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人生のテーマ

やりたいことはたくさんある。

・北海道に行きたい
・世界遺産検定で一級を取りたい
・お芝居を見に行きたい
・2か月くらい旅をしたい
・描き散らかしたイラストを冊子にまとめたい
・写経をしたい
・気になった漫画を全部読みたい
・山に登ってみたい
・ベスパに乗りたい
・飛びたい

ちょっと重い腰を上げれば叶うものからバカみたいなものまで、好奇心はあちこちに飛翔し、たいてい飛んで行ったきり帰ってこない。

高校~大学~研究所と、トータル9年間も学校で陶芸を学んでいた。実家を離れる身内が他に誰もいなかったこともあって、「あの子は自分の夢を追って飛び立った。きっと立派な作家を目指して努力している」と親戚からずいぶん良い評価をされ、おかげで親戚の集まりではだいぶ居心地の悪さを感じたものである。

大学4年生のとき、就職活動を数ヶ月でやめた。「陶芸をもう少し続けたいから」と、大学院を受験することにしたのだ。もちろん今となっては、陶芸を続けたかったからではない。「自分の中でまだ陶芸が人生のテーマにならない」ことに焦り、卒業して社会人になるのをひきのばしたのだ。

もちろんテーマ性も薄く漠然とした制作ばかりしていた私だ。先生には見透かされていた。大学院は当然ながら不合格だった。しかし、先生はまだ唯一受験が間に合う某研究所への願書を用意してくれていた。「受けるかどうか、よく考えて提出しなさい」と。
私は「とりあえず」受けることにした。おずおずと無職で卒業したくなかった。しかし、一緒に不合格となったもう一人の子は受けなかった。彼女はその後、本当にやりたかった音楽活動へと回帰していった。今にして思えば、彼女の選択は正しかった。私も陶芸にいつまでも必死こいてしがみついてないで、就職浪人でもいいから何か新しいことを始めてみればよかったのだ。


社会人になってからも約1年半、会社から車で45分かかる場所に工房を借りて制作をおこなっていた。通っていた陶芸の研究所に舞い込んだ求人に乗っかった際、「制作活動も尊重するよ」と会社に言われたことが主な理由だった。「制作活動をしなければ」と勘違いしたのだ。
昼間は仕事、夜は工房で制作。しかし、何を作りたいのか自分でまったくわからない。とりあえず手を動かすものの、「これが『自分の人生のテーマ』ではない気がする」という思いが常に脳裏にあった。社会人になってからの陶芸活動は、もはや参加するグループ展に何かをもっていくためだけにやっていた。本末転倒も甚だしい状態であった。

約10年の陶芸生活のうち、最後の2年くらいは、陶芸にしがみついている自分に嫌悪感すら感じて、辛くて仕方なかった。「やめる」という選択がなかなか取れなかったのは、「本当は心の底から陶芸を愛していたから」とかそういう美しい理由ではない。「9年も学費を払って学んだものが、人生のテーマとなり得ないことを認められない」からである。

人生のテーマ。私は、そういったものがいつまでも見つけられない自分がひどく恥ずかしいとずっと感じていた。いろんなものに興味はあるが、どれも散漫で深く潜り込めない。絵を描くのは好きだが、苦手なジャンル(背景やメカ)を克服しようと常日頃努力するほどの情熱はない。初めに書き連ねた「やりたいこと」を上回るほどの情熱が「人生のテーマ」になければならないとずっと思っているが、とうしても私の中で「絵を描く」が「飛びたい」を圧倒的な差で上回ることができない。

クリエイティブでお金を稼いでいる人たちを心から尊敬するのは、彼らはきっと「人生のテーマ」が見つかっているに違いないと勝手に思い込んでいるからである。

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さて先日、33歳になった。
いま私は陶芸をまったくやっていない。イラストは仕事が忙しくないときや描きたいものが思いついたときに、描きたいものだけ描いている。幸せなことに、ご縁があってイラストでお金を頂いたことは何回かあるが、自分から売り込んでいくことは全く無い。

人生のテーマはまだ見つかっていない。しかし、不思議とそのことで20代の頃ほどに心が苦しくならなくなったのは、自分が「おばさん」になりつつあるからなのか。いまは、人生のテーマともいえるような絵を描くことより、北海道に行ってみたいと考えている自分がいる。

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