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おいしい空気のあるところ

【あらすじ】
人見知りで喋ることが苦手な優は、高校時代の同級生・凜に誘われ、「おいしい空気で社会をケアする」をミッションに掲げるスタートアップ企業、ソシオエアへ業務委託メンバーとしてジョインする。はじめての社会人経験に戸惑いながらも、イベントやカンファレンスの現場で安心安全な「空気」の提供に勤しむうち、優は忘れかけていた感情や声のあげ方を取り戻してゆく。そのうちに、CEOである絶世の美人・ササノから「正社員にならないか」と誘われるが、優が働くことに否定的な夫の反応が気がかりだった。

 高梨さんのカフェが潰れたと知って、優は駅へ向かう途中、遠回りして見に行った。まっさらな陽射しがいちめんの窓から射し込み、無垢材のひろいテーブルと北欧風の椅子の足を濡らしている。革張りのソファのかげには葉にうっすらと埃をかぶった観葉植物の鉢植えがあって、でも高梨さんはきっとこれを取りに来ない、と優にはわかる。こうして他人の淡い不幸をのぞく自分に後ろめたさを感じながらも、どこかほっとしている。扉に貼られた「閉店のお知らせ」を眺めながら、もしも煙草が吸えたらこういう時に吸うんだろうな、と思う。
 かわりに深く息を吐き、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。無害な空気。微かに金木犀の香りがして、季節にはにおいがあったことを優は思い出す。

 虎ノ門駅の改札で声をかけられ、でも相手が凛だとすぐにはわからなかった。
「どうしたの」
 一言目に凛は言い、
「小林さんでしょ」
 旧姓で呼ばれてはじめて、優の頭に高校時代のクラスメートの顔が浮かんだ。変わらない切れ長の目と高い鼻、何より顔の半分近くを覆い隠す、あのグレーのマスク。新型感染症対策の名残でマスクをしている人もちらほらいる町なかでは昔のように特に目立つというわけでもなく、時が凜に追いついたんだな、とぼんやり思う。
「いま時間ある?」
 スマートウォッチへ目を落としながら凛は尋ね、優の答えを待たずに言った。
「ねぇ、ランチしない?」
 あ、この感じ、知ってる。
 優はまばたきした。あれはたしかちょうどこのくらいの時期で、机に照りこぼれる日射しは柔らかかったけれど窓際の席はすこし肌寒くて、移動教室のために教科書をまとめていた優の背中に、凛は呼びかけたのだった。
「ねぇ、一緒に行かない?」
 あの時も、グレーのウレタンマスクに覆われた凛の表情は読めず、優はちょっとむっとした。何かの罰ゲームだろうか。教室の外で高梨さんの笑い声が響き、優はさっと目を伏せると教科書を抱いて教室を飛び出した。制服のプリーツスカートがはためき、渡り廊下のカーテンが風を孕んでふくらむ。いまにも降り出しそうな雨と埃のにおいがした。
 あの時、凛の誘いにこたえていたら今頃どうしていただろう。同級生から冷ややかな笑みを向けられることもなく、就職活動の面接でも顔を上げて喋ることができて、先輩の発言を愛想笑いでやり過ごすことなく反論し、たまにLINEで愚痴をこぼしたりして、それから——。
 気づけば大きく頷いていた。慌てて否定しようとした優より先に、
「よかった。ちょうど、遅めの昼休みでさ」
 歌うように凛は言い、さっさと先に立って歩き出した。あの時冷ややかな態度をとってしまったことが胸のどこかにずっと引っかかっていた優は、すこし拍子抜けしてしまう。それから凛のぱりっとしたパンツの先の真っ白なスニーカーへ目を落とし、そうか凛は現在を生きているんだ、と思った。淡い敗北感があった。改札前で突っ立ったままの優の方を、凛が振り返る。
「行こうよ」
 怪訝な顔をする凛に、お金、と優はこぼす。凛は切れ長の目をさらに細め、
「奢るよ」
 と短く言った。
 流暢な英語で話す隣席の男女を横目に、優は体を縮こませてパスタを巻いた。家と学校以外の場所で誰かと食事をするなどはじめてだった。マスクを外し、しかし相変わらず口元を手で隠しながら「どうしたの」とまたも凛が尋ねるので、優は膝の上のナプキンに目を落とす。
「こんなところで会うなんてびっくりしたよ。卒業して結婚して引っ越したってきいてたからさ」
 卒業して「就職できずに」結婚して、というところを、凛は知らないのか、黙っているだけなのかどっちだろう、と優は思う。それから膝の上で両手を握り、「忘れ物」と呟いた。
「したの?」
「夫」
「あぁ、旦那さんに届けてあげたのね。職場、このあたりなんだ。家もこの辺?」
「町田」
「そこそこ遠いじゃん」
 低い声で凛が言い、優はうなずく。そこそこどころか、ものすごく遠い、と律人は言う。「でも、うちが優の実家に近い方が安心だもんな。優のためなら、遠距離通勤だって我慢できるよ」と律人はにこやかにネクタイとシャツをソファへ脱ぎ捨て、優はそれを拾う。
 凛はほんの一瞬、優を値踏みするような視線を投げかけ、でもすぐにパスタの皿へ目を落とした。
 凛はこんな感じだったろうか。
 背筋の伸びた目の前の彼女を不思議な気持ちで優は見つめた。違う。凛はいつだって背中を丸め、マスク越しに相手の顔色をうかがうようにおずおずと話していた。優は、中指のささくれを見つめる。いったい何が凛を変えたんだろう。
「『本日のデザート』、優もいるよね」
 優は首を振ったが、お冷をつぎに来た店員さんに「これ、二つお願いします」と凛がもう頼んでいた。
 会計を済ませる背中に向かって、「ごめん」と優が声を絞り出すと、「謝らないで。悪くもないのに」凛が薄い肩を揺らし、振り向きざまにこう言ったのだった。あの時とおなじ口調で。
「ねぇ、働かない?」

 株式会社ソシオエアのオフィスはマンションの一室にあった。優は椅子に腰掛け、慣れないリクルートスーツの中でモゾモゾと体を動かした。四方の壁に沿って並ぶ大小の鉢植えからは枝葉が伸び、天井からは枝垂れ、開け放たれた窓の向こう、緑にけむるバルコニーの柵には太い蔓が這っているのが見えた。低くうなる空調、隅っこにぽつんと置かれた空気清浄機の緑のランプ、濃い緑と湿った土のにおい。優が思い描いていた無機質な「オフィス」とはおよそ程遠いけれど、不思議と居心地は悪くない。いま自分がここにいることが信じられないというか、結婚する時「家にいてくれる女の人がいいんだ」と言った律人が、働くことに賛成したことが信じられなかった。
