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【短編】ママは僕のファンじゃない

 とても寒いところにいる。大人もたくさんいる。すごくうるさい。僕はママと手をつないで待っている。ママは悲鳴をあげる女の人たちをかきわけかきわけ、列の一番前へ割り込む。そこにはおなじような親子がたくさんいて、僕らもそこへ加わる。

 ステージが明るくなり、真横のスピーカーから爆発するような大きな音が出て、僕はかじかむ手で左耳をふさいだ。ママの叫び声に、右耳もふさぐ。音がうわんうわんと響きわたるなか振り返ると、広場いっぱいの、頭、頭、頭……。僕は、テレビで見た遠い国のデモ集会を思い出した。
 ステージへ目を戻すと、ひとりの男の人が、こちらへ手を振っている。ダイキだ。ママはこの人の、「ファン」と呼ばれているらしい。
 握手会は、まずは車椅子の人からはじまる。次に、親子連れ。それからは整理番号順だ。ママに手を引かれ、背中に痛いほど視線を感じながら、僕はステージへ上がった。ダイキは僕の目の高さまでかがんで、笑顔で頭を撫でてくれる。まだ手を出してはいけない。喋ってはいけない。僕のかわりにママがしきりにダイキへ話しかける。係の人がしびれを切らし、「握手お願いします!」と乱暴に叫ぶと、ようやくママは、今思い出した、というように僕をダイキと握手させる。女の人のように白い手だ。僕はなかなか手を離してはいけない。ママはとっくにステージから押し出されているが、係の人は、僕のことを押したりはしない。子どもだから。
 やがて、係の人がそっと僕の背中を促し、僕はママに手を引かれステージのステップを下りる。もちろん、これで終わりではないことを知っている。ママは僕を引っ張って足早に販売テントへ走り、お札を取り出す。ダイキのCDの包みをもどかしそうに破り、握手券を取り出すと、ふたたび列の最後尾に並んだ。
 それを二、三回繰り返すと僕が疲れてしまうので、ママがCD販売テントまで連れていってくれる。僕は係の人からのど飴をもらい、ストーブの前のパイプ椅子に腰掛け、ステージへ駆け上がるママやほかの人を眺める。スタッフパスをぶら下げた金髪にマスクのお姉さんがちらりと僕を見、
 「託児所じゃないっつの」
 とぼやくのがきこえた。真冬だというのに、肩や背中を思いっきり出した服を着ている人や、へんてこな耳をつけている人、ぬいぐるみを抱えている人、ママのように名札をつけている人。ダイキと握手をしながら何を話しているのかわからないけれど、みんな同じように飛び跳ね、係の人に次々と押し出され、高いヒールを履いている人などはたまにステップでよろめいていた。
 ママはその点心得ており、係の人に押し出されそうになると、すっと腰を落とし足を踏ん張る。販売テントの売り子さんがそれを見て、
 「あの、いつもの子連れおばさん」
 とつぶやき、別の売り子さんが僕を指差し、しいっと人差し指を立てた。ステージでは、係の人がママの腰を持ち上げようと必死で、まるでおすもうみたいだ、と僕は思う。
 行列のなかに、あなんちゃんを見つけた。黒ぶち眼鏡に、編みこんだ髪がひと房だけピンク色で、どでかいテディベアのついたリュックサックをしょっている。あなんちゃんは関西に住んでいる専門学校生だときいている。あなんちゃんとは、ダイキのイベントで知り合った。限定版のCDについていたダイキのトレカがだぶってしまい交換相手を探していたあなんちゃんに、ちょうど同じようにトレカの交換相手を探していたママが声をかけた。それからよく、ダイキのイベント前、僕とママとあなんちゃんは、カフェでお茶をするようになった。ダイキのどのイベントにもあなんちゃんはいる。ダイキととても仲良さそうにハイタッチをしていたので、僕は一度尋ねてみた。
