雑文「我が子”で”食らうサトゥルヌス」

 そうそう、みなさんが話題にしている例のブログを読みました。独特な読点の使い方と言語センスに富んだ、じつに読ませる文章で、感情はもはや遠く断絶しているのに、才能はいまだ密接に継続しており、ある種、人生というものの不条理を感じました。二十年ほど前、親御さんのそこそこ熱心なファンであり、地方出身の美大生がギャンブルをネタに才能を開花させてゆくのを、まぶしく眺めていたものです。博報堂の社員をバンコクの通りになぞらえて、「パッポン堂」とあだ名をつけたのには死ぬほど笑いましたし、グルメ紹介の逆を行く、有名料理店を訪問してディスりまくるシリーズも大好きでした。ただ、ご結婚されて家族を漫画のネタにするようになってから、離れてしまった読者でもあります。

 「別人格である子どもを、どこまで人生のオーナメントとしてネタにできるか?」というのは、昨今のSNSを見るにつけ、非常に考えさせられる問題です。たしか、女の子の育て方みたいな教育本も出されていて、こんな形で答え合わせをされて、これまでのすべてが別の視点から語りなおされてしまうのは、子育ての辛いところだなと少しだけ同情しました。そして、この同情も、もしかすると親御さんの後悔も、子どもの苦しみにはまったく関係が無いのです。長じた娘と母親の関係は究極のところ「親友か、女同士」でしかなく、ブログの端々に壊れてしまった娘との関係性を修復しようとする親御さんの姿が見え隠れして、苦しくなりました。「毒親に育てられた者が自分の思い通りになる存在を得たとき、そこに己の抱えている負の感情をぶつけずにいられるのか?」というのはnWoの追求していたテーマのひとつでもあり、この実現は「個人にできる最も偉大な達成である」とかつて書きましたが、今でもその気持ちはまったく変わらずあります。ただ、「子が親を許す必要はない」という持論が、元ファンとして少々ゆらいでしまったのは認めざるをえません。

 今回の顛末をたどって、個人的には美味しんぼのある回を思い出しました。山岡士郎が結婚した後、子どもをどうするかという議論になって、「父親と母親の悪い関係を見続けてきた自分が、まともな親になれるはずがない」と吐露する場面があるんですね。それを聞いた子どものいない熟年夫婦が「私たちは望んだけれど子を授からなかった。負の連鎖は断ち切れる。そんな理由で子をもうけないのは、私たちには罪悪だと感じる」みたいな説得をしていて、かなり心に響いたのを思い出しました。美味しんぼは結局、子どもが自我を持つまでは描かれませんでしたが、ある段階までは本当にすごい漫画でした。彼女が救われるには、まだ十年、二十年という時間が必要だと思いますが、いつかそれがかなえられることを願っています。

 「救われないこと」を、アイデンティティにしてはいけないよ。

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