 凛と再会した夜、優が「働きたい」と切り出すと、律人は戸惑ったような表情を浮かべたけれど、「業務委託」だと聞くとふっと口の端から息を漏らした。さらに高校の同級生が勤めるスタートアップ企業と知ると、
「そうか。ちょっとした社会勉強にはちょうどいいかもね」
 そう軽やかに笑いながら、いつものようにネクタイをソファへ放ったのだった。
 優は、向かいに腰掛けたササノの完璧なフェイスラインとほっそりした首を眺め、自分の深爪に目を落とす。CEOのササノのことを「絶世の美人」だと凛は話した。顔を見なくとも、例えば電車のホームで対岸に立つだけで背筋がぞくっとするほどの。女性なのかと優は尋たが、「性別は超越してる」そうだ。事実、相手の顔をまっすぐ見ることが苦手な優だったが、胸から上、顎から下だけでも、絶対的な存在感を痛いほどに感じる。美しさは正しさに似た暴力なのだ。優はごくりと唾を呑んだ。
「凛から話は聞いています」
 聞いていた通りにこりともせず、低い声で淡々とササノは話した。
「我々のミッションは、おいしい空気で社会をケアすることです」
 株式会社ソシオエアは、空間コーディネートのための商品開発とコンサルティングを行うスタートアップ企業だ。主幹事業は、大手企業とのR&Dによる製品開発だが、優が所属するのは現場へ派遣される業務委託中心の専門スタッフチーム。主に企業のセミナーやパーティ、コンベンション、依頼があればライブコンサートからスポーツイベント、サークルに学校行事まで、現場の安全安心で清潔な空間を保証する。スタッフは、空気中に浮遊する塵埃や不純物といった微粒子や二酸化炭素濃度、さらに臭気物質濃度まで測定できる自社開発のパーティクルカウンター(微粒子計測器)を手に現場へ駆けつけ、その場の空気を測定。基準値以上の値であれば、紫外線と光触媒で除菌するポータブル空気清浄機を稼働させ、環境有害物質の除去に効果的なスプレー剤を散布する。もちろん、環境と生物に配慮した自社開発の製品だ。さらに、催し開始から終了まで常時空間の空気環境を遠隔モニターで測定しながら適宜浄化対応を行う丁寧なワンストップサービスを提供する。創業して数年だというが、新型感染症の流行に伴い大きく業績を伸ばしたのだ、とたいしてうれしくもなさそうにササノは話した。
「たかが空気、と思われるかもしれませんが、されど空気。パフォーマンスを大きく左右する大切な要素ですから、温度や湿度と同じように、見える化されるべきです。ハーバード大学の研究によると、CO2濃度が高いと、集中力が低下したり、眠気といった弊害があることがわかっています。タスクの種類によっても異なりますが、会議室内のCO2濃度は、1000ppm以下に保つことが理想でしょう」
 そこまで話すとササノは、優の履歴書へちらりと目を落とした。
「優、あなたはTOEICが九百点以上なのですね。国際カンファレンスなどの依頼も増えつつあるので、ご活躍いただけそうですね」
 期待されることに慣れていない優は、喉の奥が苦しくなって目を伏せた。ササノのベージュに塗り上げられたネイルに向かって呟く。
「名ばかりの資格」
 です、とやっとのことで付け足す。しばしの沈黙があった。空気清浄機のランプが音もなく点滅をはじめ、木々の向こうからぱたぱたと駆け寄ってきた凛がスイッチを操作した。
 ササノの薬指が、たん、とテーブルを叩く。
「『名ばかり』とは、職務経験がないから? 誰かに言われましたか」
 口ごもり、律人に頼んで買ってもらったスーツの袖口へ目を落とした優は、しつけ糸がつけっぱなしだったことに気づく。よれた糸を引っ張りながら考えた。誰かに似たようなことを言われたことはあったような気がする。父親か、学部の先輩か、インターン先の人だったか、それとも就職活動中だったか——ぼんやりと思い浮かぶ声はどれも男の声だった。
「いずれにせよ、あなたが努力して成果をつかむことができる人だという評価に変わりありません」
 ササノは表情を変えないまま、しかしぴしゃりと言い、
「あなたを歓迎します」
 と業務委託契約書を突きつけた。
 席を立つ優に、
「ベンジャミンに気をつけて」
 とササノが声を掛ける。優が天井を仰ぐと、
「そこの木です。枝が伸びてて。ぶら下がっているのはチランジア」
 ササノの長い指が指す先を見ると、天井から吊り下げられたプランターから細く尖った薄緑の葉がなみなみと溢れていた。
「世界の空気はヒトだけのものって、つい勘違いしてしまうでしょう。植物は良いものね。誰も傷つけないから」
 優は、はじめてササノが微笑むのを見た。風もないのに葉ずれの音がした。

 オフィスから帰る道々、優は律人に言われたことを思い出していた。「優のためを思って言うわけだけどさ」と神妙な面持ちでグラスに酎ハイを注ぎながら、
「業務委託って、基本的に使い捨ての兵隊みたいなものなんだ。正社員になるには経験も技術もそれからセンスも足りてないってこと。加えて、スタートアップ企業だろ? 怪しいもんだね。多少難しくても、契約書は読み飛ばすなよ」
 子どもを諭すような口調だった。優はカップを洗う手を止めて頷いた。そこまで馬鹿じゃない、と内心思った。でも、馬鹿なふりをしているくらいがちょうど良い。律人だって機嫌良くいられる。ふりをしているうちに、本当にそうなってしまうような気がする、と果てしない気持ちになることもあったが。喋らないからといって、何も感じないわけではない。でも、感じていながら言葉にしない、いや、できない自分がだめなのだ、と優は唇を噛んだ。
「週三日稼働で土日休みなら心配ないとは思うけど、慣れない仕事で体を壊さないようにな。家事だってあるんだし」
 シンクに跳ね返る水の音で優の声は届かなかったが、律人は返事を求めていたわけではなかった。
 律人が眠ったあと、優はベランダから律人のカップを地面に叩き落とした。そうでもしないと、自分の心が散り散りになってしまいそうだった。闇の向こうで陶器が砕け散る音に耳を澄まし、カップが一つ減ったところで律人は気づきもしないだろう、と思った。気づいたからといって、新しいものを買うだけだ。それから深い罪悪感に襲われて、ベランダの冷たいコンクリートの地面に座り込んだ。
