映画「ディクテーター」感想

 年を重ねるほどに気難しくなり、人類全般へ共通するお涙頂戴に弱くはなれど、こと笑いに関しては徹底的に不感症になっていく。それが横隔膜を痙攣させての、久しぶりの大笑いである。笑いというのは突き詰めるほどに文化的な差異の部分へ面白さを依拠するようになるといつか書いたが、正にその極北に位置する、極端に受け手を選ぶ作品だとは思う。

 しかしながら、アメリカ社会の抱えるあらゆるタブーへ片ッ端から無差別に触れていきつつも、最後にはハリウッド的恋愛映画のフォーマットへ落としこむという構成には、嫉妬さえ感じる。この類のコメディを見るたびに思うのは、なぜ本邦の芸人が誰一人としてこの境地に至らないのかということである。本邦はタブーの多さでいうならば米国に負けずとも劣らないのだから、大陸や半島や琉球やメディアを揶揄したこれと同じレベルのフィクションが、芸人サイドより上梓されて然るべきなのだ。現状はと言えば、世間に認められないことを恐れ、権威に無視されることを恐れ、芸人たちは市民感情やお上品な芸術へすりよることに汲々とするばかりだ。

 サシャ・バロン・コーエンの無冠は、誰もが目をそむけたい事実をつきつけ、その結果生じる大衆の無視や罵倒を恐れない信念の証明であり、彼はその事実によってすでに戴冠していると言える。ことコメディアンに関して、本邦は米国に百年の後塵を拝していよう。真実を語る政治家が身の危険を吐露し、当の芸人はお軽い映画で政治家を志向する。本当に情けなく、くちおしい。

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