見出し画像

日本語教師を経験して実感してきた、本音と建前の世界で生きる日本人

バナーに映る猫が可愛すぎて思わず見てくれている人もいるかもしれない。
私も大の猫好きである。猫は間違いなく自分軸で生きる天才であろう。
犬が人間で言う4歳の知能だと言われるが、それに対し、猫は3歳の知能であるらしい。3歳と4歳というのは、そんなに差があるのだ。
それはまさに、4歳になると他人の心を理解し始める「心の理論」が浸透し始めるからである。だから犬は忠誠心が強いと言われる。

少し話がすれてしまったが、今回は、私が今まで日本人として生きてきた中で少なからず苦悩してきたこの問いについて綴りたいと思う。

日本では、物事を淡々と進めていく、集団から逸脱せず標準化することを学校でも外界でも求めれるが故、そうして育った大人たちが社会を形成していくことになる。もっと遡れば、日本の歴史的な背景もあるのかもしれないが、そこは割愛する。私の本職は言語聴覚士であるが、私は日本語教師の資格も有しており、これまで多くの外国人達に日本語を教えてきた。現地にいる生徒も、日本に来て学ぶ生徒もどちらも経験したが、彼らから決まって質問されることがある。それが、「本音と建前」についてである。

そもそも、本音と建前、という言葉が出来上がった所以には、

本音は、何かしらの事柄に対して、個人や集団に共有される意識に内在する感情欲求を含む価値観に照らしてに抱かれるものであり、これは全く自由な心の働きによって形作られる。同義語には「本心」が挙げられ、自身に対する偽り()を含まない。
ただこういった本音は、他者から求められるものと食い違ったり、表に出すことで批判を受けたり、あるいは外聞が悪かったりする場合もある。そこで対外的に表現を穏やかにしたり、あからさまに批判を受けそうな個所を隠したりといった外部向けに表現を制限する。その結果として表にあらわされるのが建前である。

Wikipediaより

上記の定義を鑑みると、いかに私達日本人がこれを刷り込まれてきたかが分かる。これには一長一短があるのは言うまでもない。建前があるからこそ、表面的に規律が保たれ、本音があるからこそ、日本文化が形成されるのである。この黄金バランスとも言うべき日本人精神こそが、他国にはない個性だと私は思う。
しかし、その反面、本音が押し殺される為に建前で生きることを強要され、そのキャパシティを超えてしまった者が命を絶つ流れは消えることはない。
毎朝の人身事故、いじめ社会、ジェンダーにおける不平等化の不解消等、視野の狭さを改善することが出来なくなるのだ。

他国における自己主張はどうなのか?

欧米圏では交渉に際して、往々にして自身の要求を直接的に突き付けたり、そこまでいかないまでも、まず最大限に要求を示し、そこから互いの要求の内で重要度の低い箇所を削るなどして、相互の妥協点を探っていくが、日本人相手の交渉では、まずは互いに建前から入って交渉の余地を残し、次いで相互の妥協点まで埋めていくことが行われる。ことこの双方の様式が交錯すると、混乱が発生する。

Wikipediaより

この前提を知らない外国人達が、私に質問してくることになる。日本人たちの抱える本音と建前を理解した外国人達は、上記のような関わりが可能となるのだ。

和を保つ、調和を優先する、集団から逸脱しない。
確かにそれは社会形成していく上でとても大切なことだ。
しかし、それを全面に押し付けすぎると、障害者や生きづらさを抱える人たちは同調していくことが難しくなる。
よく啓発ポスターのスローガンで本音を訴える様子を見かける。
つい最近は、日本人がステレオタイプとして抱く、男女の役割に疑問を投げかける友好的な啓発を地下鉄内のデジタル広告で見かけた。

政治に積極的に参加しない、傍観者側に容易に回ってしまう。
移民収容所で多く起きる人種差別。
正義感を忘れて集団に既存する。自分さえ良ければいい。
それが日本の闇の部分だろう。

日本文化の素晴らしさがきっといつまでも継承され、崇められていく。
しかし、本音と建前の闇はどうだろう。
それが本当にこれからの社会の中で必要とされる共生社会の実現にふさわしいだろうか?

黄金バランスを見直し、自分軸、自己主張の比率を多くしていくことで、もっと個性を尊重しあい、他者理解が進む日本になるのではないか。

日本語を学ぶ外国人達は、いつも大切な視点を日本人の私に与えてくれる。
目覚めよ日本。手遅れになる前に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?