 父も母も兄も、律人のことを優には勿体ない旦那さんだと言う。優のためを思い実家のそばへ移り住んだ理解ある夫で、自ら家計も管理するしっかり者。勤め先は誰もが知る大企業で人当たりも良い。なのになぜ、一緒にいるとどうしようもなくつらくなる時があるんだろう。優は、ベランダの柵の向こうにひろがる闇を睨んだ。きっと、自分の劣等感や妬みといった邪な感情がそうさせるのだ——。
 虎ノ門駅地下通路の風を浴びながら、優は立ち止まる。右を、左を、人が支流のように流れていって、何人かが優の肩にぶつかる。もう勝ち上がれないと知った日の風のことを、優は覚えている。もう勝ち上がれることなんてないのは、とうにわかっていた。

 初仕事は大手メーカー企業のランチミーティングだった。パンデミックを機に夜の会食を昼のミーティングへ切り替えた企業も多い。進取の気性に富んだ会社や、海外顧客との付き合いの多い大手企業ほど、その流れに乗る傾向があった。
「ただ、居ること。それが今日のあなたの仕事です」
 はじめは辛いでしょうが、とササノは付け加えた。優はササノの表情を盗み見たが、端正な顔立ちからはわずかな感情もうかがい知ることはできなかった。
 社用の小型EV車に空気清浄機とサーキュレーター、業務用スプレーを積み込み、助手席につく。初日なので正社員の凛が付き添うことになっていた。
「心配ないよ。企業がホワイトなほど、空気もきれいだから」
 カーナビをいじりながら、凛が呟いた。
 ランチ会場はレストランの個室で、ひろい窓からは東京湾が見晴らせた。凛がパーティクルカウンターを起動しながら、
「はめ殺しだね、ドア開けとこう。カーペットにはリンサークリーナーかけよっか」
 と優につるんとしたスプレー缶を手渡す。優は制服の白衣を羽織り、凛の指示で動いた。
 ミーティングの時間までは除菌に消臭にとパーティクルカウンターの値を見ながらせっせと立ち働いていたが、いざ人が集まりはじめると、モニターとサーキュレーターの見張り番くらいしかやることもない。二人は会場外でモニターの数値を観測しながら、終了時間まで待機となる。開け放ったドアからは時折笑い声が響き、一人ひときわ声の大きい男性がいるようで、彼がこの会をとりしきっているようなのがわかった。毎晩、夕食の席の真ん中で自論をぶった優の父親の口調と、それはよく似ていた。
 やがて食事が運ばれて来る頃、その声は響いた。
「お前、いちいちマスクつけんなよ。なぁ?」
 冗談含みの口調ではあったが大きな声で、優は思わずびくりと肩を震わせた。
「表情も見せないなんて水くさいじゃないか。お前みたいな輩がいるから、この国は他の先進国に置いて行かれるんだぞ」
 それから、ざわめきのような笑い声。優は、凛の顔を盗み見た。グレーのウレタンマスクに覆われた凛の鼻から下は見たことがない。高梨さんが「あいつのマスクやばくね!?」と凛を指さし、何かにつけては男子をけしかけ凛の背中に飲みかけの紙パックのジュースをぶつけていたことを思い出す。
 相手の声は届かないが、ここぞとばかりに声は張り上がる。
「だいたい、思考停止の右ならえで惰性でマスクをつけてるような頭の足りない奴ほど……」
 すると、傍の凛が優の肩を叩き、小声で言った。
「ねぇ優、中の空気清浄機、再起動してもらってきていい?」
 え、と優は聞き返す。
「でもここでこの」
 室内の機器を遠隔操作できるスイッチを指差し、戸惑う優の背中を、「いいから」と凛がぐっと押した。
 会議室の戸口に立った優はしかし、「失礼します」のひと言がどうしても出さず、曖昧に会釈をし身を低くして足早に空気清浄機を目指す。突然の部外者の侵入に男性の声が止み、優は脇腹に痛いほど刺さる視線に耐えながら、壁沿いを進んだ。やっとのことで優が空気清浄機を再起動させたところで、誰かがひとつ咳払いをし、
「まぁまぁそのくらいで。ほら、空気も悪くなるし」
 となだめるような声。びっしょりと汗をかきながら優が会議室を出る頃には、もう皆の関心は月次計上収益へと移っていた。

「知ってた? 蒸留水ってまずいらしいよ」
 帰り道、ウィンカーを出しながら凛が言った。
「蒸留水。まじりけのない水のことね。ほどよい雑味が旨味をつくるんだって」
 国道沿いの街灯の明かりが凛のマスクをひゅっひゅっと撫でていくのを見つめながら、優は次の言葉を待った。
「ササノさんがさ、言ったんだよ」
 ──我々は、異物でなくてはいけません。
 ササノが完璧な顎の下で両手を組むと、それは美しい陸橋のようだった。入社したばかりの凛は、おずおずと顔色を伺おうと上目がちにササノを見つめたが、その圧倒的に造作の良い顔面からは、どんな表情も感情も読み取ることはできなかった。
「我々のミッションは『心地良い空気』ではなく『おいしい空気』を作ること。息苦しい社会を少しでも改善すること。同質の価値観の中にあることは確かに心地良いでしょうが、あなたの心地良さは誰かにとっての居心地の悪さであることを忘れてはいけません。そのために、我々はその場の異物、或いは風穴として存在し、空気に流れを作るのです」
 異形としての美しさもまた生きづらさだったに違いない。ササノの言葉を聞きながら、凛は心身を縛りつけていた焦りと後ろめたさがほどかれてゆくのを感じた——。
 ビルの駐車場に車を停め、パワースイッチを切ってから凛は言った。
「覚えてる? あたしが高梨さんたちに一番しつこくされてた時さ、みんな、一緒に笑うか、黙って目をそらすかだった。優はたしか、窓際の席でいつも本を読んでたよね」
 優は頷きながら、凛は高梨さんたちに常にしつこくされていたから、いつが一番だったのかはよくわからない、と思う。たいして本好きというわけでもなかったが、教室でただ「居る」ために何をすべきか優は心得ていた。
「高梨さんが、『この教室でマスクしてるの、お前だけだよ。恥ずかしくないの?』ってあたしの顔を指さしてさ。でも、その時だった」
 凛は優の方へ体を向ける。高架を渡る電車の音と、遠くで響くクラクション。
「目の端で、見えた。優が、ブレザーのポケットからそっとマスクを出してつけたの」
 優は首を振った。
「覚えてない」
 凛は目を伏せて笑い、
「うん、高梨さんも誰も、優には気づいていなかったよ。でも、確かに、したの」
