映画「ウエスト・サイド・ストーリー」感想

 正月休みのヒマにあかせて、長く積んであったリメイク版のウエスト・サイド・ストーリーを見る。いちばん驚いたのは、ミュージカル映画の金字塔であるオリジナル版を、短くはない人生のどこかで見たものと思いこんでいたのがそうではなく、度肝を抜く後半の展開をまったく知らなかったことでしょう。ニューヨークを舞台にしたロミオとジュリエットをキリスト教の因果応報で描いたら、もうこの結末にしかならないと冷静に考えればわかりますが、視聴中はかなりビックリし続けていました。ロミオ役のショーヘイ・オオタニにはあまり感心しませんでしたけれど、目と目の間が大きく開いた一見ファニーフェイスのジュリエット役が、演技と歌唱によってたちまち美少女へと化けるのは、まさに助演女優賞の面目躍如といった感じです。

 撮影についても、画角と構図と陰影があらゆる場面でビシッと決まっていて、ひさしぶりに「映画は光と影の芸術」という言葉を思い出させてくれました。じっさい、実在のヒトとモノをライティングによって立体的に撮る技術は、CGまみれの現代作品群において逆に新鮮なものとして映りますね。つくづく考えさせられるのは、スピルバーグとキャメロン、全盛期を大ヒットの連発で駆け抜けた名監督たちが、そのキャリアの最晩年に「実と虚」の真逆にそれぞれたどりついたことであり、アバター2をまったく評価できない私にとって、ひどく皮肉な結果のように思えます。これを撮ったスピルバーグが「マーベルは、百歩ゆずって娯楽かもしれないが、映画芸術ではありえない」と発言したとしても、強く首肯させられてしまうだろうオーラは感じました。

 あと、「なぜいま、このリメイクなのか?」と問われれば、黒塗りの白人が有色人種を演じるというオリジナルが、昨今の過剰なポリコレによって公開禁止の道をたどった場合に、適切なバックアップを用意したかったというのが本当のところではないでしょうか。だとすれば、アマビエ8世だかがヒステリックに児童虐待を叫んでいる半世紀前のロミジュリも、のちのち裁判を起こさない十代半ばの新キャストで、ただちに再撮影しておくべきです(きれいな目で)。それと、国を離れて親もいない者たちが頼るのは同じ人種の仲間で、やがて「メンツを潰されたら殺す」という武士の本懐みたいな愚連隊と化していくのは、時と場所を越えて普遍的な人の本質なのかもしれません。仲間の大切さを訴える海賊漫画(なんじゃ、そりゃ)が本邦で流行っているのも、国と親を信用できない貧困層が、その薄っぺらな行き止まりの思想に同調しているゆえではないでしょうか、知らんけど。



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