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第2章第5節 音楽教育会と山本正夫


室崎琴月は、音楽人生の前半に謎の足跡を数多く残している。音楽教育会の入会は謎のひとつである。

明治45年5月、私立東京音楽院の生徒だった室崎清太郎(のちの琴月)は、音楽教育会という団体に入会した。

音楽教育会は、音楽教員が中心になって明治42年12月に設立された全国組織である。[1]田村虎蔵・山本正夫・松岡保・小松耕輔の4人が理事を務め、東京音楽院学監の天谷秀も深くかかわっていたとみられる。同45年1月の会員名簿では291人が確認できる。多くは音楽教員であり、師範学校の学生もいたが、清太郎のような私立学校の学生は少なかったものとみられる。

明治45年の音楽教育会本部役員(理事)

田村虎蔵 1873-1943 専修部明治28年卒 東京高等師範学校教授・東京音楽学校教授 言文一致唱歌を提唱。『幼年唱歌』明治33-35年、『少年唱歌』明治37-38年山本正夫 1880-1943 本科器楽部明治36年卒 豊島師範学校教諭 元女子音楽園園長 『唱歌教授法通論』明治43年7月松岡 保 甲種師範科明治39年卒 青山師範学校教諭 『国定読本唱歌の研究』明治43年9月小松耕輔 1884-1966 本科器楽部明治39年卒 学習院助教授 『現代仏蘭西音楽』『大正幼年唱歌』

機関誌である月刊誌『音楽界』には、会告のページに新入会員が掲載されている。5巻7号(明治45年7月)には13人が記され、「東京音楽院生徒 室崎清太郎君 特志申込」とある。13人のうち、9人が訓導、1人が教諭、校長が1人、学校としての登録が1件である。

音楽教育会の会則第2條では「本会は音楽教育に関する諸般を研究調査し音楽の普及発達に資するを以て目的とす」とあり、第4条では「本会は音楽教育に従事する者を以て会員とす 但本会の目的に賛成して会員たらんと欲するものはこれを許可することあるべし」とある。つまり教員でなくても入会はできた。年会費が1円、雑誌が1冊15銭であることを考えると、収入のない学生の身では入会は難しいはずだが、清太郎は商家の出身で金銭的に困っていないからこそ入会できたのであろう。

紹介者の欄に「特志申込」とあるのはどういう意味なのか。ふつうは上司などが紹介しているようだから、東京音楽院の生徒である清太郎が入会するなら、紹介者として天谷あたりの名があってもおかしくない。清太郎は、自分の意思でこの会に入ったのであろうか。ちなみに、清太郎と東京音楽学校で同期生となる成田為三は明治45年、秋田県師範学校生徒として入会し、紹介者は音楽社長となっている。

そもそも何のために清太郎は音楽教育会に入会したのか。琴月が書き残した回想記の中には、教員を目指した時期があったことをうかがわせる記述は見当たらない。「元来、私は若い時分から曲を作るのが好きでして、今の言葉で申しますハイティーンの頃によく音楽雑誌に投稿し、その曲が誌上に載る時の嬉しさに酔ったものであります」とあるように、目標はずっと作曲家であったように読み取れる。とすれば、清太郎はやはり『音楽界』という専門雑誌を読むために入会したのであろうか。

清太郎の入会記録がある『音楽界』の明治45年7月号に、もう一つ注目すべき記事が出ている。高岡高等女学校学芸会の内容を知らせる記事で、文中に「会員室崎君特報」と添え書きがある。

高岡高等女学校は明治40年4月30日、富山県内では富山高等女学校に次いで2番目に創立された県立女学校である。学芸会は明治45年5月28日に地久節(皇后誕生日)の祝賀を兼ねて開かれた。さまざまな演目のうち、唱歌が8曲あり、合唱や輪唱が行われた。女学校の唱歌教育の模範的な取り組みとして報じる意義があったということであろうか。同校の音楽教員は明治41年に東京音楽学校甲種師範科を卒業した吉田なお(石川県出身、明治38年入学)で、赴任5年目だった。