 そう言うと、運転席のドアを勢いよく開けた。乾いた夜の空気が助手席に流れ込み、優は大きく息を吸う。過去も、今も、呪いや祈りや、運動や言語、他愛ないもののすべてを包んだ空気はすっきり冷たい。もっと寒い土地では、雑多な感情は埃とともにきらきらと輝きながら空気中を舞うだろう。小さくため息をつくと、吐く息がもう白かった。ぼんやりと明るい町の夜空を見上げ、凛が言った。
「あたしはそれを、ずっと覚えているんだよ」
 オフィスの扉を開ける前から、優はその向こうでササノの気配が動くのを感じていた。ベンジャミンの向こうから顔を出したササノは、
「おかえりなさい」
 とにこりともせずに言い、やはりにこりともせずに湯気の立つコーヒーのマグカップをふたつ差し出した。熱いコーヒーを啜りながら、表情は嘘をつく、と優は思う。行為は嘘をつかない、とも。天井から垂れ下がるチランジアに霧吹きで葉水をやるササノの背中を見つめながら、なおも思った。微笑みひとつ見せなくたって、行為で気持ちを示すことができるなら、それは言葉や表情で取り繕うよりずっといいのではないか、と。
 自治体主催のセミナーで、小学生の学習発表会のホールで、診療所の待合室で、優は白衣をまとい、パーティクルカウンターとスプレーを振り回し、あとはひたすら居ることに徹した。その空間にただ一人、ぽーんと部外者として放り込まれると、空気のざわめきのようなものがよくわかる。たえず二酸化炭素を吐き出すことしかできないヒトこそが、しかし空気を作っている。例えば場の空気が同質の者たちの呼吸によってかたちを保ちはじめた時、優が部屋の外でひとつ咳をすると、はっとしたように空気の流れが変わることがあった。そんな時、優は必ず、空気に同調していた人々のばつの悪さとともに、誰かの救われたような吐息を感じるのだった。男性役員ばかりの会合で、母親ばかりの集まりで、得体の知れないオフ会で、あらゆる場で、優は呼吸する静物のように存在を続けた。
 仕事を始めてからというもの、家で何ともいえない空気の悪さを感じるようになったことが優には不思議だった。例えば、外から帰ってきて閉めっぱなしだったリビングのドアを開けた時。例えば、律人が晩酌をしながら、
「よかったな、楽な仕事で。優にはこのくらいがちょうどいいよ」
 と冷たく微笑む時。夜干しする洗濯物をかじかむ手でほどく時。3LDKの部屋は週に二、三度優がモップで床を拭いていたし、ハウスダストアレルギーの律人が空気清浄機を常に稼働させていた。にもかかわらず、まずい水を飲むように胸が詰まる瞬間があり、試しにパーティクルカウンターの電源を入れてみても、特に数値に異常はない。朝から晩まで家に閉じこもっていた頃にはなかったはずの何かが部屋中に澱のようにひろがっており、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら優は、これまではなかったわけではなく気づかなかっただけなのではないかと、律人のネクタイにアイロンをあてるのだった。
 良いこともあった。これまで優が必要に応じて経費を律人に申請して初めて家計からその分の資金が支払われていたのが、優が自分のために使えるお金を報酬のうちいくぶんか手にすることができるようになった。誰かに必要かそうでないかを判断されない自由は素晴らしかった。優は凛に、いつか奢ってもらった借りを返したいと思っている。

 ある日優がオフィスへ戻ると、突としてササノが切り出した。
「話があります。座って」
 差し出されたコーヒーを受け取り、ポトスの葉をうっかり踏まないように気をつけながら、優は慌てて椅子に滑り込む。ササノの話はいつも前置きなしに要件から始まり、あっという間に終わってしまう。
「優、正社員になりませんか?」
 目を瞬く優をよそに、ササノは淡々と続けた。
「今後は現場での業務だけでなく、商品企画へも加わってもらいたい。勤務時間はコアタイムありのフレックス制。報酬から給与になるほか福利厚生が適応されます。詳細は正社員ポータルに格納してあるのでアクセス権を付与します。副業はご自由に。以上、考えておいて」
 優とコーヒーを残してさっさと席を立とうとするササノのジャケットの裾を、優は引っ張った。
「理由」
 ササノが長い首を傾げる。
「理由とは? あなたに、より企業の成長や事業の未来について考えていただきたい以上の理由がありますか?」
 だからなぜそう感じたかの理由が知りたいのだと、優は首を振った。自分は何もできない。段取りは悪いし、コミュニケーションも不得手だ。資料作りは下手くそだし、計算だってたまに間違える。
「能力のない私に働く資格なんて」
 そう言いかけた優の言葉を、ササノが遮る。
「誰かにそう言われましたか?」
 優の瞳を、ササノがぐっと覗き込む。優はまるでピンで留められたように、その大きく澄んだ瞳から目を逸らすことができない。
「誰かに言われて、言われ続けて、いつしか自分でも自分に期待することができなくなってしまった?」
 ササノは再び腰を下ろし、ひろい窓から再開発の進む街並みへ目をやった。バルコニーから吹き込んだ風が部屋を渡り、木々がざわめく。あれはドラセナ。優は思った。あれはスパティフィラム、オリヅルラン、コーヒーノキ、アグラオネマ——。
「効率的な働き方、生産性の高い働き方──すばらしいことだと思います。でも、そんなものはAIにやらせればよろしい。その方がずっと間違いがないもの。では、このAIが台頭していく時代の、我々ヒトの存在意義とは、何なんでしょう」
 問いかけたものの、ササノは窓の外を見つめたまま、すぐにこう続けた。
「ノイズになることではないでしょうか」
 アボカドの茶色くなった葉が床に落ち、
「誰もが正しい、間違いがないと声をそろえる環境で、あえて疑いを投げかける。意義を唱えてみる。たとえそれが結果的に間違っていたとしても、一度立ち止まるためのつまづきを作ってみる。それは、不完全なヒトにしかできない、ヒトだからこそできることなのだと思います。我々ソシオエアが求めるのは、生産性や効率に流されず、立ち止まることのできる人材です。そうそう、あなたを正社員に採用する理由でしたね。強いて言うなら──」
 ササノは小首を傾げ、それから呟いた。
「あなたは、『居る』ことが得意だから」
 顎の下で切り揃えた髪を耳にかけ、