 「あなんちゃんは、ダイキの彼女なの?」
 すると、あなんちゃんはぎゃーっと叫び、
 「いやいやいや、ありえないから! ただの一ファンですし!」
 と首を振った。そんなあなんちゃんは、ダイキのCD一枚から、ものすごく値段の高いDVD‐BOXまで、握手券やグッズがついているとなると、迷わず買う。関西でも九州でも、きっとアメリカでも、ダイキのイベントがあれば遠征する。
 「あなんちゃんちは、ご両親がお金持ちだからね」
 とママが教えてくれた。うちはお金持ちじゃないから、ママは特売のトレーナーを何日も着て、化粧品もアクセサリーも我慢して、ダイキのCDを買っている。
 空がだんだん暗くなり、だんだん人がいなくなる。でも、ママやあなんちゃんを含めた数人が、ぐるぐるとステージと販売テントを行き来していた。たまにあなんちゃんが息せき切って駆け込んできては、金髪マスクのお姉さんに、
 「握手の時間、あたしだけめっちゃ短かったんですけど! 押されたし!」
 とか、
 「さっき、ハグお願いしてる人がいたんですけど! そういうの、きちんと禁止した方がいいんじゃないですか!」
 とか訴えていた。
 だいぶ冷えてきたので、僕はマフラーをきつく締め直す。ブラウス一枚のダイキの笑顔は変わらない。金髪マスクのお姉さんが、ぶすっと
 「あったかいお茶いる?」
 と尋ねるので、僕はうなずく。
 最後の一人となったママは、ステージでダイキと「握手券三回分」の長い握手を許されていた。販売テントはたたまれ、広場のポールも片付けられ、係の人たちはくたびれた顔で、ママの握手が終わるのを待っていた。
 帰りの電車で、僕は尋ねる。
 「ママは、ダイキと結婚したいの?」
 するとママは目を丸くして、
 「まさか! だって、ただのファンだもの」
 とおかしそうに笑った。「ファン」とは、見返りを求めず、お金や時間をばんばん使う人のことらしい。空っぽだったママのエコバックは、ダイキのCDでぱんぱんに膨らんでいた。
 ママがダイキのファンになるまで、ママは僕のファンだった。平日働きづめでくたびれていても、お休みの日には動物園や映画へ連れて行ってくれたし、夏休みには旅行もした。あの頃ママは普段からなかなかおしゃれな格好をしていた。
 いつからだろう、ママが夜遅くまでずっとパソコンの前にいるようになり、服にかまわなくなったのは。夏休みのヒーローショーへ行きたいと言ったのは、僕だった。その頃日曜日の朝にやっていた戦隊テレビ番組の主人公が大好きで、遊園地にできた特設ステージで、僕ははじめて変身前のヒーロー、ダイキと握手をした。ダイキは、テレビで観るよりもずっとかっこ良くて大きくて、生で見せてくれた変身ポーズを、その夜パジャマに着替えてからも、僕は繰り返しママに披露してみせた。
 それから、ママは日曜日でも早起きして、僕と一緒にダイキのテレビを観るようになった。すこし遠くても、ヒーローショーへ連れて行ってくれるようになった。テレビシリーズが終わって、僕はダイキよりもほかのヒーローを好きになったのだけど、ママは僕を連れ、ダイキのイベントへ足を運び続けた。あの戦隊テレビ番組のヒットのおかげか、ダイキを見ない日はなかった。バラエティやドラマ、その間のCMに、街の看板、チラシ広告。どこかに必ずダイキの姿があった。ママが精一杯のおしゃれをして、ばっちりお化粧をすると、僕のお姉さんと間違えられるほど若くなる。そんなママを、僕はあまり好きじゃない。

