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第5章第1節 雲上の夏山臨時支局を企画


明治42年夏、富山日報記者の大井冷光は北アルプスの立山室堂(標高2450m)に駐在し、1か月以上にわたって記事を送り続けた。駐在期間は33日間で、移動日前後3日を含めて36日間。記事掲載は7月24日付から9月16日付まで、7月25日付を除く計54日間である。一連の記事をまとめて「天界通信」と呼ぶことにする。

大井冷光の天界通信(明治42年、富山日報)

上記の表題以外に「奉幣使の土産談」「立山山頂大演説会」「立山山頂大
演説会(続)」などの別稿も室堂で記された記事であり天界通信に含まれる。

この仕事は現代の新聞社が行っている夏山臨時支局に相当する。北アルプスの山岳観光地がエリアにある地方紙では夏の恒例企画だ。[1]にぎわいをみせる夏山に記者が駐在して雄大な自然とそこに展開する人間模様を連日伝える。その趣旨は明治時代も現代もあまり変わらない。しかし、冷光のように36日間一日の休みもなく一人で書き続けるケースは、現代では法的にありえないであろうし、そこまで志願する熱血記者もいないかもしれない。

冷光の仕事は取材して記事を送るだけでなかった。富山日報が設けた夏山臨時支局は「立山接待所」という。文字通り、登山者を接待する場所で、記念はがきや薬品を配ったり、福引で景品を渡したり、さらには蓄音機で音楽を提供したり、つまり記者だけでなく営業部員のような仕事も一人で行ったのである。

「天界通信」についてはいくらか先行研究がある。単行本として復刻もされている。[2]ただ、「天界通信」が山岳取材記録としてどれほど意義があるのか、後世の評価は定まっているとはいえない。北アルプス初の夏山臨時支局として近代新聞史に記録されるべき偉業なのか、それとも近代登山史のなかでたまたま書き忘れられた一行なのか。明治時代の山岳取材史を研究した事例は残念ながらいま知るところにない。

記者駐在は富士山に次ぐ快挙

立山接待所の設置について富山日報が社告を初めて掲載したのは、明治42年6月13日のことだった。3面に「今年の夏季」と題したもので、▽立山に接待所を設置▽社員を駐在させ天界の消息を通信▽東岩瀬に特設海水浴場を設置、の3点が簡単に告知されている。その意図は、同じ日の2面に主筆の匹田鋭吉が記している。今でいう社説である。

『富山日報』明治42年6月13日3面

論壇
野外趣味の鼓吹 山と海との両面に読者諸君を誘い出さんとする我社の計画
我社は、昨年の夏は浦塩旅行隊を組織して、金角湾頭の夕涼みと洒落たが、今年は団体旅行は陳腐だ、我社は読者諸君の愛顧に酬ゆるがためには、断へず紙面の改良にも注意し、又写真版附録などを奮発して居るとは言ふものゝ、夏は又夏向きの涼しさうな趣向を凝らして諸君を満足せしめねばならぬ、何か好い趣向をと考へた末、漸く思い附いたのは、本日予告した立山ゝ巓の接待所設置と、記者を駐在せしめて日々山巓より通信せしむる事と、東岩瀬の海水浴場設置である。(中略)

『富山日報』明治42年6月13日2面

匹田は前年「擬国会」「ウラジオ旅行隊」という新奇な企画を相次いで事業展開し、周囲を驚かせた。「立山接待所」はそれに続く大型企画という位置づけであった。

匹田の論壇は長くなるので要約するが、その論旨は▽富山県人は比較的厚着で快活でない▽炬燵襟巻廃止論を掲げたこともある▽今年も野外趣味を呼びかけ、山と海との両方面に読者諸君を誘い出そうと計画を立てた―というものである。のちに室堂に登ってからの演説会で匹田は、登山は「体力の鍛錬と精神の修養」が目的だと明快に論じるのだが、この時点では野外趣味の勧めというややあいまいに終始している。ここから先が重要なので引用する。

標高九千九百尺の山頂に接待所を設けて登山者を歓迎するの挙は、蓋し富山日報が嚆矢であろうと思ひます、かくの如き高山の絶頂に社員を駐在せしめて、千変万化極まり無き天界の自然と人事を日々下界に通信するといふ事は、先年大坂毎日新聞社が富士山頂に社員を駐在せしめたる以来初めての壮挙であると思ひます