高岡高等女学校学芸会(明治45年5月28日)
1 開会の辞 掛飛会長
2 君が代 会員
3 談話、年の関 3年生
4 二部合唱《春》 3年生全体
5 英詩朗読「The vilage Blacksmith」 4年生
6 対話「雀の学問」 1年生6名
7 唱歌《夏の小川》《野辺の蝶》 2年生
8 英詩暗誦「One Thing at a Time」 2年生
9 唱歌 三部合唱《大塔の宮》二部合唱《雲雀》 4年生
10 揮毫、書簡 4年生2名3年生2名
11 唱歌 三部輪唱《漁村の夕》単音(舞踏) 3年生
12 談話(幸田延子女史) 2年生
13 化学実験 4年生4名
14 対話「花の不思議」 2年生6名
15 唱歌《故郷の廃家》 4年生2名
16 英語対話「The Five Senses」 3年生3名
17 二部合唱《花》 4年生
18 余興「めぐり合ひ」 3年生7名
19 閉会の辞 会長

『音楽界』地方楽況欄には、全国各地の演奏会が記録されているが、おそらくは音楽教育会の会員たちが情報を寄せたものであろう。大正2年1月の音楽教育会の名簿によると、富山県内には高塚鏗爾・古瀬紋吉・守田彦三・尾崎修・田邊菊治の計5人の会員がいた。このうち高塚は、東京出身で東京音楽学校専修部を明治30年に卒業、天谷秀と同期生であり、明治41年に富山県師範学校に赴任して、音楽教育会の富山支部長を務めていた。[2]

しかし、高岡高等女学校の学芸会は、新入会員で21歳の清太郎が特報として伝えたのである。清太郎がなぜ郷里の女学校の学芸会を報じたのか。母校の県立高岡中学校なら説明はつくが、なぜ女学校なのかである。また、清太郎自身が実際に帰省して女学校に出向いたのかどうか。それとも学芸会が行われたという郷里からの便りを受け、それを『音楽界』編集局に伝えただけなのか。そもそも誰かの指示を受けて、調べて記事を作ったのでないか。同校の音楽教員である吉田なおとはどういう関係にあるのか。

興味深いのは、プログラムの12番目にある「談話(幸田延子女史)二年生」の記述である。清太郎が学芸会を報じた理由はここにあるのではなかろうか。

幸田延(こうだ・のぶ 1870-1946)は、幸田露伴の妹で明治・大正時代を代表する音楽家である。ピアニストでヴァイオリニスト、そして作曲家。音楽取調掛の第1回卒業生で、明治28年に東京音楽学校の教授となり、以来10年余り、東京音楽学校の女性教師陣の中心的な立場にあった。明治41年9月、ある新聞が音楽学校の女性教師らへの批判記事を掲載したのを機に誹謗中傷が繰り返され、明治42年9月、幸田は東京音楽学校教授の依願休職を余儀なくされた。休職直後は独ベルリンで過ごしたが、明治43年8月に帰国すると在野の音楽家として活動を始め、明治44年からは紀尾井町3番地の自宅で個人教授所を開いて「審声会」という会を運営していた。明治45年5月時点で、幸田は42歳である。[3]

清太郎が幸田延とかかわりをもっていたという証拠はどこにもない。ただ後年、室崎琴月は東京音楽学校時代の恩師の一人として、幸田延の妹で東京音楽学校教授だった安藤幸(ヴァイオリン)の名を記している。

「談話(幸田延子女史)二年生」という記述は、幸田が高岡高等女学校で講演したのではなく、幸田の何らかの談話を高岡高等女学校の2年生が朗読したか発表したのではないかとみられる。談話はどのような内容であったのだろうか。