 一泊二日の大阪旅行が決まったのは、春休みに入るすこし前のことだった。旅行は、すごく久しぶりだ。僕とママはガイドマップを買ってきて、お好み焼きやたこ焼きのおいしいお店、日本一長い商店街なんかをチェックした。ところが、ママには初日にどうしても行きたいところがあると言う。ママが指差すマップのそこには、有名なお店も、お城も、商店街も、なんにもなかったけれど。
 いよいよ春休み、明日から旅行という日、終業式が終わって家に帰ると、珍しくお昼なのにママがいた。クッキーの焼けるいい匂いが家じゅうに満ちている。パパがいた頃、ママはよくお菓子を作ってくれた。日中仕事をするようになってからは滅多になくなったけれど。テーブルの上でまだ湯気のたっているココアクッキーを、「つまんでいいよ」とママが顎で示す。僕はランドセルを放り出し、クッキーに飛びつく。なぜママが突然クッキーを焼いたのか不思議だったけれど、ほろ苦いココアと香ばしくて懐かしい味が口一杯に広がると、そんなことどうでもよくなってしまった。手を洗うのももどかしく、僕は次々とクッキーへ手を伸ばす。やっぱり、お店で買うより、ママ手作りのクッキーの方が、ずっとずっとおいしい。幸せな気持ちでクッキーをぱくついていると、壁に貼られたダイキのサイン入りポスターと目が合った。よくよく見ると、ダイキの鼻筋はまっすぐすぎて、ロボットみたいだ、と僕は思った。それから、目が冷たい。
 その晩、ママは夜遅くまでテーブルに向かい、一生懸命何かを書いていた。手紙のようだった。ママが手紙を書くなんて、はじめてだ。もしかすると、パパ宛かもしれない。僕はどきどきした。実は、パパはいま大阪にいて、もう一度みんなで暮らすために、僕とママはパパに会いに行くんじゃないだろうか。パソコンの画面が、青白くママの横顔を照らしていた。
  翌日は、きれいに晴れた。早起きした僕とママは東京駅で駅弁を買い、新幹線の中で食べた。おじいちゃんとおばあちゃんが名古屋にいるのでよく新幹線を使 う。でも、大阪まで乗るのは初めてだ。ママは新しい春物のワンピースを着ていて、美容院へ行ったばかりの髪はつやつやで、この車両の中でいちばん美人だ。 やっぱり、パパに会いに行くのかもしれない。僕は急に緊張してきて、眠いはずなのに目が冴えてしまう。ママはあくびをしながら、ずっとスマホをいじってい た。
 新大阪に到着すると、ママが改札の向こうへ大きく手を振った。僕はどきどきしながら目を凝らす。改札の向こうから、やっぱり誰かがこちらへ手を振っている。
 あなんちゃんだった。嫌な予感がした。ママはかまわず僕の手を引き、改札を抜ける。
 「来ちゃったんだー」
 「ついに来ちゃったー」
 あなんちゃんとママはきゃあきゃあと手を取り合って跳ねた。
 「帰りの足は?」
 「うん、遅くなると思って、ホテルとっちゃった。翌日は息子と大阪観光」
 「えぇ、言ってくれれば、一緒のとこ予約したのにぃ。あたし昨日の夕方から、前乗りしてたんだもん」
 「あなんちゃん、前泊したのー、やーだぁ」
  僕はすでに気づいていた。ママは、僕と旅行をしたかったんじゃない。大阪で開かれるダイキのイベントに、僕を連れて行きたいだけだったんだ。パパに会える かもなんてすこしでも思ったじぶんがばかばかしくて、悔しかった。ママの心の中には、パパはもちろん、僕のことも、すこしもないんじゃないか。その時、僕はどんな顔をしていたのかわからない。しかしママは、
