死にたい。

死にたいという人は世の中にたくさんいると思う。

10歳から14歳の最も多い死因は、自殺らしい。

経済的に見ると、景気が悪くなると自殺する人は増えたりする。


最初から死にたいと思う人は稀で、死にたい人はいろいろな要因が重なって、人は死にたくなるのだと思う。

要するに死にたいという願望はもともとなくて、死にたいは思わされるものだと思う。

でも、思わされているとはいえ、そうしたいと願わずにはいられない何かがあるのだとも思う。
それは思わされている願望なのだけれど、それが叶えばその人は救われるのだろうか。

ぼくは他人なので、その人の話に共感は出来るかも知れないが、同情することはきっと出来ないだろう。
どこまでいっても最後に自分を救えるのは自分で、他人は助けのきっかけにしかならない。


成功者のインタビューや著書によく「死の意識」に関する話がある。
なんらかの事故や、誰かの死が、あったからこそこれだけ頑張れたみたいな話だ。

ぼく自身は「死の意識」を得たいと思っていた人間だ。
たぶん死という感覚があるかないかで、どれだけ人生を無駄にしないか、どのようにみんなを幸せにするか、
なんらかのカッコイイ志をもって、毎日をイキイキと生きる人物になれるんじゃないかと思った。

どうやったら死に近づけるのだろう?

自分の人生が今日で最後だと思う。
家族がみんな死んでしまったところを想像をする。
誰かの死の体験を読む。

いろいろ挑戦してみたとは思う。
けど、効果は一瞬だった。すぐに日常に戻る。

エナジードリンクみたいなものだった。

どうやらぼくはそういうストイックな生き方ができない人間らしい。
死を意識し続けるのも大変だ。


いろいろ考えてわかったのだが、ぼくは死を意識する以前に、どうしようもなく生にしがみつきたい人間みたいだ。
死にたくないという前に、生きたいなという言葉が先行する。

死んだ後には何もないと思う。輪廻転生とかも信じられない。
ただの暗闇。いや、暗闇もないのかもしれない。

限界まで世の中のすべてを知りたい、体験したい。
だらだらとくだらないことで笑っていきたい。
あー満足したと思うまでぼくは死ねない。

高尚でないさまを突き詰めて、高尚だと誤解されたい。
まじめにくだらないことをしたい。

遊びにまみれて、バカだなとか思われながらみんなが楽しくなればいいと思ってる。

世の中、あまりに許されないことが多すぎる気がする。それが人を死にたいと思わせるのかなとも思う。

まじめなことも素晴らしいけど、くだらないことも大切だよねって。もちろん世間に迷惑をかけ過ぎない範囲で。


できるなら生きることを羽交い締めにしたいなとつねづね思っているが、
たまに「あー死にたい」と言うこともある。

全然うまくできない自分を直視したくなくて、消してしまいたい時によく言う。

全然生きたいと思っているが「死にたい」と言う、この矛盾感が楽しい。

ぼくの「死にたい」は笑い飛ばすための遊び道具だ。


いろんな「死にたい」をかかえた人が世の中にはいると思うが、

ぼくは十分楽しんだし、もう死のうかなと思ってから、死にたい。

誰かに「死にたい」と思わされて死ぬのだけは、死んでもごめんだ。



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