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漢字を開かないで (= かな書きしないで)

現行の日本語表記においては、事物を表す文節前部が漢字で記される。この原則が有るため、漢字を拾うだけでも、大よその情報が掴めるのである。ところが、最近は、漢字を開くことが読みやすさを高めると言われている。こんな中途半端は宜しくない。それならば、徹底的に開いて、分かち書きをば、との念を記述してみむとてするなり。

文字種による文節標示

現行の日本語表記 (以下「現行表記」) においては、「文節」という結合単位[*]の前側が漢字で記される。我々が文意を理解するにあたって、文節の意味的繋がりに注目していることを踏まえれば、文節の区切りを文字種 (漢字/かな) で示す現行表記は、なかなかよく出来ていると言える。

このことを確認するため、次掲 (1) と (2) とを比較されたい。(1) は『細雪』冒頭の地の文、(2) はそれを文節に区切ったものである。

(1)   鏡の中で廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると
(2)   の で 廊下から うしろへ 這入って た 妙子を ると

文節の前側には、事物を表す名詞や動詞の語幹 (= 変化しない部分) が、後ろ側には、当該事物の文中機能を示す接尾辞や助詞が来る。そして、文節前部は現行表記において基本的に漢字で記される。つまり、事物を表す部分のみを漢字表記するという原則が有るため、漢字を拾うだけでも、大よその情報が掴めるのである。

次のように、文節前部をカタカナやローマ字が占めることも有る。先の拾い読みにおいては、これらも漢字に同じく拾っていく。ただし、サステイナブル」やら「ICT」やら、使用者もよく分かっていない外来語が入って来ると、理解に障る。「持続可能性」「情報通信技術」と漢語で呼んでくれた方がずっと分かりやすいのだけど。

(3)   手の 空いた 隙に 幸子を 誘い出して ホテルの ロビー
  始めて この話を したのである。 (細雪)
(4)   MS Wordを けなす 者の 中には ショートカットや スタイル
  利便性を 知らない 食わず嫌いが 一定数 有る。 (作例)

漢字拾い読みの利点

現行表記に従っていることを前提とするが、漢字拾い読みは文章の概要を短時間で掴むに良い。要旨や画像が付いていれば、漢字拾い読みに頼らず済むけれども、そのような文章がどれほど有ろうか。その点、漢字拾い読みは種類を問わず有効である。文章を読み始める前からその概要が掴めることの利点は大きい。

かくも有り難い漢字拾い読み。これに差し支える表記はいささか迷惑である。「です」「好きだ」「かわE」のような、80年代を匂わせる文節末カナ/ローマ字表記や、『キャプテン翼』に出て来る次藤洋の「タイ!!」(国名ではない) がそれ[**]。

漢字は開くべき?

上の例は、まあ、冗談みたいなものであり、咎めるつもりも無い。この記事で問題にしたいことは、近年のかな表記志向である。書店で平積みされている本を立ち読みするに、数十年前の本より1頁の文字数や漢字の分量が減っている(ように感じる)[***]。最近はこれが好まれるらしい。物書きに対しても、読みやすい、或いは、小熟れた文章を書くには、漢字を開くべし = かな書きすべしと推奨されている。

漢字表記は衒学的なのか

漢字を積極的に開いた文章は確かに柔らかく感じる。この柔らかさが美しさでもあるのか。 ただ、前述の漢字拾い読みを当てにしている者にとって、開いた文章は読解に幾分手こずる。『五重塔』みたいに漢字を詰めれば良いわけでもないが、常用漢字まで開かずとも[*!]。

木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日掃ひしか剃つたる痕の青〻と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとゞめて翠の勻ひ一トしほ床しく、[ ... ] (五重塔)

漢字は書くにつらいが、電子機器で打つ分にはそうでもなく、意外と現代向きである。漢字学習に費やした時間を思えば、漢字拾い読みの利など塵芥の域を出ないが、漢字を既に習得している者にとって利用しない手は無い。漢字学習に膨大な時間を取られたのだから、日本語に当てられる (= 訓が一般化している) 限りは漢字を使って欲しい。

たとえば、肯否を左右する「有る」「無い」。情報価値が高い割りに、なぜか例外的にかな書きが推奨されている[**!]。「居る」は「いる」か「おる」かで迷うので、このかな表記は理解できるけれども。漢字表記が衒学的に感じられるのだろうか。「箪笥(たんす)」「謡(うた)う」「峻(たか)い」などに比べれば、嫌味でもないような。

最良は分かち書きかな表記?

文節前部も平がなに浸食された文章は中途半端であり、文節の意味的繋がり = 文意を読み解くに宜しくない。漢字を開くのであれば、朝鮮語のように徹底的に開いて、分かち書きして欲しい。分かち書きがちゃんと行なわれていれば、かな表記でもローマ字表記でも、問題無く読める。

次に挙げるはてブロのかな表記には批判的コメントが多数寄せられたらしい。しかし、そのほとんどは慣れの問題を考慮していない。漢字学習に費やした時間を返してもらえるのであれば、かな表記に感じる違和などすぐに忘れるだろう。平がなの読み書きは日本に住む外国人も結構できるということまで踏まえれば、分かち書きかな表記が最良なのかもしれない。


[*] 言語学に言う「語 (word)」。国語教育においてはしばしば、文節の区切りを間投助詞「~ね」で判定せよと説かれる。ただし、次の例で言えば、「降る / 程」や「物足りない / ような」が厳しい ... けど、分かりやすさには代えがたい!! (松陰寺)

初めの / うちは / 降る / 程 / あった / 縁談を / どれも / 物足りない / ような / 気が / して

[**] 次藤くんの「タイ(!!)」は文法違反でもある。「~たい」は肥筑方言の間投詞であり、次のとおり、単独では使わない(筈。青年期に「~たい」を習得した学習者につき)。次藤くんの「~たい」は「~(だ)よ」「~(だ)ぜ」にほぼ相当するので、単独用法「タイ(!!)」の非文法性を不問にしても、なお不自然。

初めのうちはたい 降るごつ有った縁談ばたい どれもたい 物足らんごつたい 思っとったったい

[***] 近年の書籍においてかな表記が本当に志向されているかは、統計的に示すべきではある。「読めば分かるでしょ」で済ませてしまうこの粗さは、研究者に向いていない。

[*!] 常用外であるからと言って、「暗渠」「埠頭」「分娩」を「暗きょ」「ふ頭」「分べん」と開くことにも違和を覚える。かな混じりの漢語は流石に美しくない。朝鮮語表記のように、漢語も表音文字 (朝鮮語であれば、ハングル) で開くことを徹底しているのなら、構わないけど。

[**!] 次に挙げる補助動詞「ある」「ない」も情報価値は高い。情報価値云々と言っておきながら、全く論理的ではないけど、慣れの問題も有って、これらの漢字表記は衒学的に感じる。

- 吾輩は猫である
- コーンフレークではない
- 表参道で寿司、悪くないだろう

[追記: 21/06/01]
注 [*] に関して。
国文法は「ような」を助動詞と見るので、「降るような」で1文節か。


しご]た ちん]ちん そつぁ たん]たん。もろ]た ぜんな] そつい] かえ]て [に]かと かっ とっの] がそりん]に しもん]で '仕事はテキトー、酒はグビ〴〵。貰った錢は酒に替へて、新しいのを書く時のガソリンにします' 薩摩辯 [/]: 音高の上がり/下がり