映画「竜とそばかすの姫」感想

  アマプラでいまさら、竜とそばかすの姫を見る。公開当時のタイムラインの噴き上がり方を知ってるので、期待値ゼロ以下のながら見をしてたんですけど、90分くらいまでは臭みこそあるものの、作家性という糖衣でごまかせないこともなく、フツーに面白い。「男性作家はスッピンの聖なる女子高生に世界の命運を背負わせすぎだから、そろそろ宮崎駿の後継者レースに女性監督が参戦してバランスを取るべきだよなー」とかヘラヘラ考えてたら、ラスト30分で真顔になりました。これを「プロアニメーター上がりによるアマチュア脚本の瑕疵」であるとメタ視点で切り捨てるのは簡単ですが、キチンと物語として批評するなら、逆張りではなく、この虐待父にこそ支援とケアが必要だと思います。

 都内の高級住宅地に一軒家をかまえ、ネット耽溺の引きこもり長男と軽度の知的障害を持った次男を、男手ひとつで育てている。妻とはおそらく離婚していて、親権を得ていることからも、充分な収入と社会的地位のある人物に違いありません。長男は家事を手伝うどころか、ネット回線代や端末代は依存するくせに、どれだけ叱っても「ボクだけが我慢すれば……」と自虐の悦に浸るばかり、次男はかつての妻を思わせる無力と社会性の欠落で「非難しないという非難」を使って罪悪感をかきたててくる。この父親は無表情の女子高生に見つめられるだけで、それこそ「死人の目をした矢吹丈に錯乱するホセ・メンドーサ」ぐらいの尋常でない怯え方をするのですが、これは彼の生育史に起因する感情のように思います。鬱病持ちのネグレクト母が、ときおり手のつけられない大暴れをする家庭に育ち、彼はずっとその虐待に耐えてきた。沼のような無感情からの激烈な怒りに対する恐怖を、彼は主人公の瞳に重ねてしまったのでしょう。

 彼と母親の顛末は、こうです。月日が過ぎて肉体的にも長じたある日、いつものように暴れだす母親をついに我慢がならず思いきり殴りつけたら、嘘のように静かになった。初めての射精は、もしかするとこの瞬間だったのかもしれません。翌朝、鴨居で首を吊っている母親を見つけ、彼の魂は永久にその場所へと縛りつけられることになる。皮肉にも、そこから離れようとする決死のモーメントが、彼の社会的な地位を向上させる結果につながっていったのだろうと想像するのです。そして、母親との関係をやり直すために、かつての母親そっくりの女性を妻として無意識に選びとり、またも同じ失敗を避けがたく繰り返してしまうーーもういちど言いますが、竜とそばかすの姫という物語の中でもっとも傷つき、支援とケアを必要としているのは、この父親なのです。それを、「ボクも戦うよ」だと? アホ、このお荷物めが、オマエは何と戦うんじゃ!

 さらに指摘すると、この監督の持つ悪癖として、「被害者の視点から見た類型的悪意」があると思います。監督が悪いと思っている人間たちは、主人公サイドを苦しめるためだけに配置され、まったく同情の余地なく描かれる。作品内に明確な善と悪の二項対立があり、その線引きを監督自身が独断で決定しているので、どこまでいっても狭くて浅い、薄っぺらな社会批評にしかならないのでしょう。ネット世界の「正義の味方」と現実世界の「虐待親」が抱く心情への想像力が物語の奥行きを作り出し、主人公たちの主張を逆照射して、一方的ではない正当性を与えるのです。「自分はどちらの立ち場にもなりうるが、そうはならなかった幸運」の自覚から描くのでなければ、社会問題に触っちゃダメじゃないですかね。そこと何の連絡も関係も持たなければ、あなたは文句なしにすばらしい映像作家でいられるんですから!

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