『富山日報』明治42年

匹田によれば、立山の記者駐在が実現すれば富士山の記者駐在に次ぐ快挙だというのである。ウラジオ旅行隊のときもそうだったが、匹田は全国の新聞業界の動きを意識していた。大阪毎日新聞が東京の毎日電報社と共同で「富士山上通信」という夏山臨時支局のような3週間の企画を立てたのは2年前、明治40年の夏だった。[3]富士山ではその年の7月、電話が5合目まで開通し、郵便局も8合目にできるなど通信事情がよくなり、翌明治41年にはついに頂上郵便局が開設された。

富山県内での山岳取材は、おそらく富士山ほど早くないが、江戸時代から富士山と並んで立山登拝が盛んだったことから、早くから行われていたものとみられる。明治36年7月には、李家隆介知事が奉幣使として立山の山開きに参加するため立山登山を行い、そこに富山日報・北陸政論・高岡新報の3紙の記者が同行取材した。明治40年7月には、高岡新報社が60数人の立山探検隊を派遣し、井上江花と大井冷光が取材している。

富山日報がいま取り組もうとしているのは、記者の高所常駐とそこからの記事送稿である。富士山と違って、まだ電話も電信もない、郵便局もない。[4]極端に悪い通信事情を考えれば、それまでの山岳取材とは次元の違う挑戦なのである。

探検でなくレジャー登山を提案

明治時代の終わりごろといえば、いわゆる近代登山が高まりをみせた時期であった。信仰としての登山でなく趣味やスポーツとしての登山が社会に認知されはじめたのである。明治38年10月に山岳会(明治42年6月に日本山岳会に改称)が設立され、日本アルプスを舞台にさまざまな探検登山が行われた。明治41年から大正2年にかけては一段と目覚しくなり、探検登山は黄金時代を迎えた。特に明治42年は、民間人の剱岳初登頂をはじめ数々の記録的登山が行われ、黄金時代のピークとも言われる年となった。

富山県内でも明治40年から明治42年にかけて登山への関心がにわか高まっていた。新聞紙面で追うと、その先駆けは明治40年の高岡新報社立山探検隊であるが、残念ながら原紙が確認されていない。『富山日報』も明治40年、魚津中学校教師の吉沢庄作による寄稿「高山旅行」を掲載している。

明治時代の富山県内における主な山岳関係記事

富山県内における同時期の山岳関係記事としては、新聞以外に『富山県私立教育会雑誌』に第10号(明治37年9月11日)第11号(明治37年12月27日)に長谷川泰治「登立山日誌」、第30号(明治42年6月)第35号(明治43年11月)に城川範之「薬師岳登山記」がある。長谷川は富山県師範学校、城川は中新川郡五百石尋常小学校訓導。城川については湯口康雄『黒部奥山史談』(1992年)。また、吉沢と知り合いであったとみられる東京の教師で博物学の寺崎留吉の「越中立山」『少年世界』8巻13号(明治35年10月)もかなり詳細な紀行文である。

社告「破天荒なる我社の計画」
『富山日報』明治42年6月16日3面


『富山日報』主筆の匹田は、読売新聞政治部記者出身で、時代の流れに敏感だった。論壇「野外趣味の鼓吹」を読むかぎり、匹田が考えたのは探検登山でなくレジャー登山の勧めである。夏山臨時支局「立山接待所」という企画は、まさに大衆登山を先導する事業であった。その企画には大井冷光が深くかかわっていたものと推測される。冷光はちょうど1年前に『立山案内』を上梓し、富山日報紙面に「六根清浄(立山登山の栞)」を連載していた。「立山接待所」という大型企画は、蓄えた知識の上に計画が練られたにちがいない。

立山接待所の社告はその後も紙面に掲載される。そして6月16日、より具体的な事業計画が告知された。

▼破天荒なる我社の計画
▲標高九千九百尺の立山々巓に富山日報社接待所を設けて登山者を歓迎す
▲山巓には社員大井冷光を駐在せしめ天界の消息を日々本社に通信せしむ
▲八月上旬匹田本社主筆等登山して室堂に公開演説会を開き大気焔を吐く
▲八月中碌翁神水富雄三画伯登山し山巓に立山実景画会を催し健筆を揮ふ
▲接待所には蓄音機の備あり名人の音曲美人の矯音登山者の労を忘れしむ
▲我社は紀念の為立山の絵葉書に紀念スタンプを押したるを登山者に呈す
▲右の外相撲の催もあり其他奇抜なる種々の催ありて山霊を驚かさんとす
▲我社は又東岩瀬の海濱松青く砂白き処に富山日報社特設海水浴場を設く
▲特設海水浴場には休憩所ニケ所脱衣所一ケ所を設け我読者諸君を歓迎す
富山日報社

