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「自分は別にいなくていいんじゃないか」も、自分の一部

物心ついたときから、「別に自分はいなくていいんじゃないか」という思いに囚われる時期がある。

おそらくこれは、私の根底にずっとあるもの。普段は意識しないけれど、それが時折顔を出す、という感じ。

鬱々と思うのではない。別に落ち込んでいないのだ。感情がざわざわすることもない。ただ何となく、淡々と考えている。

心理的に紐解くと、私が小さい頃に何かしらの経験をして、自分の中に刻んだ、あるいは刻まれてしまったものなんだろう。整君が映画で言っていた「セメントが固まる前についてしまった痕跡」の一つ。

もし、私の身近にこう考える人がいたら、「それは勘違いだよ」と懸命に伝えたくなる。伝えてくれる人の気持ちは嬉しく思うけれど、それを聞いても、「自分は価値がある」とか「自分はいなくてはならない」という風にはならない。ただ空虚が増すだけ。もちろん、気持ちはとても嬉しい。

淡々と思うことなので、自分を終わらせよう、とか、そういうことはない。

ただ、これが影響していることがある。昔から私は「誰かとの関係」を自分で終わらせてしまうのだ。集まりから抜ける、距離を置く、その人(その人たち)の前で自分を出さなくなるなど、自分の存在を消すかのように行動してしまう。

ある人から「あなたは自分から孤立しようとするところがある。それはダメだよ。意志を持って、自分を止めるように」と忠告されたことがある。この時、私は初めて、これが「思い癖」であることを自覚した。

別に相手を嫌いになったわけでも何でもない。ただ、自分が誰かの迷惑になるのが耐えられない。自分がいなくなれば平和になるなら、自分は一人でいい。

なぜなら、傷つきたくないのだ。いなくてもいい自分みたいなのが、誰かの負担になる、迷惑になるというのはとんでもなくキツい、と感じるから。

でも、もし自分が逆の立場だったら、離れたその人を傷つけてしまったのかとモヤモヤするだろう。それにもようやく気づいて、そこから意識的に自分を見張っている。この思いに囚われている時に、自分から孤立するような行動をとらないように。

私の心のセメントは固まってしまったと思うので、この「私はいなくていい」とは、一生つきあうことになりそう。この「思い癖」がひょっこり顔を出すたびに、私は自分を見張ることになる。それなりの負荷を感じるので、キツイと言えばそう。

でも、解放されようとは思わない。なぜならこれも私の一部だから。きっと。






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