ミイラ取りがミイラになる

 隋の時代の中国に鵬という男がいた。鵬は人間のミイラが薬の原料として高い値が付くことを知り、ミイラを探すことにした。ミイラとは包帯を巻いた死体のことであり、死の直前に特殊な魔術を施すことで死後に復活することができた。しかし中国にはミイラは少なかったので、鵬はすぐに近辺のミイラを採り尽くした。そこで鵬は天竺に渡ってミイラを探し求めたが、そこでもミイラは少なかった。鵬は中東に渡ってミイラを探し求めたが、そこでもミイラは少なかった。そこで鵬はエジプトに渡ってミイラを探し求めると、そこはミイラの一大産地であった。

 鵬は早速ミイラを探して中国に持ち帰ろうとしたが、ミイラの輸出には多額の関税がかかることを知らされた。これではせっかく中国にミイラを送っても利潤はわずかなものであった。そこで鵬は一計を案じ、まず中国で人を殺めてからその死体をエジプトに送り、エジプト国内に設置したミイラ工場で中国からの死体をミイラ化させ、再びこれを中国に送り返して売りさばいた。これはあくまで加工貿易であるから、当時のエジプトの法律では関税は低く抑えられた。

 鵬はエジプトのミイラ工場でミイラ加工に励み、ミイラを輸出して巨万の富を得た。鵬は技術開発も怠らず、いかなる死体であっても完璧なミイラに加工することができた。いつしか本場エジプトのミイラ職人たちも鵬のミイラ加工技術を認め、鵬から積極的に技術指導を受けるようになった。いつしか鵬は外国人ながらエジプトで指折りのミイラ職人として認められるようになり、エジプト国内ではかれの弟子や孫弟子のミイラ職人が多数働いていた。

 人生の成功者であった鵬だが、時満ちて天命により死した。エジプト国内のミイラ職人たちは偉大なる師の死を悲しみ、ときのファラオまでもが弔問使をお遣わしになった。弟子達は葬儀で落涙したのち、ひとつの疑問につきあたった。あの偉大なるミイラ職人のご遺体は、いかにしてミイラ化することができるのだろうか。平凡な死体とは違う。師のご遺体をミイラ化すると何が起きるのであろうか、と。

 そこで弟子たちは三日三晩このことを論議し、ついに鵬のもっとも信頼した3名の技量確かな弟子が鵬のミイラ化に挑むこととなった。施術は無事成功し、鵬はミイラとなった。そのミイラは中国の故郷に送られたが、その地では鵬の遺体と気づかれることはなく、薬の原料として売り払われた。

 以上の故事から、何事も一芸に秀でた人間は、死してもなお身をもって弟子を教えることができることを「ミイラ取りがミイラになる」と言う。巷間には「何かを求める浅慮な人間が、その求めるところのものに陥ってしまう」という間違った解釈がしばしば見られるが、初学者はこうした妄説に惑わされず、故事をよくよく学び、その意図するところを深く心に刻まねばならない。


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