残っている。雑誌『音楽界』に掲載された10曲の楽譜である。その多くは、清太郎が入会した作曲研究会でかいた習作ではないかとみられる。なかには、当時の代表的な詩人、土井晩翠と島崎藤村の詩が1曲ずつ含まれている。

作曲研究会の習作か

作曲研究会は大正元年12月1日、音楽教師の全国ネットワークである音楽教育会内に設立された。会員募集に対して、1か月で定員100人に達し、大正2年1月から通信講義が行われたという。[1]清太郎もその会員の一人になった。

雑誌『音楽界』は、山本正夫が主幹をつとめ、一般雑誌であると同時に音楽教育会の機関誌でもあった。通信講義の成果として、会員の習作が大正2年4月号から毎号のように掲載されている。(第2章第5節参照)

清太郎の作品は、大正2年4月号から大正3年4月号にかけて約1年で計7曲、すこし間があいて大正4年1月号と5月号と7月号にそれぞれ1曲の計3曲で、全部で計10曲が確認されている。5曲は数字譜、5曲は五線譜である。数字譜の作品は、1ページに4人または6人の作品がまとめて掲載されていて、いかにも習作らしい。

【数字譜作品】

《歌の徳》
《富士詣》
《小女の里》……せいざん作詞
《春の道》……土井晩翠作詞 ※《春の夜》の誤植
《蟹の歌》……島崎藤村作詞

このうち《歌の徳》《富士詣》は共通の課題曲であったらしく、他の会員も同名の作品を競作している。

【五線譜作品】

単音唱歌《夕栄》……虹川作詞[2]
単音唱歌《月下の鴨》……野田舟作詞
単音唱歌《小花園》……紫山作詞
合唱曲《花すみれ》……葉末露子作詞
重音唱歌《少女の涼み》……鈴木花子作詞

五線譜の作品は1ページまたは見開きで歌詞付きでなので、共通課題曲とは違い、評価を得て掲載された作品のようである。ただ『音楽界』にはなぜそれが選ばれたのかは記されていない。[3]

《春の夜》と《蟹の歌》


さて、土井晩翠(1871-1952)と島崎藤村(1872-1943)、「晩藤時代」と称される新体詩の2巨人の作品である。大正3年3月の《春の夜》は晩翠の詩集『天地有情』に収められ、大正3年4月の《蟹の歌》は島崎藤村の詩集『落梅集』に収録されている。

土井晩翠は、滝廉太郎の名曲《荒城の月》(東京音楽学校編『中学唱歌』明治34年所収)の作詞者として知られ、妻の林八枝が東京音楽学校に在籍するなど、音楽学校と縁があった。《春の夜》の原作は題の《はるのよ》も含めて全文ひらがなである。作曲家として大先輩にあたる滝廉太郎を通して、清太郎は土井晩翠の詩を知っていたことであろう。『天地有情』は晩翠が28歳で上梓した第1詩集で、明治32年4月7日に博文館から発行された。関東大震災までに74版も版を重ねたというから、大正3年の時点で清太郎が手にしたとしてもおかしくはない。清太郎は『天地有情』のなかの《夕の星》にも曲をつけている。なお、筝曲家の宮城道雄も後年、同名の筝曲《春の夜》を作曲していて、こちらの方はよく知られている。

はるのよ
あるじはたそやしらうめの
かをりにむせぶはるのよは
おぼろのつきをたよりにて
しのびきゝけむつまごとか。
そのわくらばのてすさびに
すゞろにゑへるひとごゝろ
かすかにもれしともしびに
はなのすがたはてりしとか。
たをりははてじはなのえだ
なれしやどりのとりなかむ
おぼろのつきのうらみより
そのよくだちぬはるのあめ。
ことばむなしくねをたえて
いまはたしのぶかれひとり
あゝそのよはのうめがかを
あゝそのよはのつきかげを。

土井晩翠『天地有情』(明治32年4月7日発行)

一方、島崎藤村の『落梅集』は明治34年8月25日に春陽堂から発行された。藤村29歳のときの第4詩集である。藤村は明治31年に東京音楽学校選科に在籍し、西洋音楽に強い関心を抱いていたとされる。『落梅集』の《蟹の歌》のひとつ前に収められた《海辺の曲》はシューベルトの曲への作詞であり、五線譜も掲載したくらいである。藤村の歌で今も歌い継がれるのが《椰子の実》であるが、これも『落梅集』に収録されていて、昭和11年に作曲された。