家庭音楽に関心か

幸田は音楽学校を辞してから、家庭での音楽に関心を向けていたようである。談話の形で「家庭と音楽」(時事新報)、「音楽と家庭」(大阪毎日)という2つの寄稿が新聞に掲載された。[4]家庭にどうすれば音楽が広まるのか、家庭にどのような音楽が適しているのかという問題は、音楽関係者の間で明治41年ごろから次第に関心が持たれるようになり、明治43年には大きく盛り上がりをみせていた。幸田の談話もこの「家庭と音楽」というテーマであったのかもしれない。

清太郎が東京音楽学校予科に入学し4年間学んで大正6年に卒業した直後に設立したのは「東京家庭音楽会」という組織である。「家庭音楽」については後に詳述するが、この「家庭音楽」こそ清太郎が音楽の世界に深く入り込む入口となったことは間違いない。それにしても、女学校学芸会の特報を伝えた清太郎から想像されるのは、知らないがゆえに何事にも積極的で前向きな学生の姿である。清太郎は幼くして片足が不自由となり性格が内向的になったのでないかと見られているが、それは少し違うように思える。

[1]音楽教育会については、先行研究として坂本麻実子「明治の音楽教育者団体「音楽教育会」の一考察」(『桐朋学園大学研究紀要 』33,2007年)がある。

[2]『音楽界』が大正2年に連載した「帝国音楽家名鑑」によると、古瀬紋吉は富山高等女学校教諭、尾崎修は東水橋高等小学校教諭。また高岡高等女学校には(教)吉田なおがいた。また室崎清太郎の地元高岡市には、山本ウメ(教)高岡市宮脇町、山本ふみ(教)高岡市立実科高等女学校の2人が確認できる。

[3]幸田と安藤については、萩谷由喜子『幸田姉妹 洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸』2003年。瀧井敬子・平高典子『幸田延の『滞欧日記』2012年。

[4]『音楽界』明治43年10月号、明治45年2月号の楽潮欄所収。(2012/09/09 18:57)

『音楽界』を編集した山本正夫
右は『樂の音を導いて 山本正夫作曲による学校校歌』(2014年6月) から転載

受験生ながら作曲研究会に入会

室崎清太郎(のちの琴月)は大正元年12月、音楽教育会の「作曲研究会」に入会した。東京音楽学校をめざす受験生である一方で、明確に作曲家を志していた清太郎の姿が浮かび上がる。

作曲研究会は大正元年12月に設立され、会員が募集された。作曲家志望の清太郎にとって、音楽教育会に入会して半年、願ってもない機会であった。音楽教育会では明治43年7月に薄田泣菫《海女》を課題にして作曲懸賞募集を行っていた。作曲を学びたいという音楽教員のニーズに対応して、作曲研究会が設立されたのであろう。

『音楽界』では、会員募集広告が第2回(大正2年4月)と第3回(大正7年11月)が確認されている。音楽教員の全国組織である音楽教育会は大正元年末に経理面で行き詰まったことから、機関誌『音楽界』の発行を会の運営から切り離した。大正2年2月号からは新たにつくられた帝国楽事協会が編集を行うことになり、作曲研究会も帝国楽事協会付属の組織となった。[1]

作曲研究会は、作曲を奨励して楽曲観賞力を養成することを目的にし、講義録の発行や、課題曲を募集し批評や訂正を行うなどの活動を行った。

作曲研究会略則
一、本会は「作曲研究会」と称し音楽創作の術を普及し作曲の奨励作曲の上達を図る
一、本会は毎月一回議事録を発刊す
一、毎月一回課題によりて会員の作曲を募集し添削批評の上作者に返付すべく、其の秀逸なるものは帝国楽事協会編纂本社発行の雑誌「音楽界」に掲載することあるべし
一、講義録を分ちて第一期は作曲法を最も平易に講述したものなれば少しも音楽の素養なき初学者と雖も入会することを得べし第二期は作曲学を講述す
一、会費は第一期分金二円とす。但し帝国楽事協会会友音楽教育会員は半額とす

