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続うつ病日記1

 3月は「ブルノ滞在記」と称して、日記を綴っていた。ほぼ毎日更新できたことに我ながら驚いている。わたしは三日坊主どころか、小学校での宿題を除いて、日記など2日と続いたことがない。けれどブルノ滞在中に書いた日記は、日々経験したこと、感じたこと、考えたことを整理する上で非常に効果的だった。日記には、認知行動療法的な効果があるのかもしれない。ブルノ滞在記はほとんど自分の精神安定のために書いていた。しかし、嬉しいことに(そしてちょっと恥ずかしくもあるが)、思った以上に読んで(「見守って」ならぬ「読み守って」)くれていた人がいた。

 日本に帰国して1ヶ月、うつ病が再燃してきた。そんなに簡単に治る病気ではないということを痛感した。そういうわけで、再び日記の続編を書いてみようと思う。今回は海外の話をすることができる訳ではないので、「ブルノ滞在記」ほど面白いものにはならないかもしれないし、日常の雑事に忙殺されて毎日更新することはできないと思うが、それでも自分の精神衛生に必要だと思ったタイミングで、日記を綴っていこうと思う。

 先週末、『翻訳文学紀行Ⅲ』の刊行記念イベントが終わった。役者による朗読と、翻訳者本人による解説・トークを交えた贅沢なイベントだった。海外滞在中の専門家からの中継もあり、閉塞感漂うコロナ禍のわたしたちの心に外の新鮮な空気が吹き抜けていくような、心地よいイベントとなっている。いずれも対面イベントは終了したが、動画配信は5月半ばまでアクセスできるので、ご関心のある方はぜひ以下のリンクから記事をご購入いただきたい。有料記事部分に、配信先URLが表示されるようになっている。

ドイツ語文学 エゴン・エルヴィン・キッシュ 著/ことたび 訳『メキシコ発見』(5/1-14配信)

スウェーデン後文学 カール・ヨーナス・ローヴェ・アルムクヴスト 著/大鋸瑞穂 訳『それでけっこう』(5/2-15配信)

イタリア語文学 トンマーゾ・ピンチョ著/二宮大輔 訳『紙とヘビ』(5/2-15配信)


 さて、わたしはといえば、イベント直前にうつ病が再燃。その最中にSNS上で、自称作家・映画監督の1歳年上の男性の友人から「鬱は気合で治る」「非常勤講師の仕事で弱音を吐くのは、他の研究者や学生に失礼」「鬱は薬で治らん、発狂・狂死覚悟で絶望と向き合え」と書き込まれ、心をめっためたにされた。友人に愚痴を聞いてもらい、何人もの人から「あなたは悪くない。相手の方が非常識だ」という言葉を送っていただき、なんとか心と身体の調子を取り戻してイベント運営に集中することができた。こんな時に支えになってくれる数多の友人は、わたしの何よりもの宝物であり、そんな友達を持っているということは、わたしの何よりもの才能だと思う。

 しかしながら、2日にわたるイベントを運営し、かつ、その後配信用動画の編集・アップロード作業を行なった後は、さすがに疲労困憊。翌2日ほどはほぼ布団で横になっていた。

 昨日は、兵庫県美でキュレーターを務める友人からいただいた招待券を持って夫と神戸へ。

兵庫県美のすぐ近くにあるJICAの食堂でランチを食べて展覧会を鑑賞、美術館のカフェでお茶をして(展示はとても面白かったけれど、考えさせられることが多くてけっこう疲れた)、その後王子公園のワールドエンズ・ガーデンで本を買って帰宅。

帰宅の途上ですでに疲労に苛まれていた。車内で少し瞑想をして、クラウディオ・マグリスの『ミクロコスミ』(二宮大輔訳・共和国)を読む。『ミクロコスミ』は電車の中で読むのに最適な本だ。トリエステ周辺の地域について歴史的・文化史的に鮮やかかつ微細に読み解かれてゆくその描写を目で追っていると、車内の雑音が全く気にならなくなる。まさに現実逃避にぴったりの本だ。オーストリアとクロアチアの国境地域にあるトリエステの多言語性・多文化性の中に生きる一般の人々の営みが、あるがままに描き出されている。やや小難しい(マグリスはイタリア最後のインテリと言われているらしい)が、読んでいてとても心地よい文章だ。一生懸命内容を理解するというよりも、流麗な文章と、文章から立ち現れてくる眩しい景色に戯れる、そんな読み方が良いのかもしれない。

 帰宅後は布団に直行。夕飯は夫が作ってくれた。わたしは布団の中から何度も「手抜きでいいから!」と叫んだ。お金を生み出す仕事をしているのは夫なのに(しかも夫もわたしと同じく不安定な非常勤講師だ)、家事までやさらせてしまう自分にうんざりする。夫はその夜から実家に帰省し、旧友と会ったり、船乗りであるためなかなか家に帰ってこられない父と出かけたりするためにしばらく家をあける。少なくとも食器の後片付けはわたしにやらせてほしいと言って、夫を送り出した。けれどその日は結局そのまま寝ついてしまったので、シンクには朝まで食器が溜まっていた。

