見出し画像

自分という意味

色々あって「おら東京さ行けね。」状態だったのですが、この度解禁。
解禁されたならば、観たいと思っていた写真展に行けるじゃないか。

そんな訳で、神奈川県伊勢原市に行くのに新宿へ大いなる寄り道をすることにしたのです。
観に行ったのは、川野恭子さんの「何者でもない」。
すでに終わってしまった展示ですが、未だに受け取ったことを咀嚼しています。

作品をひとつひとつじっくりと一周観て、最後の言葉たちを自分に染み込ませるように何回か読んで、受け取ったことを噛み締めて、またもう一周。
さらに写真集を観て、展示空間の真ん中くらいに立ってぐるりと見渡す。

なぜこんなにも内と外が繋がるのだろう?

今思い返すと、きょんさん(川野さんをそう呼ばせていただいております。)の目線を追いかけることで、頭の中というか、思考を疑似体験していたのだなと。
そして、その体験は空間でないとできないことだったんだと思います。
「すごい」と思ったのは、そういうことか...とやっと言語化できました。

きょんさんが表現されているコトは、私がぼんやりと形にできていないけど感じているコトに、いきなり形と答えを提示してくれるような所があると思っています。
「何者でもない」もそんな展示でした。

それもそのはず。
ものすごく思考が積み重ねられているのです。

誰かの答えを自分の答えにしてはいけないのですが、ここまで練られた答えを見てしまうと影響受けまくりです。
でも、自分を見失なわなければ、影響を受けるのは良いかなーと。

この展示を観に行くちょっと前に、舞台「玉蜻 ~新説・八犬伝」の千秋楽の配信を観たんです。
劇場で観たかったなーというのは置いといて、テーマが重なるところがありました。

別個で気になったものたちが繋がる不思議を感じています。
時代というか、世の流れの中で「自分」というものが取り上げられる時期なのかもしれないなと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?