(『音楽界』大正2年4月号)

第1回の募集がたちまち満員になり、なお申し込みが多数あったため第2回を募集したという。申し込み先は神田区三崎町3丁目の音楽社となっている。[2]ただ会員の数は不明で、『音楽界』に掲載された課題作品から10数人の名前が分かるのみである。

会員の課題作品は『音楽界』大正2年3月号から掲載されている。室崎清太郎の名は、大正2年4月号の《歌の徳》と12月号の《富士詣》で確認できる。《富士詣》では、「室崎琴月」とはじめて琴月の名がある。《歌の徳》は大正2年3月号に2作品、4月に4作品が数字譜で出ている。[3]

注目されるのは作曲研究会で誰が指導にあたったのかである。これまでの調査で指導者の名前は分かっていないが、推測されるのは音楽教育会の本部役員である田村虎蔵・山本正夫・松岡保・小松耕輔あたりである。大正元年末に音楽教育会の経営が行き詰まり、『音楽界』の編集や講習会事業などを引き継いだのは山本であることからすると、山本が中心になって作曲研究会が運営されていた可能性は高い。

《歌の徳》は、山本正夫が昭和5年に著した『音楽の学習』に楽譜付きで教材として出ている。歌詞は課題作品と酷似している。

《歌の徳》
一、不思議なれや歌の徳
  潜める龍も爲に舞ひ
    鬼神も爲に泣く
  歌こそは不思議なれ。
二、歌こそはくすしけれ
  空行く雲も停まりつ
    梁の塵も舞ふ
  歌こそはくすしけれ。
作曲、シュポア(ドイツ)

音楽教員兼雑誌編集者・山本正夫

これまでに何度か山本正夫という名を記した。大井冷光が企画した『少女』音楽大会で第2部の人選を段取りしたことなど、室崎清太郎とのかかわりをうかがわせる状況証拠が数多くある。しかし、なぜか琴月は山本について全く書き残していない。

山本正夫は、明治大正の音楽教育史を語る上で忘れてはならない人物である。教員向けの教授法などの著作がある理論家であり、一方で雑誌編集と各種音楽団体を運営した実践家でもあった。[4] 音楽史のなかでこの人の名前はなかなか語られることがないが、残念至極というべきであろう。

明治13年生まれで、兵庫県出石郡出石町(現在の豊岡市)の出身。旧姓は堤である。明治29年に上京し、明治32年に東京音楽学校予科に仮入学した。明治36年7月に本科器楽部を卒業すると、島根県師範学校の教諭となった。明治38年には東京に戻り、同年10月に私立女子音楽園の園長となる一方、音楽社の社長となり『音楽之友』を改題した雑誌『音楽』の主筆として編集に力を注いだ。山本はその後、音楽教育と音楽関連事業の2つの仕事にたずさわっていく。明治39年4月に母方の実家である山本の姓を名乗るようになり、同年8月に5歳下の川西孝子と入籍した。女子音楽園の園長は2年間である。

明治40年3月、有志40余名が集まり全国に散らばる音楽教員のネットワークづくりが企画された。その組織は明治41年1月、楽界社(本郷区湯島4丁目20番地)となり、『音楽』と『音楽新報』の2つの雑誌が合流して『音楽界』が創刊された。『音楽新報』の小松耕輔が主筆、『音楽』の山本が主幹に就いた。この楽界社はさらに発展して2年後の明治42年12月、音楽教育会創立へとつながっていく。教員としての山本は、明治41年に千葉県師範学校に勤務したあと、明治42年、新設されたばかりの豊島師範学校の教諭となって、昭和8年まで教育現場に立ち続けた。昭和11年に帝都学園高等女学校を設立し、昭和18年62歳(享年64)で亡くなっている。

