「本を贈る展」が、わたしに贈ってくれたもの
ギャラリーの運営をしていて幸せだなと思うことは、「これをやりたい!」と思ったときに、いつでも場所があることだ。
今年の2月に、「本を贈る展-それぞれの仕事にまつわることやもの」という企画展を、ボーンフリーワークスでおこなった。本作りに携わる10人の著者の仕事を伝える一冊の本、『本を贈る』(三輪舎)を読み、とても興味がわいたからだった。版元の三輪舎代表の中岡祐介さん、著者のひとりで友人でもあった校正者の牟田都子さんにお声がけをして、実現の運びとなった。閃いたのは、去年の今頃のこと。
その頃のわたしは、ギャラリスト、キュレーター、作家、どの側面から見ても致命的なのだけど、ものを売ることに冷めていた。少しでも早く、1人でも多く! もっと素敵に! みたいなことに、なんだか飽きていた。疲れたというより、飽きちゃっていたのだ。理由は色々あれど、その戦いに燃えられない自分にも気付いていた。そういうやり方は、もっと得意な人に任せればいいや、と。だからこそ、ものよりも、人にフォーカスしたいと思い始めていた矢先に出会った本だったので、すごく興奮した。
ボーンフリーワークスに打ち合わせにきてくれた2人に、「本を売るというより、みんなの仕事の紹介をしたい、道具も紹介したらどうかな? 博物館みたいな感じに!」と、頭の中で完璧に出来上がっていたイメージを、興奮のまま、体から湯気でも出そうな感じで話した。
2人は嬉しさと不安の入り混じったこどものような顔をしていた。どうしてだろう? お腹でも痛いのかな。素朴に、不思議に思った。そして、そのあとに2人が話してくれたことは、感謝の言葉とともに、わたしに対する場所代や売り上げのことだった。そして、わたしのために、売上を立てるために、2人で事前に話し合っていたであろういくつかの案を提案してくれた。わたしはその気持ち、配慮に対してありがとうとお礼を伝えたあと、ここでやるにはもったいない内容だし、この先ふさわしい場所があればどうぞそこでと、丁重にお断りした。
わたしがやりたいこと、伝えたいこと、見たい景色をもう一度わかりやすく言葉にして、それはわたしの責任であるから、数字のことは心配しないでほしい、と伝えた。搬入がはじまり、ディスプレイの時点でも、同じことを伝えて全て任せてもらった。
この企画展は、たぶん今年1番くらいに多くの人が足を運んでくれた。そして、結果的に本もたくさん売れたし、お話し会も満席を超えても問い合わせがあった。予算も超えた。いつも先方には伝えないが、企画する以上はちゃんと予算も立てるし、一応計算だってする。でも相手には言わない。対価を払うのは彼らではないし、責任者はわたしだからだ。
この企画展を通じて学んだことはほんとうにたくさんあって、それを言葉にするのはまだまだ難しい。
場所を運営する以上、継続するために売上を立てるのはもちろん必要だし、経営者としては当たり前だけど、数字ありきで先にやり方を考えてしまうと、わたしがやりたいことに、1枚、もう1枚と、薄いベールを重ねる感じで、本質が見えにくくなるのだ。それなら、最初からやらない。それなら、場所はいらない。
なんのための場所なのか。
そう聞かれたら、わたしにとってこの場所は、ほんとうはギャラリーでもレンタルスペースでもなく、実験の場だから。挑戦と実験の場。だから、格好つけるとか、人にたくさんきてほしいとか、あの人はこうやっているとか、そもそも最初に期待や戦略をたてても、意味がないのだ。実験は、最初にわかっていたり、予想がつくことをしても意味がない。知らないし、わからないからやるのだ。
反応のない企画展もあるし、人が来ないこともある。それを気にする人には、時間も労力もわけてくれたことに対して申し訳ないって思う。けれど、わたしは実験をしている。工事現場の人が歩行者を誘導するみたいに、「こちらです、今すぐここを通ってください」みたいに人の心を誘導したくなくて、誇大広告みたいなのもいやだし、必要な人に見つけてもらいたくて、感応してほしいのだ。心に、なにを残せた? と。わたしは、その実験結果をただ観察している。感応しなかったのは、共鳴しなかったのは、なぜだろう? と。
だから、全ては失敗ではないのだ。数字だけをみないで。だってこれは実験だもん。こころの1番広いところ、深いところで、わたしはいつもそう思っている。でも、この思想はまだまだなかなか人に伝わらない。あんまり儲からないから、ライバルもいない。わたしの挑戦と実験は続く。空気に、体験に、目に見えないものにこそ対価を払うみたいなことをしたい。形ないものの共有をしたい。感応してくれる人と共に。来年やりたいことも、いくつか思いついてきた12月。わたしは見たいものを見る。それは、わたしがまだ見たことのない風景。でも夢の中で確かに見たみたいに、頭のなかにだけある景色。