 「もう、そんな顔しないで。内緒にしてたのは、ただのサプライズよ」
 と言って、僕のほっぺたをつねった。ダイキのイベントで最近僕が楽しくなさそうなのを感じていたからかもしれない。明日のお好み焼きも、大阪城も、いっぺんに楽しみでなくなってしまった。
  大阪のイベント広場も、あいかわらず人でいっぱいだった。ママは僕の手を引いて人をかきわけ、いつもの最前列に陣取る。見たことのある顔ぶれがちらほらと あり、僕は目を伏せた。ステージにダイキが登場する。ダイキはもう、僕のヒーローじゃない。ロボットみたいな鼻をした、力のなさそうな白い手の、冷たい目をしたただのお兄さんだ。握手会が始まり、僕は足を引きずるようにステージへ上がった。ダイキが腰をかがめ、
 「また来てくれてありがとう、リュウくん」
 とにっこりする。
 「ちがうちがう、リョウだってば。ダイキ、何度言ったら覚えられるのー」
 ママが高い声で体をくねくねさせて言う。春物のワンピースは裾が短すぎてちっとも似合わないし、くっきり巻かれた髪の毛もわざとらしい。ママはこの広場で、いちばんブサイクだ、と僕は思った。いや、世界一だ。世界一ブサイクで、ずるくて、下品だ。
 「きらいです」
 ダイキの白い手に目を落とし、僕はつぶやいた。え、とママが耳を寄せたけど、かまうもんか。 ダイキの白い手に目を落とし、僕はつぶやいた。え、とママが耳を寄せたが、ダイキは笑顔を崩さないまま、僕だけに囁くように、
 「おれもだよ」
 と言った。ぞっとするほど冷たい目だった。僕ははっとして、一歩下がる。ママを見上げたが、何照れてんのー、と頭をくしゃくしゃにされた。ちがう。
 「だいっきらいです!」
 思いっきり叫び、ステップを駆け下りた。どうなったって知るもんか。わかってる。僕がきらいなのは、ダイキじゃない。でも、ママのことだって本当はきらいじゃないんだ。じゃあ、僕は、誰のことがこんなに憎いんだろう。行列に割り込み、誰かれかまわず突き飛ばし、突き飛ばされながら、販売テントに駆け込 んだ。この前もいた金髪にマスクの係のお姉さんが、僕に気づいた。
 「あれ、リョウくん」
 急に呼ばれて、驚いた。
 「なんで、僕の名まえ、知ってるんですか」
 息を切らして尋ねると、お姉さんはCDを並べているおばさんと顔を見合わせ、答えた。
 「リョウくんママのブログ、有名だもん」
 お姉さんがスマホで見せてくれたのは、ママが書いているというブログだった。『リョウくんママの、ダイキらぶろぐ』ピンク色の花でいろどられたタイトルのバックには、去年ママと撮ったプリクラや、ダイキの写真が並んでいる。僕は、いちばん新しい記事を読んだ。

 3月9日 「はじめての遠征!」
  おはようございます、実は、もう新幹線の中。ふふふ。今から大阪へ向かいまーす! もちろん、リョウもいっしょ。昨日は久しぶりにクッキーを焼いたので、 持って行きます。ダイキくん、おいしく食べてくれるかな? ファンレターを書いていたらついつい夜更かししちゃいました。イカンイカン。
 ダイキファンのガールズ、見かけたら気軽に声かけてね! 行けなかった方のためにイベントが終わったら、またレポート記事アップするので、お楽しみに。
 今日の画像は、この前ネットサーフィンしてたら見つけた、ダイキくんのデビュー前、幼さの残るレッスン中の写真のコラージュです!
 ダイキダイキダイキらぶらぶらぶらぶーーー!!!
 ではでは、いってきまーす!