山本が残した足跡を見渡すと、音楽教員を続けながら、雑誌編集や関連団体の運営を長年にわたって続けており、その精力的な仕事ぶりには圧倒される。雑誌では、『音楽界』を16年間、『月刊楽譜』を30年近く、『音楽新楽譜』なども長く編集している。一方、組織した団体をみると、大正2年時点で音楽教育会・帝国楽事協会・楽譜借覧会・作曲研究会がすでにあったが、大正7年時点では帝国楽事協会など10団体に発展させている。もちろん、これを支える音楽社という組織があり、『音楽界』主幹となった平戸大(松山大)など有能な実務者がいたから成し得たことだろうが、全体を統括した山本の尽力は並大抵ではない。

明治から大正にかけての音楽雑誌と言えば、東京音楽学校学友会による『音楽』が明治43年に創刊される。その編集主幹は事実上の吉丸一昌教授(国文学・兼生徒監兼務)であった。山本の『音楽界』は、その質と量で『音楽』と競い合うことになる。あの田村虎蔵と福井直秋の論争が大正4年に両雑誌を舞台に繰り広げられたために、『音楽』対『音楽界』を官民対決と位置付けたくもなるであろうが、それは一面的な見方である。むしろ、両雑誌は競い合って近代日本音楽史を記録した重要資料であり、特に編集を指揮しながらいまだ光の当たらない吉丸と山本は、より詳細な調査研究を行って、顕彰されるべき人物であろう。

吉丸は、清太郎の作曲を褒め、清太郎の背中を押した人物だ。吉丸と山本という2人の人物に囲まれるようにして、清太郎は人生を切り開いていくのである。

山本が『音楽界』に毎号のように綴った数多くの論説は、当時の音楽をめぐる情勢を知る上で貴重なものばかりである。一つだけ興味深いものを紹介しておこう。明治44年10月に10年間を回顧した文章の後に書かれた「芸術と犠牲」という一文である。

西楽の機運なほ創早に属し、楽界に犠牲を要するや甚だ多し。犠牲の第一は私立音楽学校なり。音楽は個人教授によらざるべからず。即ち、或る一定の時間内は、一人の生徒を教授するに、一個の楽器と一個の教室とを占領し、且つ一人の教師一人の生徒を担任せざるべからず。而して一人の教師が一日に教授し得べき生徒数は僅に十二三人を以って極限とす。他の中学校、高等女学校等に比し、生徒収容数の甚だ寡少にして、設備費の過大なること思半に過ぎん。されば私立音楽学校の経営者が、収入を他に求めて之に投じ、或は私財を抛って尚且つ足らざらんとする、固より其の所なり。而も社会は彼等に好意を表する者にあらず。当局また、之を保護するといはんより、稍もすれば苛察に失せんとす。且つ一部の操觚者(引用者注・文筆に従事する人)の間には、無根の事実を捏造し、針小棒大の記事を掲げて、殆んど音楽を呪咀するが如き悪戯を弄するものあり。為に其の存立を危うくせし私立学校も少なからざりしといふ。

山本正夫「芸術と犠牲」『音楽界』明治44年10月号

山本は、3つの犠牲として、私立音楽学校・音楽出版業者・楽器商及び製造業者を掲げている。山本自身が女子音楽園の園主をつとめ『音楽界』を編集していた経験から、自らの苦労を吐露するような内容になっている。もう一つ、音楽出版業者の犠牲も引用しておこう。