公開演説会に実景画會、蓄音機に記念絵葉書。立山登拝の宗教的基地であった室堂という場所で、それまで考えられないような華々しい催しが企画されたのである。注目されるのは「山霊を驚かさんとす」というフレーズだ。いかにもお伽文学的な表現である。政治記者出身の匹田が書いた文章にこうした遊びはほとんどみられない。あのウラジオ旅行隊という企画にも絵画や音楽を愉しむという文化的な発想はなかった。そうした点を重く見れば、立山接待所は実のところ冷光が提案し、匹田がそれに乗ったのではないかと考えてもおかしくはない。さらに、「破天荒」という表現が、前述したように冷光の『越中お伽噺』を評して贈られた賛辞であるとみれば、なおさら冷光の発案であるよう思われる。

反響が大きすぎ日程秘密に

「破天荒なる我社の計画」という社告は6月16日以降も繰り返し掲載された。そして、登山客への贈呈品の寄付を募り、寄付を申し出た店がやはり広告の形で掲載されている。

たとえば、清明堂は絵葉書1000枚、魚津町の藤本旅館は鯛の刺し身200人前、高岡市の魚仕出商吉倉清太郎は鮮魚刺し身100人前。このほか薬や菓子、缶詰など。7月15日までに15の店を数えた。こうした他の事業者を巻き込んで展開する術は、匹田がウラジオ旅行隊ですで見せていたものである。

冷光とって心配の種は通信だった。立山で書いた記事をどのように送稿するのか。郵便局にかけあった記録が15日の記事に出ている。

●立山の通信機関
山田当郵便局長を訪ふて室堂に郵便函設置の要望を陳べると『そのお話は私も年来の宿望で、今年は御社の計画もあり労々登山して実測の上之れが設置に尽して見やうと思って居ます、何分金沢局の方の仕事ですから、私は個人として働くまでの事です、而し室堂の郵便集配に就いては第一登山者の色別を調査の必要がありますから貴君は是非御駐在中此点の御調査をも願ひたいものです、それで同所から富山迄一日間で通信の出来ない様では毫もポストの設置が必要ないやうなものですが、その辺はどういふものでせうか、せめて上瀧富山間に馬車でも開通されるやうになりたいものですな』云々因に多枝原温泉には小見村郵便局所轄の郵便函がある(冷)

後述するが、結局、記事はおおよそ3日後の朝刊紙面に掲載されているから、この時間差はどうすることもできなかったようである。

7月17日、富山日報は1週間前になってさらに詳しい日程と内容を紙面で発表した。室堂での演説会は8月5日午後6時からで匹田と亀田弁護士会長ら数人の弁士が演説する。揮毫会は10日に開く。冷光の出発日は7月23日、匹田の出発は8月3日の予定となっている。また関連の動きとして、岩峅寺と芦峅寺の神官60余名が集会を開き、室堂の前に炊事場を新設すること、炊事場付近に酒保を設けること、室堂内の燃料として薪でなく木炭を用意することなどを決めたことも紹介した。富山日報が山岳関係者を動かしつつあった。この記事の最後は「天上の別世界に無上の快楽享受するを得べし」と煽るように結んでいる。

この記事に対しては、予想以上の反響があった。匹田主筆と団体登山する企画と勘違いした問い合わせも少なくなかったらしい。富山日報は勘違いを正すため、7月19日の紙面に「登山希望者に告ぐ 誤解する勿れ、我社の計画を団体旅行なりと」と注意喚起の記事を掲載した。それでも読者の過熱ムードが収まらない。7月25日の紙面では、ついに演説会も揮毫會も日程を変更して秘密にするという記事を掲載し、苦渋の選択を余儀なくされている。