蟹の歌
浪うち寄する磯際の
一つの穴に蟹二つ
鳥は鳥とし並び飛び
蟹は蟹とし棲めるかな
日毎の宿のいとなみは
乾く間もなき砂の上
潮引く毎に顕(あらは)れて
潮満つ毎に隠れけり
やがて天雲驚きて
落ちて風雨(あらし)となりぬれば
流るる砂と諸共に
二つの蟹の行衛(ゆくえ)知らずも

島崎藤村『落梅集』(明治34年8月25日発行)

《蟹の歌》は、4冊の詩集を合本して明治37年9月に発行された『藤村詩集』にも収められたから、清太郎が見たのは『藤村詩集』であったかもしれない。藤村はそのあと小説の執筆に転じ明治39年に『破戒』を書いた。清太郎はなぜ藤村の詩に曲を付けたのであろうか。清太郎が曲をつけた藤村の詩は《蟹の歌》1曲のみである。

それにしても、当時すでに名を成し40代となった晩翠や藤村と、22歳の清太郎は面識があったのだろうか。一学生にすぎない立場からすれば、それはやや考えにくい。作曲研究会の会員として、誰かの指導を受けながら作曲したとみるべきであろう。ただ著作物である詩に無断で曲をつけ雑誌に公表してしまうということは、現代であれば著作権の問題になる。当時厳格な考え方がなかったのかもしれない。

清太郎が生涯開いた音楽会の記録で、《春の夜》も《蟹の歌》も実際に演奏された形跡は今のところ見つかっていない。2曲とも習作にとどまるものとみてよかろう。

本居長世が楽譜集に採録

不思議なことに《春の夜》《蟹の歌》の2曲は16年後、唱歌ばかりを集めた楽譜集に収録される。昭和5年11月10日発行の本居長世編『世界音楽全集 第17巻 日本唱歌集』(春秋社版)である。本居は4か月かけてこの楽譜集を編集し、150曲を採録した。尋常小学唱歌や中学唱歌のほか、名前の記されている作曲者は本居本人を含め小松耕輔・山田耕作・藤井清水・弘田龍太郎・成田為三・草川信ら計25人になる。主だった作曲家はおおむね10曲ずつ入っている。

【本居長世編「日本唱歌集」の琴月作品】

《春の雪》……香坂澄子作詞
《花すみれ》……葉末露子作詞
《螢》……横尾眞琴作詞
《秋》……下田惟直作詞
《夏の色》……室崎のり子作詞
《蟹の歌》……島崎藤村作詞
《夏の曙》……吉丸一昌作詞
《夕の星》……土井晩翠作詞
《春の夜》……土井晩翠作詞
《春は來れり》……三角錫子作詞

唱歌と童謡 境界は朦朧

編集後記によると、主だった作曲家に対して、本居が曲の提出を求めたらしい。昭和5年の時点で、室崎清太郎は16年前を思い出したように《春の夜》《蟹の歌》などを提出したものとみられる。この編集後記には、童謡と唱歌をめぐって、作曲家としての本音が綴られているので一部を紹介しておこう。

編輯後記
本篇の編輯に取かかってから約四箇月、やっと茲に肩の重荷を下す事が出来てホッとした。事の當初此編輯について春秋社から交渉のあった時、私は其任でないと云って再三辞退したのであったが、結局規定の割振なればとの理由のもとに強ひて押つけられて仕舞ったのである。
扨愈々編輯に取かかって見ると實に想像以上困難に遭遇して實に弱らされて仕舞った。と云ふのも畢竟唱歌と云ふ字の解釋よりして樂曲の撰定上兎に角色々に思ひ惑ふ處があったからで、唱歌と云ふものが果して學校用歌曲のみを意味するものか將又今少し廣義に考へればかの童謡も亦兒童唱歌の一ならずして何ぞやと云ひたくなると同時に兒童唱歌も畢竟廣い意味の童謡に外ならない。此兩者は厳密に考察すればする程樂曲上其境界が朦朧となって來るのだ……假に前者が教育的に重きを置かれ後者が童心に即して趣味的に重きを置くと云ふ様な漠然とした区別はあるにしても……。
而して童謡集は曩に巳に配本せられて居る。茲に於て私は結局本集に於て所謂常識的に考へて唱歌らしきもの、即ち可成學校教材を目的にしたものにして又趣味にも豊なるものを採録する事に努めて見た。この意味に於て樂曲の提示を御依頼した代表的の作曲家の方々からは誠に優れた歌曲が續々集まって來た事を第一に喜んだのである。(以下略)