第二の犠牲は音楽出版業者なり。需要少うして投資巨大なること実に出版界異例中の異例なり或る書肆の如きは、或る音楽書を出版し、相当の費用と広告費を投ぜり、而して書籍の売行はただ数冊に止まり、金利にも当らざりしといふ。一以て他を知るべし。音楽雑誌の如きまた大なる犠牲の一なり。従来幾多の雑誌が、忽ち興り、忽ち亡び、朝菌の夕を待たず消え去りしを以て証すべからずや。(中略)苦は楽の種といふことあれども、音楽雑誌に至りては苦は苦の種にして、永久の苦とならんとす。吾人はこの苦き盃を嘗むること茲に十年、この間に處し、ただ一の慰藉は、われは音楽のために高価なる犠牲を払いたりとの一念あるのみ。(中略)要するに我国の音楽は、未だ創設時代なり、出資時代なり、犠牲時代なり、学校、出版、楽器然り。其他の音楽に関係せる、何物と雖も蓋し又此範囲に洩れざるべし、依て以て名を得、利を獲するは、蓋し尚ほ是れ五十年百年の後ならむか。(以下略)

山本正夫「芸術と犠牲」『音楽界』明治44年10月号

この文章を記した1年後の大正元年末、音楽教育会は設立5年で機関誌『音楽界』の発行が重荷となり多額の負債をかかえた。会の運営への影響を回避するため、『音楽界』を音楽教育会と切り離し、なぜか山本がその経営と負債のすべてを引き受けることになる。その理由はさらに調査が必要であるが、会告では「長年雑誌編集に経験を有せる山本正夫氏の義勇に信頼して」と記されている。

私立音楽学校の経営の難しさは、数年後それに乗り出すことになる清太郎には、まだ分からなかったに違いない。一方、大正元年といえば、大井冷光が自ら編集する児童雑誌『お伽倶楽部』が売れ行き不振で休刊を余儀なくされたときであった。大正6年8月の『音楽界』には、冷光の談話「子供の歌」が掲載されている。このあたりから冷光と山本の接点がいくつも生まれているが、雑誌編集者である2人の間で、音楽ばかりでなく雑誌編集の難しさを語り合う場面もあったではないだろうか。大正元年末の時点で、山本正夫33歳、室崎清太郎21歳。大井冷光27歳である。

雑誌『音楽界』を中心とする諸団体(大正7年1月)

音楽社の出版雑誌(大正8年4月)

[1]音楽教育会は純粋な研究団体となり、利益や損失が伴う事業は帝国楽事協会へと移されて、実際の事業主体は会社組織である音楽社となったようである。このあたりの組織変更は複雑で、さらに調査が必要である。

[2]『音楽界』が大正2年に連載した「帝国音楽家名鑑」によると、音楽社社長は山本正夫でなく堤壽夫になっている。この年山本正夫は体調を入院を余儀なくされた。堤壽夫は、山本正夫の5歳上の実兄であり、のちに日本製鋼・神戸製鋼で重役となる機械設計技術者だった。壽夫は英国・フランス・ドイツに5年間留学し、正夫に洋楽情報を送ったらしい。このあたりの事情は、菊池紀美子・菊池亮子『樂の音を導いて 山本正夫作曲による学校校歌』(2014年)による。

[3]作曲研究会で学ぶ清太郎が『音楽界』に残した楽譜は、大正2年4月号の《歌の徳》が最初で、《夕栄》《富士詣》《月下の鴨》《小女の里》《春の道》《歌の徳》《小花園》《花すみれ》《少女の凉み》の10曲が確認されている。詳細は、東京音楽学校予科入学後の項で改めて記す。

[4]山本正夫については以下の先行研究や著作がある。
菊池紀美子・菊池亮子『樂の音を導いて 山本正夫作曲による学校校歌』(2014年6月) 東京藝術大学附属図書館蔵。
豊島音楽会『音楽文化の曙 山本正夫先生を偲ぶ』(1978年6月)。33回忌記念誌。
坂本麻実子「近藤朔風とその訳詞曲再考」『富山大学教育学部紀要』50号(1997)、p11-22。
三村真弓「山本正夫の音楽教育観の変遷」17―31広島大学『音楽教育学研究紀要』12号 (2000年)。
(2012/09/16 22:02)(2023/10/14修正追記)

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