●大秘密=大秘密 演説会の日も揮毫會の日も総て変更して秘密々々
(中略)その人気は実に非常なるものにて、当日登山せんとするもの、我社が直接に予知し得るもののみにても尚数百名あり、全国一般の登山者を合すれば幾千人に達するやも知る可からざるの勢ひなれり、然るに、室堂にては三四百人以上を宿泊せしむるの余地無く、さりとて日帰へりに下山せしむる事は勿論不可能なるが故に、止む無くんば、山上の露宿か、然らずんば警察官の力を借りて登山口に登山者を制限するの外無きも、露宿は一部少壮者の外困難とする処なるべく、又、登山口に於ける制限は、之を行ひ得るとするも、尚制限されたるものをして山下に予算外の宿泊料を消費せしむるを免れずさりとて、自然の成行に放任し置かんには、数千の登山者は、標高九千九百尺の山上にて喧騒して、或は悲惨なる状況に陥ゐる如き事無しといふ可らず故に我社は、景気の余り盛んなるが為に苦心する処あり、結局左の通り決定して、之を読者諸君に急報するの止を得ざるに至れり(以下略)

さらに、この記事だけでは不十分だったのか、翌26日には「緊急社告」と見出しを打って3面トップ記事として同じ内容を告知している。自ら盛り上げておきながら、今度は逆に抑える側に回る羽目に陥るとは……。苦笑する匹田の姿が思い浮かぶような、笑うに笑えない記事である。裏を返せば、それだけ世間の目が立山に向いたということでもある。

匹田は富士山を強く意識していた。

我富山日報社が、率先して、標高九千九百尺の立山々頂に接待所を設け、諸般の準備を為して登山者を奨励するのみならず、山頂に演説会、音楽会、揮毫会、及びお伽噺講演会等を催すことを発表したるに対して、富士山の方にも、之に倣ふて演説会、音楽会等の催有之、且盲人、力士等の登山も有之候趣、面白い競争に御座候、富士山と立山、一は天下の横綱、一は当今日の出の大関、此両者の対抗が、世間の惰気を一掃する事を得ば、誠に吾人の本懐に御座候[5]

記者の駐在では富士山に遅れをとったが、演説会や音楽会は立山の方が早かったということだろうか。立山接待所は、読売新聞が6月28日の3面で「立山々頂空前の計画」と報じ、東京でも既に知られていたとみられる。

高岡新報の井上江花が黒部探検

富山日報が「立山接待所」を喧伝しているさなか、競合紙の高岡新報がひと足早く途轍もない企画を実行に移していた。主筆井上江花による黒部峡谷への探検である。同じ大自然であっても、立山室堂は年間3000人が訪れる場所だったのに対して、黒部峡谷はまだ秘境そのものだった。ごく一部の山人を除いて一般人がまったく立ち入ることができない厳しい自然があった。江花はこの年の4月、営林小区署の署長と知り合いになったのをきっかけに、黒部峡谷探検を思い立った。7月8日に富山を発ち、佐々木助七・仁次郎兄弟を案内役に、営林小区署の職員ら一行10数人で黒部峡谷に入った。黒薙川を遡行して突坂山(とさかやま、1504m)に登り、猿飛、祖母谷(ばばだに)を進んで県境の大黒岳(だいこくだけ 標高2,393m)に登頂を果たした。

江花の黒部峡谷探検は、同年8月に祖母谷から大蓮華山(おおれんげざん・白馬岳・2932m)に登った吉沢庄作(1872-1956)の探検と並んで、黒部峡谷の探検史に刻まれる山行となった。

江花の探検隊が8日間の探検を終えて下山したのは7月16日である。翌々日富山駅に戻ると私的団体である北陸探検団の団員たちが出迎えたという。団員である冷光がその中にいたのかどうかは分からない。おそらく江花はすぐに『高岡新報』紙面で探検記を連載しはじめたであろう。[6]大井冷光は、23日に立山へ出発する以前に、恩師である江花の探検記を読んでいただろうか。気になるところだが、それはこの際あまり重要ではない。恩師の黒部峡谷挑戦という情報は当然早くから知っていたはずであり、その成功を知って今度は自分の番だと奮起したにちがいない。

高岡新報から富山日報へ移籍してちょうど1年。大井冷光は、井上江花からユーモア精神と探検精神を学び、いまそれを夏山臨時支局「立山接待所」で一気に開花させようとしていた。師弟が示し合わせて立山黒部を分担取材したようでもあり、うがった見方をすれば山岳取材の師弟対決でもあった。