(リョウははじめての大阪で緊張してるのか、なんかぶすっとしてる笑)

 リョウママ

 僕はいても立ってもいられなくなり、広場のトイレへ駆け込んだ。ものすごく恥ずかしい。昨日のクッキーを、ぜんぶ吐き出してしまいたかった。涙があふれ てくる。ずっとここにいてやる。ママは僕を探すだろうか。いや、そんなはずない。今もママは、二度目か、三度目かの握手を繰り返していて、また日が暮れるまでダイキと握手をするためにCDを買い続けるんだろう。あのブサイクな格好で。
 僕は、お姉さんのスマホを持ったままだったことに気づいた。仕方なく立ち上がり、それを返しに販売テントへ戻る。足もとがふらふらした。
 販売テントで、誰かがもめていた。でっかいテディベアのついたリュックサックが跳ねている。
 「ちょっと、なんで今日はプレゼント手渡しできないんですか!?」
 鼻の穴を膨らませたあなんちゃんが、金髪マスクのお姉さんに噛みついている。お姉さんは面倒くさそうに答える。
 「えーと、今回から、出口にプレゼントボックスをご用意しておりますので、そちらご利用ください」
 「それはわかったけど、なんで手渡しがだめなのかってきいてんの!」
 (めんどくせぇ)、とお姉さんの唇が動き、しかし何度も頭を下げている。
 「申し訳ありません。今回は会場の都合で、ファンのみなさま全員にそのようにお願いしておりますので、どうかご容赦いただけないでしょうか」
 まだ納得できていない様子のあなんちゃんがCDを買って行ってしまうと、販売のおばさんが、
 「何だかんだ言って来る人がいるうちは、それだけでありがたいもんよ。ファンも、アンチファンも。最後まで残ってくれるのは、ああいう厄介なファンだけなんだから」
 そう言って、お姉さんをなだめた。お姉さんは金髪を掻きあげ、そうすね、とつぶやく。それから無言で、僕にパイプ椅子とあたたかいお茶を出してくれた。ステージでは、ダイキの前でなかなか動こうとしないあなんちゃんのリュックサックを、係の人が引っ張っていた。
 間もなく、プレゼントや手紙でいっぱいになった段ボール箱がテントに運び込まれた。プレゼントボックスを抱えてきた男の人に、金髪のお姉さんが言う。
 「プレゼントまだありそうだから、できるぶんはここで選別しちゃおう」
  男の人はうなずいて、プレゼントボックスへ手を突っ込む。派手な模様の紙袋に、シールがぺたぺた貼られた封筒、僕でも知っているようなブランドのロゴのつ いた箱もあった。男の人が箱から取り出すものは決まっていた。セロファンに包まれ、りぼんをあしらわれた、手作りの食べ物だった。ケーキにチョコレート、 ブラウニーが、容赦なく地面に打ち捨てられていく。そりゃそうだ。手作りの食べ物なんて、何が入っているかわからない。僕は、ママのブログを思い出した。 ああいう熱烈な「ファン」が作ったものなら、なおさら。
 積み上がってゆく食品のなかに、ママのクッキーを僕は見つけた。ダイキのために焼かれた、僕も食べたココア色のクッキー。
 ざまあみろ。意地悪な気持ちで、僕は笑った。ほかの気持ち悪いプレゼントといっしょに、捨てられちゃえばいいや。
 『おかえりなさいリョウ、きょうのおやつはクッキーよ』
 学校から帰ると、ママが僕を呼ぶ。家じゅうが、クッキーの焼き上がる甘いにおいで満ちている。ママは毎日手作りのお菓子を作って迎えてくれて、なかでもほろ苦いココアクッキーは、僕の大好物だった。
 男の人が席を外し、僕はとっさに選別されたプレゼントの山からママのクッキーを引き抜き、上着の下に隠した。僕は知らん顔で、ステージをつかつかとのぼるママの背中を見つめていた。
 広場にアナウンスが響く。ダイキが、しばしの休憩に入るという。ダイキは笑顔で手を振りながら、ステージ袖から退場した。きゃあきゃという悲鳴のような歓声が、しばらくのあいだ止まなかった。頭からオーバーをすっぽりかぶり、販売テントに顔を出したのは、ダイキだった。
