時効って。

何の為にあるんだろう。常々思う。被害を被った方は精神的にも身体的にも傷を負いながら加害者を訴えなきゃならない。これ、想像する以上にハードル高いことなんだよ。その上で追い打ちをかけるように存在しているのがこの「時効」というモノ。その事象にも依るけど大概はとても短く設定されている。正直ね、身体や心の傷を癒やしてから、なんて悠長なことしてられない。そんなことしてたらあっという間に期限が来てしまう。おかしいでしょう?身体も心も疲弊している中で更に身体に鞭打って弁護士やら何やら探して話し合って​───────って、こんなモノさえ無ければゆっくり出来るのに。無期限とはいかずとも、もう少し期間を長めに設けることは出来ないものなのだろうか。

私は今過去在籍していた会社でのセクハラパワハラの件で或る弁護士に相談しているけれど、会議中は本当にしんどい。何でそんなことしてるかって、自分の傷つけられた名誉の為だ。傷つけられ、奪われ、失ったものを取り返す為に敢えて困難な道を進んでいる。何度も迷ってその度にもう止めようか、無駄かもしれない、と悩むけれどそれでも当時のことを思えばそのままには出来ない、と奮起する。

この件に関しては私の場合は既に時効を迎えているから加害者は無罪放免でゆるりと過ごしている筈だ。私は今でも苦しんでいるのに何の罪の意識もなく過ごしているのかと思うと憎らしく恨めしい気持ちになる。この負の感情と折り合いをつける為に私は今戦っているの。

何度も思う、時効さえなければ…と。被害に遭った時、私は独りだった。加害者や会社を訴えるには余りに知識が不足していた。通院しながら担当医に相談して紹介された弁護士を頼ったりもした。けれど余り親身にはなって貰えず、中途半端なやっつけ仕事で片付けられた。労基署も労働局も敵になった。会社の味方をして時に事実を歪め都合の悪い出来事は無視か湾曲してこちらに非があるようにした。それを覆すだけの証拠を出すことが出来なかった私は負けて時効を迎えたのだ。

今お世話になっている弁護士が言っていた。当時世話になった弁護士は有能な人だと。それでもそういう人でもこちらが不利だと判れば杜撰な仕事で片付けるのだ。

今になって、今世話になっている弁護士に「あれはしてなかったの?」「これはしてなかったの?」と言われるが、こちらは素人だ。そんなこと知る筈もない。心身共に疲弊している最中にそんな方方まで気を遣れる知恵などあるものか。

ただの一般市民がそれまで縁も縁もない弁護士という存在を頼り、あまつさえ手抜きせず仕事してくれる人を見つけることは宝くじを当てるような確率に等しいのではないだろうか。そんな中で「時効」というモノは加害者にとって渡りに船であろう。あわよくば私のように敵だらけで囲まれて成就することなく国からのお墨付きにありつけるのだから。

だが、時が幾ら過ぎたとて、訴える方法は他にもある。今は別の角度から攻めるべくして協議している。罪は罪だ。どれだけ時が経とうとも犯した罪は償うのが筋であろう。

私の中にその気持ちがある限り、ずっと戦い続ける。