雑文「深夜ラジオ、あるいは対話について」

 最近では、インタネトーやらツッタイーに出座するたびに、リッチ・ホワイトがゲーティッド・コミュニティに引きこもる気分を生々しく想像できるような有様である。王ならば貧しき者たちへのノブレス・オブリージュも生じようが、富める者たちには元よりそんな義務はない(小さくてやわらかい社の元プレジデントぐらいにリッチを突きつめればーー金のバスタブでするロマネコンティ風呂みたいなイメージーー話は別だろうが)。差別とは、いまや無視とか装われた無関心に形を変えているのだ。もちろん、キング・ルンペンの愛称で親しまれている青い血の私も、萌え画像の一枚すらよこさない君たちの生や苦しみには、何一つ関心がない。

 え、キングじゃなくてエンペラーでしょ、だって? なに、昨年の今頃にインペリアル・サクセッションの茶番劇をやってませんでしたか? ハハハ、記憶違いじゃないの? 俺は今も昔も、ナラ・プリフェクチャー在住のしがないローカル・ガバナーさ……何より、スローターにフィリサイドにアースクエイクにタイフーンにフラッドにプレイグにエピデミックにコンテイジョンにデプレッションに、俺の治世がこんなに悲惨なわけがない(ツンデレ制服女子が腕組みしながら)!

 おっと、意図的なビーンボールと受け取られかねないので、話題を変えよう。今日わざわざゲーティッド・コミュニティから出座ましましたのは、ラジオ番組での芸人の失言と説教が話題になっていると知り、大学生くらいまではよくラジオを聞いていたことを思い出したからだ。当時はネットもスマホも存在せず、ファミコンの電源アダプターも母親に隠されているため、特に深夜は文字通り、ラジオを聞くくらいしかやることがなかった。内面旅行のレディオ・ライブラリーから多くの名作を知ったし、ジュン・ハマムラからはライト・ウイングドな映画鑑賞法を学んだ。もちろん、一晩中・日本も受験期にはよく聞いた。エレクトリック・グルーブのことは長く芸人コンビだと思っていた。ピンポンがコケインの顔を「歪んでる」とディスり、生放送中にコケインがスタジオから出ていった回(台本だったのかな……)とか、なーんちゃんたりしちゃったりなんかしちゃったりしてーa.k.a.広川太一郎が生出演してくれて、本人が帰ったあとに「なんで、出てくれたんだろう?」とピンポンとコケインで不思議がってる回とか、昨日のことみたいに思い出すことができる。あ、なんかリレー・ドラマみたいなのにハガキだしたの思い出した、採用されなかったけど。ラジオを聞かなくなって久しいけど、ポストカード・クラフツマンには劣等感というか、尊敬みたいな感情、いまだにあるなー。そういえば、ノーザン・トゥルースとバンブー・ジャスティスの超能力・ヤングマンズ・アソシエーションは今どうなってるの? おっと、閑話休題。

 で、諸君が話題にしている例の放送を聞いた。一晩中・日本を聞くのは、じつに二十数年ぶりのことだ。そして改めて、他のメディアにはない凄みを感じることができた。行われたのは、対話だ。より正確に言うなら、対話への試みである。私たちの生活において、対話が行われることは極めてまれだ。共感の雰囲気を醸成し、気まずさを薄めるために、空間を音で満たす会話ばかりが横行している。ひとつの意味を共有しようと試み、いったん意味が共有されれば、それが成される前と同じ立ち位置にあることはできない、その行為を対話と呼ぶ。己の人生をふりかえっても、対話だったと思えるコミュニケーションは数えるほどしかない。対話と思われるものの多くは、真剣な外面だけを装い、己を固持することをあらかじめ決めた、いわば音の振動を伴った時間の空費に過ぎない。今回、生放送で行われたのが本当に対話だったのかどうかは、究極的には対話を行った当事者たちにしかわからない。それは教育と同じで、十数年を経てから「あれは対話だった」とひっそり気づく性質のものだ。少し前に、人類が滅んだ後の街で家々の部屋をすべて見て回りたいという、私の抱える異常な欲望を話したことがあると思う。今回の経験は、それに近い。透明人間として、壊れかけた夫婦の寝室に居合わせる。加工も記録もない、ドキュメンタリーには満たない何か。テレビでもなく、ネットでもない、ラジオだからこそすくうことのできた水面の泡。これが、対話だったことを心から願う。

 よっしゃ、ちょっとトーン変えるから、ワン・ボディの人はこっからは読まん方がええで! 少し驚かされたのは、シンギュラリティ(婉曲的な表現)の方々が話し手の論旨そのものに深く賛同しているのにも関わらず、マリッジに関する言及にことごとくネガティブな反応をしているところだった。それこそ、バーティカリー・チャレンジド(政治的に正しい表現)やシン・ヘア(流行におもねった表現)にコンプレックスを抱いている方々が、それらをダイレクトに表現した罵倒(チビやハゲ)を聞いたときの反応に近く、認知の歪みさえ感じられるレベルなのだ。私が感じたのは例えるなら、階段教室で穏やかに講義をしていた大学教授が突然に背後の黒板をこぶしでなぐりつけた後、何ごともなかったようにまた穏やかに話し始める場に立ち会った学生の感じるだろう恐怖であり、もっと簡単に言えば「え、そこまで気にするようなものなの?」という驚きである。少子高齢化の進む現代社会において、もはやあらゆる場面でこの話題はタブーとなる時期に達しているのだと感じ、今後の言動について貴重な気づきを得ることができた。ツッタイー・ユザーなる本邦のノイジー・マイノリティの中の、さらにノイジアーなマイノリティの意見である可能性は高いが、用心に越したことはない。やれやれ、すべてをインターネットに包囲され、もはや現実の方が引きこもるべきゲーティッド・コミュニティみたいじゃないか!

 あの、何かの否定は何かの肯定にはならないですよ。

 先ほどの連続ツイートの結果、フォロワー2名減る。例えば、あるノーベル賞作家の人生観を永久に書きかえる「個人的な体験」が水頭症の嬰児であったように、彼にとってのそれは結婚だった。そして、別の誰かにとって、結婚は人生観の変更には至らない。なぜその当り前さへ理解が及ばないのかを苦しむと同時に、それこそが認知の歪みなのだろうとも思う。

 やめ、やめ! 先ほど、幾度目のことだろう、シン・ゴジラを通して視聴した。この傑作に改めて深く感動すると同時に、まさかシン・エヴァはもう間に合わないから大丈夫だと思うけど、シン・ウルトラマンがコビッドの影響を受けて作り直されないことを切に願った。

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