「多くの人は、ただそこに居るということが出来ない。目的もなく時を過ごすことが不安で、何かのために動き、空気を読んで同調し、目に見える成果を上げようと焦る。しかし空気はすぐに大きな流れを作ろうとする。大半の人はそれに流され、なびかない者を疎ましく思い排除しようとするでしょう。それは、よい空気ではありません。我々は、あらゆるささやかな感情への共感と配慮に基づく事業を展開したいと考えています。あなたは、それにこたえてくださる方だと判断しました」
 それからふと口をつぐみ、長いまつ毛を伏せてすこし迷うようなそぶりを見せてから、こう付け足した。
「あなたの存在に感謝する匿名の小さな声が社に届いています。マイノリティだからと見過ごされ、あるいは大きな声に押し潰されてしまいそうな感情を想像し寄り添うことのできる方なのでしょう。期待しています」
 言い終わるとササノは今度こそ席を立ち、入れ替わるようにやってきた凛が、必要書類の入った封筒を差し出し、うつむく優の耳元で「おめでと」と囁いた。
「名刺作らないと。あ、これ私の。渡してなかったね」
 凛がぴっと放った名刺がデスクを滑り、優は角をつまんでそれを拾い上げた。
「何、その『生まれて初めて名刺を触った人』みたいな顔」
 凛は吹き出したが、本当に初めてだった。優が所在なさげにしていると、
「財布にでも入れとけば」
 歌うように凛は言い、
「あんまり嬉しそうじゃないね」
 と優の正面に腰掛けた。
「フルタイムが不安? それとも、面倒を見なきゃいけない小さい子でもいるの?」
 優は首を振った。
「じゃあ、大きい子?」
 優は黙り込んだ。働き始めてから、家のことについて律人からとやかく言われたことはまだない。しかしそれは、仕事で家を空けるからには当然、家事も何もかも完璧にこなすべきだという空気を優が感じて先回りしていたからだった。それが、これまで暮らした社会で優が刷り込まれたものなのか、時代が醸し出す気運なのか、はたまた律人の普段の言動からくるものかはわからなかった。律人は、優が報酬の大半を家計に入れている以上、文句をつけるべきではないという文化的教養を持ち合わせていたため不満を口にすることはなかったが、夕飯を電子レンジで温める優の背中を見て憚らずため息をついたし、その度に優は空気のざわめきを感じて胸が詰まった。
 黙ったままの優を横目に、
「まぁ、どんな家庭にも事情があるからね」
 と頷きながら、凛は言った。
「でも、その家族って、優の将来に責任を持ってくれる?」
 優は、顔を上げて凛を見つめた。驚いたような、泣き出しそうな瞳だった。
 事情。そう、誰にでも、事情がある。優は窓の外へ目をやる。スマートフォン片手に足早に通り過ぎる男性の頭上に降り注ぐ事情。ぬいぐるみがいくつもぶら下がったリュックサックを抱えてうつむく女性の丸まった背中に降り注ぐ事情。歩道に打ち捨てられたポケットティッシュに、置き去りにされた観葉植物の葉に、律人のほどいたネクタイに、ササノのまつ毛の先に、優の汚れた袖に降る、事情。それぞれの。
「もう、マスクしてない人ばっかりだよね」
 頬杖をつきおなじように窓の外を眺めながら、ぽつりと凛が言った。優は頷く。
「あたし、小さい頃からずっとマスクが手放せなくてさ。誰かに見られているってことが、どうしようもなく怖くて」
 凛が呟き、でもその目は優の肩越しに窓の外をとらえていた。
「すべてに自信が持てなくて、そんな自分が晒されることに耐えられなかった。だから、マスクの向こう側にいると安心できた。丸ごと守られてるって思えたんだ。ただ、花粉症の時期でもないのにあたしだけマスクをつけっぱなしなんて絶対おかしいって気持ちはずっとあったけどね」
 凛はそこで言葉を切り、手のひらをぱん、と打った。
「うーんごめん、しんみりしちゃうや。この話やめよう」それから声をひそめて言った。
「そういえば知ってる? ササノさんの出身地」
 優が首を振ると、凛は雪深い地域にある地方都市の名を口にした。
「水も空気も綺麗な土地でさ。あまりに空気が綺麗だからって、わざわざそこの空気を詰めた瓶を買う人なんかもいて。空気だよ?」
 凛が吹き出し、つられて優も笑みを漏らす。
「でも、その空気が合わなかったんだって。それで、こんな都会でおいしい空気をつくる会社を始めるなんて、なんか皮肉だよね」
 新型感染症の流行初期、まだ感染者の少なかった地域では、首都圏からの移動や人の流入を快く思わない住人もいた。たしか、県外ナンバーの車を排除する動きもあったはず。フロントガラスのワイパーに挟まれた紙にでかでかと書かれた激しい言葉を、優は思い出す。それから目を閉じ、葉ずれの音とさざめく空気に耳を澄ました。
 それから凛は、ソシオエアの正社員メンバーについて話してくれた。研究開発チーム、セールス、カスタマーサクセス、マーケティングPR……慣れない横文字に優が詰まると、その都度、凛は丁寧に解説してくれた。メンバーは30名前後なので、それぞれの人となりについてもざっくりと話してくれる。
「開発チームのラムダさんはね」
「ラムダ?」
「あぁ、もちろん本名じゃないよ。ラムダさんの本名って、ササノさんくらいしか知らないんじゃないかな。あとオンライン会議も基本アバターで参加してるから、誰も実際に見たことはないと思う」
「それでいいの?」
「いいも悪いも、ラムダさんは超優秀なエンジニアだよ」
 けろっとした顔で凛は答え、続ける。
「インサイドセールスの石垣さんは、奄美大島に住んでるから、全社キックオフの時くらいしか出社しないかな。『奄美大島在住ですが、石垣です』って必ず言って、でもスベるんだよね」
「いいの?」
「何が? 石垣さんの架電マニュアル、今度見せてもらうといいよ。すごいから」
 優は、混乱してくる。仕事って、必ず会社へ行って自分の席についていなければできないものだと思っていた。だって律人はいつも、優のために長い時間通勤電車に揺られているのだとことあるごとに口にしたし、それに……。
 頭を抱える優に、穏やかな口調で凛は言った。
「仕事の形って、色々だよ。働くってさ、自分の時間を誰かのために少し使って、自分もみんなも良くしていくことじゃん? だから、得意なことやできることで、存分に力を発揮できるなら、それでいいんだよ」
 凛のあたたかな手が優の肩へおろされ、その瞬間、優の凝り固まった身体から、何かがぽろりと落ちた感覚があった。