 今朝は3時ごろ悪夢で目が覚めた。夢の中でわたしは精神疾患にかかっていた(現実でもかかっているが)。精神科医に、わたしの精神疾患は、新興宗教を信仰している母との確執が原因だと告げられる。診断書を出してもらい、それを母に見せるようにと告げられるが、わたしはそれを彼女に見せることに強いストレスを感じている。そんな夢だった。

 まさに悪夢にあったように、わたしの両親は日本のある新興宗教を信仰していた。両親だけではない。両親の両親、つまり祖父母も、母方に至っては曽祖母も。高校生まではわたしも大人しく信仰を受け入れていたが、大学生になって「やはり彼らの言っていることはおかしい」ということに気づき始めた。しかし、わたしは大学院に進学して留学するまで、主に経済的な理由から親元を離れることが許されず(一方弟は大学進学を機にさっさと家を出た)、日々信仰を強要されてきた。日本で一人暮らしを始めてからも、自宅に小さな仏壇を設置され、近隣の信者に住所や電話番号などの個人情報を勝手に伝えられた。ほぼ強制的に毎年一万円ほどの寄付をさせられ、機関紙の講読も強いられていた(一人暮らしを始めてからは、オンライン版を購読すると言って、購入していなかった)。また、わたしが高校生だった頃には、祖父が死際にわたしと弟に残した遺産を、母と祖母がほぼ勝手にその宗教団体に寄付することに決めた。当時のわたしには金銭に関する執着はなかったし、今でもそれほどないのだが、それでも母と祖母の判断が間違っていたのは明らかだ。しかし、そんな常識は信者には通用しない。彼らは善行を積んでいると疑いもなく信じているのだから。その割に、一般的な寄付に対しては母は消極的だった。小学生の頃、スーパーに置いてあった募金箱にお金を入れたいというわたしの提案を母は拒絶した。「わたしは宗教団体にちゃんとお金を寄付しているから、そんな必要はない」というのが彼女の主張だった。母はケチだった。今思えば、宗教団体にまとまった寄付をするために、節約する必要があったのかもしれない。
 一人暮らしを始めてからも、実家に帰省するたびに、母はあらゆる会話を信仰の話に結びつけ、自分の信仰がいかに素晴らしいか、信者がどれほど目覚ましい活躍をしているかを一方的にわたしに語りつづけた。正直なところ、コロナ禍が始まって帰省する必要がなくなった時にはほっとした。そしてその間に、わたしは今の夫の助けを借りて、その宗教団体に対して正式な除籍願いを送った。おそらく団体は正式な除籍手続きなど何もしていないだろうが、重要なのは、わたしが除籍願いを提出することで「わたしはこの信仰を拒みます」という意思表明をすることだ。そうすることで初めて、法的に信仰の自由が擁護されるのだそうだ。
 その後、市の人権課に相談し、現在は両親に現住所が知られないような措置を取ってもらっている(保護措置という)。そうすることで、わたしはようやく親の戸籍から抜け、夫と籍を入れることができた。

 先日温又柔の『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社)を読んだ。冒頭は、2000年代半ばが舞台となっている。特に夫の浮気が描かれるシーンは、2020年代を生きるわたしたちには少し無理のある(分かりやすすぎる)流れであるような印象を受けたが、当時はあるあるだったのかもしれない。
 印象的だったのは、主人公 桃嘉の母(雪穂)が、娘が子どもができないことを悩んでいるのではないかと思いを巡らせるシーンだ。

桃嘉がいれば十分。ほんとうだ。[……]孫は可愛いと人は皆言うけれど、孫の顔が見てみたいという気持ちに雪穂はまだなったことがない。それよりも、今、目の前にいる自分の娘が苦しんでいるほうが、雪穂にはよっぽどつらかった。

温又柔『魯肉飯のさえずり』200-201頁

わたしも、そんな風に娘のことを思ってくれる母が欲しかったと思うし、どの親も雪穂と同じような親であってくれたらと思う。
 この作品で特徴的なのは、いくつかの台詞やシーンが、作中で何度も反芻され、新たな意味が付け加えられ、更新されていく点だ。決して人物や出来事を一面的に捉えない、そうした描写の繊細さが魅力的だった。
 欲を言えば、アンチ・ヒーローである桃嘉の夫についても、その内面を掘り下げて描写すればより奥行きが出たのではないのかと思う。今の状態だと、桃嘉の夫は主人公とその家族の内面を深掘りする上での道具のようになっていて、生身の人間であるような印象を受けない。

 今日は依頼されたチェコ語の詩の翻訳の微調整に入るつもりだ。詩人と直接コンタクトを取りながら、訳文を完成させていく。翻訳することはもちろんだが、個人的には詩人たちとメールを行き交わせながら、詩の感想や解釈を共有することの方により大きな喜びを覚える。さぁ、今日もヨガをしてから詩人に返事をしよう。

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