[1]たとえば『信濃毎日新聞』の上高地支局は大正時代からの伝統があるという。

[2]冷光の「天界通信」の研究は3つある。(A)富山県立山博物館編『大衆、山へ―大正期登山ブームと立山―』平成20年度特別企画展(2008年)、高岡陽一「大正期登山ブームと立山」(B)高岡陽一「大正登山ブーム到来への過渡期における立山の登山環境について―大井冷光の見た『立山登山』をとりまく状況」『富山県立山博物館研究紀要』第14号(2007年3月)(C)水谷秀樹・大川信行・西川友之「明治後期における女性の立山登山と富山日報社の関係」『富山大学教育学部紀要』(A文科系52号、1998年)。

大村歌子『天の一方より 大井冷光作品集』(1997年)は、「天界通信」のうちのほとんどを復刻した労作であり、冷光研究の基本書となっている。また、広瀬誠「童話家大井冷光と立山」『立山黒部奥山の歴史と伝承』(1984年)は1971年の講演をまとめたもので、幅広い立山研究をベースに冷光を論じた先駆的な内容は他の研究に少なからぬ影響を与えたものと見られる。

坂倉登喜子・梅野淑子『日本女性登山史』(1992年)は、p22-27に比較的紙面を割いて女性登山者という視点から冷光の天界通信を取り上げていて「日本最初の山岳ルポ」と評価している。しかしながらこれは過大評価と言わざるを得ない。この書では、『立山案内』(1908年7月10日発行)に出てくる13歳の少女に言及(p101)しているが、これは本来『高岡新報』を参照すべきである。『高岡新報』明治40年8月4日3面「少女の立嶽登山」、5日3面「女教員の立嶽登山」に詳細な記述がある。「少女の立嶽登山」の少女は富山市の牧野平次郎氏の娘11歳とある。「女教員の立嶽登山」の女性教員とは富山高等女学校教諭の二女史で植物採集を兼ね立山参拝したという。牧野新聞参考。

富山県立山博物館編『女性たちの立山 近世から近代へ……』(2015年)は冷光の天界通信を2ページ見開きグラフ面で取り上げたが、『日本女性登山史』を種本とした内容にとどまっている。

[3]『読売新聞』明治40年5月18日4面、毎日電報社広告「富士山上通信」によると、大阪毎日と毎日電報の企画は8月5日から25日まで3週間で「富士山絶頂に社員を特派し、今年新設の山上郵便電信局の便に依り、山上における自然人事一切の出来事を日々の紙上電報通信を以て報道掲載す洵に夏季絶好の読物たるべきなり」と宣伝している。実際にこれがどのように行われたかは今後の調査がまたれるが、いずれにして明治40年は富士山での取材が大きく変革した年になった。

[4]大井冷光は、明治41年の富山日報連載「六根清浄(立山登山の栞)」の中で、富士山では電話も開通しているが、立山では麓の上滝町に郵便局があるくらいだと記している。

[5]『富山日報』は明治42年、冷光の連載記事に合わせて、富士山関係の記事も数多く掲載した。それによると、富士山の頂上郵便局の電話通話事務と電信事務の開始は8月21日としていて、東京静岡長距離電話加入者に限り頂上と自宅の間で午前4時から午後8時まで通話できるようになったらしい。明治41年に冷光が富士山に電話が開通しているとしたのは、業務用なのであろう。このほか、明治42年の富士山の話題として(1)目の不自由な人の登頂(2)7月21日皇族の初登頂(東久邇宮稔彦王)(3)7月26日山頂音楽会予定(4)7月28日力士たちの初登頂(司天龍文次郎ら)(4)7月10日-8月11日の登山者数9376人などを報道している。

[6]現在の調査では『高岡新報』原紙は見つかっていない。1年後に出版された井上江花『越中の秘密境 黒部山探検』(1910年)は前年の新聞連載をまとめたもので、国会図書館デジタル資料でインターネットから読むことができる。写真師を同行させたことで、写真がふんだんに収録されていて、大変貴重な書になっている。大藪宏『物語 日本の渓谷』(1994年)は、この江花の本を解説付きで紹介している。

(2013-05-11)

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