 その夜、帰宅した律人が何の気なしに、
「あれ、まだ風呂沸かしてないの?」
 と外したネクタイをソファに放ると、反射的に言葉が優の口を突いて出た。
「拾わない」
 言ってしまってから、慌てて口を覆う。優が思っていたより大きな声が出た。自分の意思を、特に相手を否定する言葉を口にしたことがなかったので、うまく調整ができなかった。律人は一瞬きょとんとした表情で優を見つめ、ソファの背に引っかかったシャツを見つめ、それからむっとした顔つきで言った。
「拾ってくれなんて頼んだこと一度もないけど」
 律人は腰をかがめて脱いだシャツを拾う。ぴん、と空気が張り詰め、でも新鮮な空気だ、と優は鋭く息を吸った。
「優は最近、感謝が足りないよね。まぁ、ここで稼ぎの差を持ち出すほど俺は幼稚じゃないけどさ。誰のために、苦労して毎日通勤してると思ってんの?」
 律人は優から顔を背け、ため息とともにシャツを洗濯カゴへ突っ込む。つい「ごめん」という言葉が口から飛び出しそうになったが、優はそれを飲み込んだ。
 律人はあえて、わたしに罪悪感を植え付ける言葉を選んでいる。息を整えながら優は考えた。感謝と謝罪は違う。こめかみが脈打ち、吐く息が震えた。「ひっ」と空気を漏らし、優は懸命に言葉を絞り出す。
「拾わないから」
 さっきよりもさらに大きな優の声はしかし、シャワーの水音にかき消されてしまう。優は洗面所へ駆け込み、じゃぶじゃぶと顔を洗った。鏡にうつる濡れた頰が真っ赤で、瞳も潤んでいる。こんな時マスクがあるから、凛は安心して物が言えるのかもしれない、と思う。自分があまりにも無防備に思えた。そして気づいた。この家を満たしていた澱んだ空気。それは、地層のように積もり積もって沈殿した、しずかな怒りだったのだと。向けるべき場所へ向けられることなく放り出されたままの怒りは、気づかれず空気を蝕み、呼吸を奪う。優は大きく息を吸った。よい空気。
 わたしは、もっと大きな声が出せる。

 慣れないことをしたせいか泥のように眠ってしまい、目が覚めたのは昼前だった。窓の外から子どもたちのはしゃぐ声がする。優は念のため仕事のメールをチェックしたが、緊急出動案件もなし。予定通りの一日オフだ。凛は今日、仙台の空調システムメーカーとの商談のため朝から出張だという。自分も正社員になったら、一人で遠い場所へ出かけてゆくことが増えるのだろうか。優は思い、それから、これまでなぜ一人で遠くへ行ってみようと思わなかった、いや、思えなかったのだろうかと、茫洋とした気持ちでパソコンを閉じた。
 スマートフォンを見ると、律人からの「今夜話があります」というLINEが一通届いており、途端に寝室の空気がむっと重苦しくなるのを優は感じる。慌てて窓を開け、あてもなく出掛ける準備をした。今夜話したいことなど、優にはなかった。
 両親がわたしの様子を見たら、きっと怒るだろう。誰もが認める理解ある夫に反発し、話し合いもせず逃げ出そうとしているのだから。でも、とバスに揺られながら優は思う。果たして「話し合い」になんてなるだろうか。「話がある」という通り、律人は話し、優はそれをひたすら聞くことになる。意見する余地などないだろうし、そもそも優が口を挟むことなど想定もしていないだろう。あの重苦しい空気が戻ってきたように感じて、優はリュックサックの肩紐を握りしめた。冬晴れの空は雲ひとつないのに。とにかく空気のおいしいところへ行きたい。だってわたしは、自分の意志で、自分の力で、どんなに遠くへだって行けるのだから。
 とは言っても、優には縁のある土地もなければ離れた場所に住む友人もおらず、かといって街に出て欲しい物もなく、改札機の前で途方に暮れてしまう。大きなリュックを背負った小学生の列がぞろぞろと優の横を通り過ぎ、その中から弾む声があがった。
「俺、新幹線って乗るの初めてなんだ!」
 優は思わずその声に続いた。行き先を思いついた。
 東京まで出たら、鮮やかな色のラインが入った新幹線に乗り換える。優にとってはひとりきりでの初めての遠出で、景色を楽しむ余裕などなく、新幹線が停車するたび乗り換えアプリで行き先を確かめた。道中、ふとSNSの通知がたまっているのに気づき見てみると、高梨さんの投稿が「人気の投稿」として表示されていた。高梨さんの横顔に淡いグラデーションのロゴがかかる画像には、
「皆さまが集う場作りのためにはじめたカフェ『Re:Union』でしたが、新型感染症の影響でやむなく閉店となりました。だけど私、夢は諦めていません! この数ヶ月、皆さんの心地良い居場所づくりのために準備してきたオンラインサロンを、いよいよ本日オープンしました! ご参加方法は……」
 と文章が続いていた。高梨さんはモデルみたいに綺麗だと思っていたけど、ササノさんと比べると大して特徴のない顔だな、と優は画面をスクロールする。すると、カフェが開店した時の過去の投稿が現れ、「全員集合!」というタイトルの下には「念願のカフェをオープンしました! オープニングセレモニーでは、高校時代のクラスメートを招待。みんな集まってお祝いしてくれました。『Re:Union』が、皆さんにとって最高の居場所となりますように」とある。白いシャツにパリッとしたエプロンが眩しい高梨さんを取り囲んでいるのは、なるほど優も見覚えのある面々だった。「みんな」や「皆さん」のなかに、優や凛は当然のことながら含まれていないのだろう。これまでだったら、そういうものかと受け流してしまうようなことだったが、優は体のどこかに違和感をおぼえた。それが怒りであると自覚するのに、少しだけ時間がかかった。「気にすることない。そんな『みんな』の中になんて入らなくていいよ」そう凛は言うだろうが、気にしないことと怒りを忘れることは違う。昨日のように、思わず口から言葉が飛び出してしまいそうになり、優は口元を引き結びスマートフォンをしまった。車内アナウンスが降車駅を告げる。
 もうすぐ、ササノの生まれ育ったという土地に着く。
 優は車窓に映る曇天を睨んだ。
 家を出た時はまぶしいくらいの日差しだったのに、薄い雪に覆われた駅前広場はもう西陽に濡れていた。きりきりと刺すような風が吹き抜け、優はコートの前をしっかりととめる。深呼吸すると、吐く息が白かった。目の前には車通りの多い国道もあるというのに、洗われたような透明感のある空気に驚く。ササノには合わなかったというが、どこか引き締まった、からだに染みわたるような清潔な空気だ。とうとう遠くへ来たのだという心細さと達成感が、冷たい空気とともにじんわりと優の胸に広がった。
