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思考のダンス

25歳になり、メモ魔になろうと決意した。

普段、仕事でもメモを取るには取るが、必要最低限の方がいいと思っている。メモを取ることに集中しすぎると、人の話を聞いて心が動いたことを忘れてしまうので、あとで印象に残りづらい。なるべく、感動しながら話を聞いた方が、心震えたポイントが最重要だと分かり、自分がアウトプットするためには役立つ。

メモ魔になろうと思ったのは、仕事というよりはプライベートでのこと。何を喋って、その時何を思っていたのか記録してみようと奮闘している。

もともと日記をつける習慣もないので、メモを開く時間がなく、やむを得ず通勤電車で座れた時に汚い字で殴り書きしたりする。

自分が発した言葉を思い出しつつ、そのとき何を考えていて、その言葉を発するに至ったか丁寧に思い出し記す。そうすると、1つ分かってきたことがある。


私は言葉足らずかもしれない!&不器用


これまでも薄々は分かっていたことだったが、改めてそれを感じて少しショックを受けた。

私は何を語るかよりも、語らずにいることや行動で生き方を体現したいと思っている節がある。この考え方のくせみたいなものは、きっと幼少期から「あなたは口で失敗するから、よく考えてから喋りなさい」と言われたことに、たぶん由来する。

何かを語ろうとするとき、同時にたくさんの言葉が心の中に湧き出てくる。


「こう考えて、でもこういう事もあり得ると思ったから、こうしてこうしました。でも、もし貴方がこう思うなら、こういう選択肢もあります!だけどこっちの方がもしかして好き?ごめんね!そっちは気づかなかったや。」

と言うようなことを3秒で考えていたりする。

それを説明するとき、結論A or B➕すみませんの一言だけで済ませてしまったりする。物腰の柔らかさと、笑顔と、少しの雑談は織り交ぜるのでなんとか社会でやっていけているが、、、正直自分でもこれはひどいと思う。

逆に人から何か説明されたことは大抵「くどい」と思ってしまう。少し触りを聞けば、全体がわかるような気がするのだ。実際わかっているのだと思う。話長いな〜はやく結論言ってくんないかな〜といつも思っている。とても失礼。笑

相槌を打つのが1拍早い、と友達に怒られた事もある。ごめんなさい。

だから、何を言っているか自分でもわからなくなってパニックになったり、堂々巡りの話をしている人を見ると、すこし嫌な気持ちになる。こういうことだよね?と助けてあげたくなるのをぐっと堪えるから。

そして、口が上手いなぁという人はなんとなく信用出来ない。喋りすぎで軽いな…と感じる。


自分が喋るときにもそうで、ひとこと言えば、話の全体が通じたような気持ちになってしまっている。でも皆は私とは違うので、少し誤解を受けたり、気を使わせたり、傷つけたりしているかもしれない。

大人になって、単刀直入だけではない質問の仕方や、話の外堀から埋めていくこともだいぶ覚えたつもりだったけれど、まだまだ足りないみたい。

私は、考えが次から次にうつり変わっていき、翻り、舞い上がって着地して…という流れを思考のダンスと名付けることにした。

そして、メモ帳の表紙に「思考のダンス」とタイトルをつけた。

自分の感情の移り変わりをメモにとると、そんな思考のダンスが常日頃、ものすごいスピードで繰り広げられていることに気づいた。

これら複雑で、多層的で、あちこち飛んでいく情報を、ひとつの脳で処理しているのは本当にすごい。メモに取る方が整理される…というよりは、メモに残せることは、どんなに頑張っても思考のダンスのほんの一部分だ。

でも、面白いのでもう少し続けてみたい。不思議なのは、メモの方が普段の発言よりもネガティブになりがち…ということ。

これからどんな風に変化するだろうか。


エチカ




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