再録「小鳥猊下・コンフェッション」(mixi日記06.9.16)

 たまにしか書かないと思われている私だが、本人の意識を告白するならばたまにしか書かないどころではない。mixiをはじめとした諸君の私生活に関する記述を閲覧する毎日、痴呆老人の妄言の如き意味を為さぬ諸君の猥雑さは一瞬のうちに私の脳を沸騰させ、そして、誰かの人生が私を抜きに問題なく過ぎてゆくことへの憤りに目もくらむばかりとなる。頭蓋に吹き荒れる罵詈雑言は人間の発声器官程度の強度では到底不可能な高速黒人ラップの様相を呈し、それらを余さず書き留めることは「右足が沈む前に左足を、左足が沈む前に右足を」という例の水面歩行術の論理展開と同程度の困難を伴う。つまり、記述というステップが伴わないだけで、ネット上に普遍在する私は常に諸君の繰り広げる痴態を観察し、耳骨を震わせた瞬間に悶絶、恥骨を震わせた瞬間に昇天するような罵倒をブチ込み続けているのである。生産しないが行われるという点においては、諸君のオナニーと何ら変わるところはないとご理解頂きたい。たまに顔を出せば、それを結実しないセックスに消費されるカロリーを婉曲的になじる姑のように責められるのだから、たまったものではない。

 また、nWoにおける分析的な言辞からだろう、私は客観的に物事をとらえ過ぎると思われているようだ。しかし、私の弱点とは言葉で客観的に自己の性分を追い詰めながら、最後の最後で自分を憐れむことをやめられない点にある。私の更新は、私の自殺と完全に同義である。自死の試みに諸君を感情移入させ、私=諸君の首に腕を回して扼殺するその寸前に、息の根を止めるはずの最後の一締めをせずに力を緩め、酸欠で半身不随となった諸君の額に優しく接吻をする。籠城する犯人に愛情を抱いてしまう人質と同じ種類の感情が、おそらく私に寄せられる好意の正体である。精神を持つあらゆる有機物が避けられぬ生を志向する作用を、恣意の範疇、論理によって完全に圧殺する目的から、nWoのすべての更新は為されている。ここに私が存在して、何らかの形で発信が続いているという事実を見れば、自己を対象化する究極の客観性が私の上に完成されていないことを何よりの証拠として言えるではないか。死にきれない私の擬死に幾度もつきあう諸君の、一種異様な献身には同情を禁じ得ない。諸君は、散弾銃を持った銀行強盗犯の私が諸君の両足を撃ちぬくのみで命までは奪わなかったことに感謝するよりも、私がいなければ傷つけられることの無かった大切な何かをこそ悼むべきではないのだろうか。

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