 明確な目的地があるわけでもないので、優は人に流され国道に沿って歩いた。車内で買ったサンドイッチは喉を通らなかったので、コンビニでもないかとあたりを見回したが、チェーンの居酒屋やラーメン店の看板が目立つ。積雪を避けて歩いていくうち、駅からずいぶん離れてしまったようだ。行けども行けども雪をかぶった街路樹と家々があるばかりで、優は焦りはじめた。日は落ち、藍色の空の彼方の山の端に薄明るい星が弱々しく瞬いていた。通りの向かいに暖かな光と影のようにはためく暖簾が見えたが、個人経営の飲食店に足を踏み入れることを考えただけで体がこわばってしまう。
 優が引き返そうとした途端、引き戸の開く音とともに「いらっしゃいませぇ」の明るい声が響いた。立ちすくむ優に、
「おひとりさま?」
 と声を掛けたのは、優の母親とおなじ年頃の女性だった。ここで断る苦労よりはと暖簾をくぐってしまった優はしかし、すぐに後悔した。
 暖色の灯りに照らされたカウンターだけの店内は、地元の寄合所さながらの雰囲気で、首元のゆったりとした服を着た白髪混じりの男たちがすでに赤い顔で酒を酌み交わしていた。「おや、若ぇ子だ」とそのうちの誰かが言い、店の女性が何やら茶化すようなことを返し、いっせいに笑い声が起きる。居ても立ってもいられなくなった優は、道を尋ねようと思っただけだと言おうとするが、「道」から言葉が続かない。挙句、女性に大声で「はぁ?」と返される始末。こうなるとあとはもう何も言えなくなってしまい、優は仕方なくカウンターの一番手前に腰を下ろした。早口で地酒の説明をされているようだが、女性が品書きを指差す側から客たちがこれもいい、あれも美味いぞ、と矢継ぎ早に言葉を浴びせてくるので、まるで頭に入ってこなかった。優がとにかくうんうんと頷いていると、ニット帽をかぶった男性が優の方へ身を乗り出して言った。
「ここは地元の奴らの居場所みてぇな店だから遠慮すんな。こいつは美人でねぇけど気さくなやつだからよ」
「あら、源さんったら失礼だよ!」
 すぐに女性の冗談めいた高い声が飛び、店内はふたたび笑い声に包まれる。ニット帽の男性の「居場所」という言葉が、棘のように優の胸に引っ掛かった。きっとあなたの「居場所」に、わたしのための場所はない、と思う。外は息をするだけで鼻の奥が凍てつくような寒さだったのに、店の空気は暖かく穏やかだった。優がやっとのことで、
「烏龍茶」
 ください、と呟くと、店の空気はため息をつくように一気にしらけ、先客たちは優をよそに女性との会話に勤しんだ。優はやれやれとコップに口をつけるが、気詰まりなことに変わりはない。
 ふとリュックサックの中を探り、パーティクルカウンターの電源を入れてみる。PM2.5濃度が際立って低いところを見ると、本当に空気の綺麗な場所なのだろう。感心していると、
「あ、それ、パーティクルカウンター!」
 突然の高い声に、優は機器を取り落としそうになった。それから女性は客たちに手招きし、
「ねぇほらあの子、東京で会社はじめたって見せてもらったことあったよね? なんだっけ、ベンチャー企業よ。ほら、笹野さんとこの息子さん! 都会の子はみんなこういうの持ってるのかね?」
 「ササノサン」の響きに優は女性を見つめたが、女性は優を見ていなかった。
「笹野んとこの息子ってどだな奴だっけ」
「お前ぇほら、あいつだよ。顔が整いすぎてて気味悪ぃ坊主だよ」
 あぁわかった、そりゃわかるよな、と声があがり、やがてそれは「いい酒の肴を見つけた」とでもいうような笑い声へと変わり、優は空気がひりひりとおなじ色に染まってゆくのを感じた。ササノの声や仕草をまぶたの裏に浮かべてみる。にこりともせず差し出すコーヒーのあたたかさや、淡々と放たれた「期待しています」の一言や、伏せたまつ毛の長さ、美しい建造物のように組まれた腕。優の中に込み上げてくるものがあって涙がにじみ、それが何かを理解するまでには、やっぱり少しだけ時間がかかった。
「あのなりじゃあ、ここで就職は難しいよなぁ」
「ほんとになぁ。親は気の毒にな」
「ダイバーシティとかLGなんとかっていうやつだもんねぇ。いま流行ってるんだっけか?」
 女性が優へ水を向ける。皆の視線が、優に集まる。
 愛想笑いで聞き流すことは簡単だった。これまでだってそうしてきた。優は口元を緩めかけ、これでいいのか、と思う。馬鹿なふりをしているくらいがちょうど良い。何も感じないふりをしてやり過ごす方が。そうすれば相手も周りも、機嫌良くいられる。でも、と優は口を引き結んだ。ふりをしているうちに、本当に何も感じない愚かな人間になってしまうのではないだろうか。両親が人前で「この子はまったく本当に」という枕詞をつけて優について話す時、律人が持論を滔々と語る時、高梨さんが凛を槍玉にあげた時だって、その場でうっすらと笑ってすませたことがあった。何度もあった。膝の上で結んだ手が震え、優の瞳に、ちか、とちいさな火が灯った。呟いた一言はしかし笑い声にかき消されてしまい、優はたまらず立ち上がった。客たちが喋るのをやめ、怪訝な顔で優を見上げる。
「笑うな」
 またもや思ったよりも大きな声になり、でもその声は震えていて、優はひゅっと鋭く息を吸った。店はしずまり返り、ぼこぼこと鍋の沸く音だけがくぐもって響いていた。
「人が必死に闘って勝ち得たものを、笑うな」
 その途端、店のブレーカーがばちん、と落ちた。
 次の瞬間、無理やり夢から引き戻されたようにあたりは明るく、騒がしくなっていた。優は瞬きをして体を起こそうとして、いま自分が畳に寝転んでいることに気づく。停電と思ったのは勘違いで、実際は瞬間的に優の神経回路がショートして気を失っていたのだった。店の奥の座敷に座布団を重ねて寝かされた優を心配そうに覗き込む女性が手にしたガーゼは赤く染まっている。誰か怪我をしたんだ、と優は思った。
「いま源さんが、救急車呼んでるからね」
 と女性が言った瞬間、優のこめかみに鋭い痛みが走り、ガーゼの血は自分のものだとわかり、情けないような申し訳ないような、気恥ずかしさでいっぱいになった。
「救急車」
「え?」
「いらない、いりません」
「気分悪くないかい?」
 優が頷くと、こめかみがじんじんと痺れた。
