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月の底は見えない 1(小説っぽい何か)

 夜を引き裂いて、溶けていく口笛。月光よりも明るいその音色に引き寄せられるように、ぼくは屋上への扉を開いた。錆びが浮いたドアの金属音。無粋だとはわかっていても、ぼくは街灯に群がる虫のように外へ出る。そこには冬の夜空を背負う一人の女性がいた。
「こんばんは」
 女性は口笛を止めてそう言うと、しんと静まった湖を思わせる瞳でぼくをじっと見つめた。透明なのにどこまでも深く底が見えない。肩までの黒髪は闇の中に浮かび上がって、さながら魔女だった。
「こんばんは、聴いたことがあるメロディだったもので」
 ぼくもあいさつを返して、彼女に歩み寄る。ぼくの言葉を聞いて彼女は警戒を解いたようにやわらいだ表情を見せる。
「クラシックが好きなの?」
「いえ、それってニュルンベルクのマイスタージンガーですよね?ぼくの好きな本の主人公がそれを口笛で吹くんです」
 それを聞くと、彼女は要領を得たという表情で笑う。
「ブギーポップね」
「ああ、知ってるんですか」
「もちろん。その人が一番美しい時に、それ以上醜くなる前に殺す“死神”ブギーポップ」
「あの小説が大好きで高校生の頃にシリーズをずっと読んでいたんですよ」
「ありがとう。まあ、僕もそうなんだけどね。この大学に住み着いた死神なんだ」
「え?」
 予想だにしない展開にぼくは言葉を失う。その様子が大変気に入ったようで、彼女はクククと笑いながら「ごめんごめん」と謝る。
「冗談だよ。でも、君にはもしかして私が死神のように見えたのかな?」
「そんなことは…ないですよ」
「なにそのタメは。見えたって言ってるのと同じじゃない!まあ、わかりやすい男の子は好きだけど」
 彼女は死神ではない、小悪魔だった。好きなように弄ばれている。
「男の子ってなんですか。まあ、一年生ですけど…」
「ふふ、私は六年生ぐらいかな?あなたから見たら、ほんとに大学へ住み着いた死神かもしれないね」
 大人びているとは感じていたものの、それほど年の差があるとは思わなかった。その言葉を信じるなら24歳。大先輩だ。
「君、なんて名前なの?」
「ぼくは小鳥遊ひよのです。小鳥が遊ぶでたかなしと読む」
「あら、可愛らしい名前なのね。しかも響きに縁がある。私は月見里つきみ。月が見える里でやまなしと読む…ね。たかなしとやまなしか。これは運命ね。何か事件が起きそう。この大学を襲う殺人事件、クローズドサークル、密室、ミステリだわ」
「いや、確かに山奥にある大学ですけどスマホも使えますし、近くに人も住んでますからクローズドサークルにはなりませんよ!そんな呪いがあれば別ですが…。というか、事件に遭遇して謎を解く探偵になる気満々ですね。ミステリがお好きなんですか?」
「まあね。そして、君は私のワトスンだ。アフガニスタンに行ってきましたね」
「行ってません!陸軍の軍医でも負傷して帰ってきたわけでもありません。後輩を弄ぶ先輩に面食らってるただの純朴な一年生ですよ」
「ただの純朴な…ねえ。そうかしら?」
 すべてを見通す千里眼があるのなら、この人の瞳だと思った。ぼくは見抜かれている。そして、見抜かれることを楽しんでいる。これがぼくと月見里つきみ先輩との奇妙な大学生活の始まりだった。

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