誰かが発する音は雑音ではなく、息吹の音だと思う

この二年、家族以外の人と直接会って話す機会が減ってから、
自分の想いを言語化することが苦手になったと感じる。
話すこと、伝えることがないと当然ながら使わない能力は劣化の一途を辿るものだ。
会議やイベントごともオンライン開催のものが増え、人と話すのは画面越し。
そうなると相手の表情がよく見えないし、声の響きを感じることも難しい。
また、自分が発言する時以外は基本ミュートにしているために、誰かが話しているときに他の音が入ることへのストレスも強く感じるようになった気がする。
私は元々ながらで何かすることやマルチタスクが苦手だ。
また、BGMなども邪魔に思うタチなので集中したい時はとにかく静寂を好む。
しかしながら、以前までは家族が部屋で音楽を流したり、テレビを見ていたり、または子供が騒いでいたりしてもさほど気に留めることもなく、自分がやりたいことに集中して取り組むことが出来ていた。

しかし、今はそれが難しくなっている。
雑音が自分の頭の中にまで侵入してきているような不快感があるのだ。
そう、会議や研修の場で参加者の誰かがミュートにしていないために雑音が入り込んで集中できないように。
人間は良くも悪くも、与えられた環境に適応する能力がある。
私の場合は、オンラインで雑音が入り込むことがない環境に慣れたばかりに実生活においても、関係ない音を忌み嫌うようになったのかもしれないと気づき、愕然とした。

以前は当たり前に通っていた子供を遊ばせるような屋内広場では、
子供たちがおもちゃで遊ぶ音やはしゃぐ声だけでなく、子供向けの音楽が流れていたり、ママたちが談笑していたり、といろんな音があふれていた。
私はそんな場所を心地よく感じ、子供と共に楽しい時間を過ごしていた。
あれ?私はああいった場所も不快に感じるのだろうか?
いや、先月参加したとあるイベントでもたくさんの音があふれていたと思うが、私はそこで不快な感情は湧いてこなかった。
それを思い出した時に、大丈夫、まだ戻れる。私はホッとした。

オンラインは確かに便利だ。
しかしながらそこに心地よさは感じない。
子供たちのはしゃぐ声、物や人が触れ合う音、会議や研修中に隣の人とのコソコソと話すこと、
それらは人が生きている音、息吹の音なのだと私は思う。
人の息吹を感じられない世界に私はいきたいとは思わない。

人の息吹を感じないような殺伐とした世界は嫌だ。
遮り物のない世界で笑ったり、怒ったり、泣いたり、お互いに適度に触れ合いながら、私は人を感じて生きていきたい。
あぁ、人と会いたい。話したい。ハグしたい。
素顔で思いっきり触れ合いたいし、子供たちにもそんな世界でこそ生きてほしい。
切に切にそう願うのである。

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