この編集後記が書かれたのは、昭和5年10月。大正10年ごろから5、6年間続いた童謡ブームが下火になってからである。本居に言わせると、作詞家たちが学校唱歌への批判として童謡を書いていたはずなのに、作曲家からみると実はその違いが朦朧として分からない、「教育的」「趣味的」という区別も漠然としているというのである。[4]本居長世といえば、東京音楽学校本科を主席で卒業し、山田耕作のライバルとなり、日本童謡の父とまで言われた人物である。その彼が唱歌童謡の違いは分からないと吐露したのを読むと、後世の研究者が唱歌童謡の違いをどれだけ学術的に論じてみても果たしてどんな意味があるのかと思ってしまう。

清太郎と本居の具体的な関係はよく分かっていない。大正2年当時、本居は東京音楽学校助教授であり、ピアノと和声論を教えていた。清太郎は回想記で本居を先輩と記してはいるが、作曲やピアノの手ほどきを受けたとは記していない。

なぜ「琴月」と号したのか

『音楽界』掲載10作品のうち注目されるのは、大正2年12月の《富士詣》で「琴月」の名が初めて記されていることである。このとき清太郎はまだ予科生である。その後「琴月」「清太郎」が併用され、大正時代末には「琴月」の表記が多くなる。作曲家のときは「琴月」、演奏家・経営者のときは「清太郎」と使い分けていたような節もあるが、もう一つ判然としない。

それにしても、音楽学校に入ったその年に名乗りはじめた「琴月」という号は大いなる謎である。洋楽のエリート養成機関でピアノを学んでいるはずの学生が、なぜ邦楽の楽器である「琴」の文字を号に使ったのだろうか。同世代に類例はない。清太郎は少し風変わりな学生だったのだろうか。

清太郎本人は後年「琴を楽しみ月を愛するのが私の生活です。これには何の理屈もいりません」と記したのみだ。命名のいきさつは明らかにしていない。しかし清太郎の音楽遍歴を丹念に追っていくと、「琴月」という号には、当時社会で流行していた和洋合奏への志向が反映していたとみられる。それは和洋折衷の音楽で、当時は和洋調和楽と呼ばれていた。

[1]WEBサイト〔蔵書目録〕によると、『作曲界』第1巻第1号(大正8年4月)に「作曲研究会の歴史」という記述がある。作曲研究会はさらに大正2年3月、第二の組を募集し、同月31日までに150人の入会者があったという。そして、大正2年12月に第一ノ組の、大正3年2月に第二の組の講義が終了したある。通信講義は1年間であったことになる。そして大正3年2月、継続事業として通俗音楽研究会を設立し、雑誌「通俗新楽譜」を発行して、受講者の作品を掲載したという。作曲研究会は発足時は音楽教育会内であったが、その後の組織改編で帝国楽事協会の一組織となった。会員の多くは全国に散らばる音楽教師たちだったと見られるが、詳細は分かっていない。

参考までに、『音楽界』に記載された作曲研究会会員とみられる名前を記しておく。田中オハリ子(福岡)、北村吾三郎(神戸)、大関壽恵吉(群馬)、古閑喜一、前田天籟、梅田正義(旅順)、田邊菊治(富山)、
徳地嘉市(宮崎)、三國榮作(函館)、武岩董、前田耕作、山本光三(大阪)、栗原信演(千葉)、菊池繁太郎(岩手)、華舟。作曲研究会については、今後の調査が期待される。

[2]作詞者のうち虹川、野田舟、せいざん、鈴木花子などについては正確な人定はできていない。虹川は『小天地』2巻2号(明治34年10月)に新詩2編を寄稿した西川虹川か、『青海波』(明治38年6月)にある「落葉を掃ふ歌」の作者、四川虹川か。明治33年-34年の『文庫』の寄稿者のなかにも虹川がいる。

[3]『日本現代詩辞典』などによると、葉末露子(はずえ・ろし)は本名山田肇。福島県盤城平生まれ。東京で長く小石川の植物園に勤めていたという。『文庫』 『少國民』などに抒情詩を発表した。紫山は、堀紫山( 1867-1940、本名成之)とみられる。『大阪朝日新聞』『読売新聞』の記者。

[4]編集後記の追記によると、10月18日に原稿を春秋社に渡したあと、春秋社編輯部で争議がおき、原稿の約半分が行方不明になる騒ぎがあった。一時発行が危ぶまれたが、3日間で原稿をそろえ、不完全ながら刊行したという。金田一春彦『十五夜お月さま 本居長世人と作品』(1983年)によると、『世界音楽全集 第17巻 日本唱歌集』の編集は失敗と見るべきで、その後の世界音楽全集で本居が担当した巻は出来がよくないという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?