短編小説「MONO」

この話は、自分で自分を慰めるしかなくなった小説家の話です。

最初の哀しみはいつだったのか、最初の諦めはいつだったのか、最初のもがきはいつだったのか。
もう思い出すことは出来ませんでしたが、彼は、それをいつも何等かの手段によって紛らし、普通の生活を保ってきました。
保ったといってもそれは、彼が生きた22年間だけのことで、世の平均寿命とは程遠い年数です。
彼は愛されて育った子供でした。
だから彼は、愛されないということを恐れたのかも知れません。
しかし実際に彼を愛したのは彼の家族だけでした。
彼が出会った人間は、彼が思うほどにしか彼を思っていない。彼は透明な寂しさというものを知りました。
そしてそれに魅せられて、飲み込まれました。
愛されて育った人間が、皆彼のようになるとは限りません。
人の運命というのは、最初から最後まで、細部にいたるまで決まっているのです。

彼は最初、俳優になろうと思いました。俳優になれば、彼の持つ哀しみも狂気も諦めも、もがきも全て吐き出すことが出来る。
別の人間を演じれば、自分から逃れることが出来る。彼はそう思いました。しかし、現実はその逆だったのです。
俳優という仕事は、演じようとすればするほど、自分自身を見つめなければならない仕事でした。
彼の演技を好きだといってくれる人もいました。
始めのころは、それが嬉しくて、ますます俳優になろうという思いが強まりました。
その勉強をするうちにわかってきたのです。彼がなりたい俳優というのは、自分の感情を露わにするような、
そんなタイプの俳優ではないということが。彼はそういう俳優が嫌いでした。
それでは彼の狂気や、あまりに深くなってしまった哀しみをどうすることも出来ません。彼はただひとり。自分の部屋の中だけで頭を振り、無声音で吠えました。
彼は俳優にだけはならないことにしました。

彼は3度、恋をしました。
「愛している」と言えたことは一度もありません。
とても好きには違いなく、切なくて涙が出たり、体が冷たくなったり熱くなったりしましたが。

愛しているとはどういうことなのか、彼は考えていました。
考えているといつも答えは、同じ所へ行きつくのです。
ぼくは何かを愛している。何かを愛しているから、これが愛ではないとわかるのだ。

彼が愛してやまなかったのは、透明な寂しさです。
そのくせ寂しさに耐えられなかったのです。
彼はいつも矛盾を抱えた人でした。

彼は、MONOということにこだわりました。
彼の心には、単純なものだけが入ることを許されていました。
音のない朝に降る雪や、バイオリンの音楽、鴨居玲の絵。
彼は複雑なものに遭遇すると、気が狂いそうになってしまうのです。
彼の部屋にはブラウン管の割られたテレビがありました。

彼が最初に小説を書き始めたのは、死ぬ3ヶ月前のことでした。
彼は3ヶ月の間に、1030編の小説を書きました。1日に何編という書き方ではなく、思いつくままに書いていきました。彼はそのころ、ほとんど人と会うのを止めていて、食料の買い出しぐらいしか、外へ出ることもありませんでした。長時間人と会っていられる自信がなかったからです。
人と会うということは、その間彼が狂気を抑えていなければならないという事で、彼が溺れてしまいそうになっていた哀しみを、見ない振りしていなければならなかったので。

彼は彼の哀しみを見なければよかったのです。

彼は白い粉になって、輝く海へと逝きました。小説(わたし)を遺して。
(終)

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