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恥ずかしさと見栄

ネットにあげてるから、誰かにこの文章が読まれることはがあるとは分かっているのだけれど、

リアルの世界で「読んでみたいな、教えてよ」と言われると途端に恥ずかしさがむくむくと胸とお腹の間、、この中間はなんていうんですかね。。
それはとりあえず置いておきながら、なんだか悶えるような感情が起こってるくるなあと思った。

それは例えば、普段なにげなく授業をうけてていて、緩みきったところに
普段は仕事が忙しくて来ない両親が「次の時、みにいくね」と授業参観に来ることになって慌てるぐらいの恥ずかしさ。


いつも通りしかできないのにちゃんとしてたかなとか、いいところ見せられるかなあとか。
もっとちゃんとしとけばよかったーー!と、どうしようもない後悔たちの言い合い。
脳内裁判が開廷する。

検察側「もうあきらめなさい!今のままでいくしかないんだ」

それに対して、弁護側「まだ間に合う。次々に良いものを書いてけばいいの。新しいほうが本当のあなたよ!」

最後に裁判長「うーん。どうすればいいんすかね。」


似たような会話がずっとぐるぐると繰り返される話し合い。

いいところだけ見せたいなという自分と、今を受け入れなきゃいけない自分とがぶつかりあってる。

といっても、いい外見だけ見せようとしても中身は満ちてはいかないから、ハリボテだけが肥大して、
デコピンみたいに指ではじけば簡単に倒れちゃうこともわかってる。

結局は認めなきゃいけないなと。自分のことを。

何にでも出発点は自分を認めてからだと思う。
長所も短所も含めて認めてあげる。

そうすると長所と短所は表裏一体だから、短所が実は長所なんだって気づけるから。

って、文章がだんだん真面目モードに、、


思ったことを書いてるんだけど、実際にどういう文体、スタイルにしたいのかは未だ分からない。

スタイルを決めないことをスタイルにしたいのかもしれない。

良し悪しはわかんないけど笑

いや、スタイルを自在に操りたいのかもしれない。
要するにどんな設定や要求でも書きこなしたいってことだなぁ。
どんだけ傲慢やねん。。


まあ、書いていけば答えだなと思うことが見つかるのだと思う。

それにたどり着くまでには、余りに道半ば。

とにかく書きまくって、書きまくって、

自分の心が求めてるところ、だれかの求めてる場所に綺麗に入れるようになりたい。


そういいつつまた書くのサボちゃうかもしれないけど。

反対側から「そんなことない、頑張れるよ」と声が。

そんな感じで、またまた脳内裁判が再開し始めたので、ここまでにしておきます。

#エッセイ


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