 「源さーん、いらんって」女性がスマートフォンを耳にあてるニット帽の男性へ呼びかけると、源さんと呼ばれた男性は、
「身内に連絡してんだわ」
 と片手に握った紙切れをひらひらと振った。カウンターの上には、優のスマートフォンと折り畳み財布が置かれている。
「源さん、人の財布勝手に開けたらだめだろ」
「だけど、電話はロックかかってるみてぇだし、怪我人を叩き起こすわけにもいかねぇだろ?」
 それを聞いて、優は男性が持っているのは凛の名刺だと気づく。慌てて受け取った電話を耳にあてると、ざわざわとした屋外の気配とともに、凛がまくしたてる声がした。「一体何がどうなってるのかよくわからないけど、すぐ向かうから」
 と優の返事を待たずに通話は切れてしまった。切れたこめかみが、じんと痛かった。
 あまり動かない方がいいと言われ、凛が来るまで、優は店で待つことにした。出張先からここまでは、在来線で一時間足らずの距離だそうだ。その間、まるで優に言われたことなどなかったように、客たちはにこやかに土地の名所や家族の話をし、気をつけて帰れやら、東京で頑張れやら、とにかくいつでもおいでと、口々に優のことを励ましたのだった。

 「いったい、何があったの?」
 と凛が尋ね、優は列車の窓の外へ目を逸らす。
「あんなところにいたなんてびっくりしたよ。一日オフだって聞いてたからさ」
 店で「大声を出して」倒れて、というところを、凛は知らないのか、黙っているだけなのかどっちだろう、と優は思う。それから膝の上で両手を握り、「忘れ物」と呟いた。
「誰の?」
「わたしの」
「どういうこと?」
 怪訝な顔で尋ねる凛に、しばらく考えてから、優は言った。
「感情」
 「感情かぁ」と凛は笑ったが、優は笑わなかった。違和感をおぼえた時には立ち止まること、理不尽な悪意に触れた時にはきちんと怒ること、足りないところだらけの自分を慈しむこと。忘れかけていた感覚が優のなかに騒がしく蘇り、今、あるべきところへ収まりつつあるような気がしていた。凛が来るまで親切に振る舞ってくれた店の女性や客たちのことを思うと余計なことを口に出してしまったようでわずかな後悔もあったが、誰にだっていいところはあるのだ、と優は思い直す。もちろんきっと律人にだって、もしかすると高梨さんにだって。互いのいいところだけで付き合っていくことが出来たらどんなに良いか。でも、できない。だからぶつかり合い、新たな空気を作り出し、そのなかに身を置いてみる。
 瞳を閉じると、オフィスの扉と、その向こうに茂るベンジャミンと、エアプランツに霧吹きをかけるササノの薄い背中、カウンターの向こうから手をふる凛の姿がまぶたの裏にひるがえる。
 うん、闘っていけそう。
 優は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。ぬるい呼気は、過去も、今も、呪いや祈りや、運動や言語、他愛ないもののすべてを包む空気に溶けてゆく。
 ペットボトルのお茶をがぶりと飲み、「まぁ、あれだよ」と凛が言った。
「社会がどんどん変わっていってさ、これからたくさん、ままならないことが起きると思う。だけど、悪いことばかりでもないんじゃないかな、きっと」
 優が頷くとこめかみの上がずきんと痛み、顔をしかめるともっと痛んだ。列車が轟音とともにトンネルへ入る。
「この前の話の続きなんだけどさ」
 凛が呟き、でもその目は優の肩越しの車窓をとらえていた。トンネルの明かりが凛のマスクをひゅっひゅっと撫でていくのを見つめながら、優は次の言葉を待った。
「あたしだけマスクをつけっぱなしなんて絶対おかしいって気持ちがずっとあって、外さなきゃって焦りが募るばかりで、でも焦れば焦るほど怖くなって。それが、パンデミックでマスクが当たり前の日常になってから、ある日、『あ、外せる』って思ったんだよね。当たり前のように家族や友達がいて、毎日働けて、お酒飲みながら夢とか語れて、『こういう人だけが勝ち』とか『普通』みたいな価値観が立ち行かなくなってさ。ふと風向きが変わった感じ。それから、こう思えるようになったんだよ。あたしみたいのがいたっていいじゃんって。みじめな自分もちゃんと愛そうって」
 列車がトンネルを抜け、凛が眩しそうに目を細めた。停車のアナウンスが車内に流れ、列車は徐々に速度を落としてゆく。
「でも、結局まだずるずるとしてるんだけどね。なんだかんだで、楽だし。うーんごめん! ややこしいや。この話やめよう」
 凛は手のひらをぱん、と打って言った。
「ねぇ、駅に着いたらご飯食べていかない?」
「奢る」
 優の毅然とした口調に、凛ははっとして優を見つめる。泣き出しそうな、でも新たな感情とわずかな自信に満ち溢れた瞳と目が合った。
「いいよ、あたしが誘ったんだし」
 という凛の言葉を遮り、
「だって、払えるの。払えるから」
 優が畳み掛けると、
「何でちょっとうれしそうなわけ」
 凛が吹き出した。
 軋みをあげて列車が停まる。プラットフォームに雪の気配がする。解き放たれた雑多な感情は、埃とともにいつかきらきらと輝きながら空気中を舞うだろう。
「ありがとう」
 優は、凛に向かって呟いた。開いたドアから舞い込む風は新鮮な塵と雪の香りがして、季節にはにおいがあったことを優は思い出す。



「株式会社ソシオエアへようこそ! 経営企画部の小林 優と申します。本日ご紹介する弊社の新サービスは、ストレスの数値化と緩和をサポートする『ブレスモア』です。こちらのポータブル端末には、緊張によるストレスによりヒトの皮膚から発生する物質を解析できる技術を搭載しており、『空間内の誰が・どの程度のストレスを感じているか』をAIが瞬時に分析します。測定結果はアプリケーション上のグラフィック表示で即座にフィードバックされるほか、ストレス緩和に効果的なソリューションが提案される画期的なサービスです。事前のオンラインカウンセリングと併せてご利用いただくことで、あなたにぴったりのストレスケアメニューのご提供も可能。学校や職場、そしてご家庭で、気づかないうちに心身に蓄積されたストレスを見える化します。誰もがより快適に生活できる空間を、ソシオエアと一緒にデザインしてみませんか?」
(了)

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