映画「エンダーのゲーム」感想
発表から40年近く経つことが信じられないほど未だに新しい、もはやSFの古典と化した大傑作だけに、どう作ったところで原作原理主義者の脳内に蓄積された身勝手なイメージを超えられるわけはなく、不評にさらされることがあらかじめ決まっていた映像化である。しかしながら、正にその原作原理主義者の俺様は、この映画化は大成功であり、まぎれもない傑作だと断言する。
視聴後に原作を読み返してみたのだが、相変わらずバーチャルゲーム内の情景描写は何度読んでもピンとこないし、バトルルームでの動きの説明も何度読んでも何がどうなってるのかよくわからない。当時は自分の理解力が低いせいかと読み飛ばしていたのだが、つまりはだれも見たことのない、だれも知らないものを描写するという点で新しすぎたのだと思う。あれから長い年月が経過し、例えば単に「デスク」とだけ表現されていたものが実はiPadのようなデバイスなのだとわかったり、現実の側がようやくこの弩級の想像力に追いついた感がある。40年を待たなければ、映像化は不可能だったのだ。
本邦において海外SFの傑作は、その傑作度が高ければ高いほど、一般の認知がますます低くなる傾向にある。なぜなら、自分のネタ元として担保しておきたいあまり、作り手側があえてその喧伝を避けるからである。例えばエヴァンゲリオンは明らかにエンダーのゲームの影響下に作られたし、マクロスフロンティアは明らかにギャラクティカの影響下に作られている。そして、それらをはじめとした日本のアニメーションから本作でのデザイン全般が逆輸入的な影響を受けているのは、相互リスペクトが意図せぬ円環を成しているようで面白い。
それにしても、本邦のSF愛好家ほど度量の狭い、偏屈きわまる存在はないだろう。いいものは自分たちのために秘し隠し、身内から出てきた新しいものは徹底的な粗探しをし、攻撃する。世間から一等低いものとして長く差別されてきたがゆえに、「理解されないこと」へ殊更に軸足を置いて、その純度だけを高め続けてきた。結果として、膨大な前提を踏まえなければ楽しむことのできない、センス・オブ・ワンダーとは真逆の袋小路へとたどり着いてしまっている。もっと知的ガードを下げて、衒学趣味は放り投げて、少々脇が甘かろうと誰にでも「理解される」物語を語る方向へと進むべきだったのに。海外におけるSFドラマの隆盛の理由は、被差別民がいっそうに己をやつすことで聖なる不可触へは“進まなかった”という、本邦とは真逆の一点に尽きる。ジャニタレの学生恋愛劇や結婚以前の腐女子へ媚びるドラマがテレビを席捲している事実へ、貴様らSF愛好家は客観的な批評を加える立場にはないことを理解せよ。センス・オブ・ワンダーを啓蒙する柔らかなSFをすべてフニャ子フニャ夫エフ先生に丸投げして、矮小なプライドの砦へ遁走し引きこもったこの数十年を貴様らは恥じるべきである。
閑話休題。本作は原作を踏まえながらも、原作を知らない層に向けて制作されているように思う。そしてディズニーがこれを作ったということに、欧米でのSFなるものの位置づけと、その文化を次世代へ継承していくことへの意思を強く感じさせる。個人的には、エンダー役の少年に感銘を受けた。彼は、私の脳内に蓄積されていた身勝手なエンダーのイメージそのものであった。意図せず知的生命体のジェノサイドへ加担してしまった主人公の贖罪の物語、それは次作「死者の代弁者」で完結を見る。この傑作が間を置かず、続けて映画化されることを切に願う。
え、死者の代弁者って絶版なの? 世界の皆様、身悶えするほどにお恥ずかしい……ご高覧あれ、これが本邦のサイエンス・フィクションの惨憺たる現状でございます……!!
「今なら、ぼくはおそらく死んでもいい」とエンダーは言った。「ぼくの生涯の仕事はすべてやり終えている」(死者の代弁者・下)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?