 「トイレ行って来ます」
 「ご案内しましょうか」
 金髪マスクのお姉さんが言うと、ダイキは首を振り、プレゼントボックスを覗きこんだ。ひょいとブランドのロゴのついた箱を取り上げる。箱の隙間から手紙がこぼれ落ちたけれど、知らんふりでポケットに箱を突っ込み、トイレの方へ駆けていった。金髪マスクのお姉さんは落っこちた手紙を拾い上げ、プレゼントボックスに放り込んだ。僕の方を振り向き、
 「ダイキのこと、きらいでしょ」
 と言う。僕が答えずにいると、
 「いいの。あたしも、ダイキのこと好きじゃないから」
 そうつぶやき、金髪マスクのお姉さんは仕事に戻った。
 僕は上着の下からママのクッキーを引っ張り出し、一口噛んだ。ココアの甘さと苦さが口いっぱいに広がり、おいしくて、かなしくて、僕はぽろぽろ涙を流しながら、クッキーを食べ続けた。
 休憩から戻ってきたダイキが、ひとなつこいいつもの笑顔で
 「いま僕がここにいられるのは、ファンのみなさんのおかげです!」
 と挨拶し、広場はどっと湧いた。

 僕はいまだに、「ファン」というのが誰のことなのかわからない。春休みの間じゅう、僕はママと口をきかず、ダイキのイベントにも頑としてついて行かなかった。そのうちに、部屋のダイキのポスターがはがされ、大量のCDがなくなり、トレカが束ねて紙ごみに捨ててあるのを見つけた。ダイキの姿が消えたのは、うちのなかに限ったことではなかった。テレビでも、CMでも、広告でも、だんだんとダイキの姿が減ってゆき、今やすっかり見なくなった。ワイドショーで久々にダイキの舞台出演のインタビュー短く流れた時も、ふぅん、とママはそっけなかった。たくさんの人があんなに熱心だったのに、なぜいっぺんにどうでもよくなってしまうのかわからない。パソコンを 使えるようになった僕がママのブログを開いたら、ある日を境に、ぷっつりと更新が途絶えていた。
 ダイキが交通事故で死んでしまった時も、僕の方が先にニュースで知った。週末に開催するはずだったイベント会場に献花台が置かれるというのでママは行くかと思ったが、その日は職場仲間と温泉旅行だそうだ。
  前にも言ったけれど、僕はダイキがきらいなわけじゃない。僕は、献花台のあるイベント会場へ、ぶらっと行ってみた。そこは驚くほどこじんまりとした公会堂 で、僕がママと参加していた頃のイベント広場のステージよりも小さいかもしれなかった。献花台の横には、あの金髪のお姉さんがむっつりと立っており、マスクはしていなかった。
 ぽつりぽつりと花を手向けに来る人のなかに、僕はあなんちゃんの姿を見つけた。あいかわらずの黒ぶち眼鏡にピンクのおさげ髪、リュックサックにはでっかいテディベアがくっついている。
 「ダイキの映像だけでもいいから、追悼イベントやってください!」
 と泣きながら訴えており、お姉さんの唇が、(めんどくせぇ)と動いたのがわかった。あなんちゃんも僕に気づき、涙でぐしゃぐしゃの泣き笑いになった。でっかいユリの花束を献花台に置きながら、
 「ママは元気?」
 とあなんちゃんが尋ねる。呆れるくらい元気ですよ、と言うと、あなんちゃんは、
 「そうよ、そうよね。そんなもんよね」
 と鼻をすすった。
 「ダイキがかわいそう」
 あなんちゃんは顔を覆った。
 「ダイキは、かわいそうよ」
 温泉旅行からぴかぴかになって帰ってきたママにあなんちゃんと会ったことを伝えると、
 「あらー、懐かしい」
 とママは陽気に言い、洗濯機を回しはじめた。そんなもんか、と僕は思った。
 「ねぇ」
 僕はママに呼びかけた。
 「ママ、僕のファンにはならないでね」
 するとママはきょとんとした顔でぼくを見つめ、
 「何言ってんの、当り前じゃない」
 と笑った。

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