小説「春枕」特別編〜ふりまさる音につけても恋しきは(2)〜
(つづき)
春花さんは、黙って僕の話に耳を傾けている。そして、温かいお茶を淹れてくれた。
「今日みたいに、朝から雨が降り続く日でした。僕は、彼女を突き放した。好きな人ができたから別れてほしい、君とはもう会えない、と。彼女は雨の中を泣きながら飛び出して行きました。彼女とはそれきり、です。
その時は良心が咎めましたが、彼女という重荷から解放されてホッとしたというのが正直な気持ちでした。
でもね、十年経った今になって後悔しているんです。僕はなんて若かったんだろう、って。僕の存在は、かえって彼女の孤独を深くするだけだった。
あんなに傷付きやすくて脆い心を抱えた彼女を、ひとりぼっちにしてしまった。彼女はちゃんと幸せになれただろうか。それだけが気がかりなんです。」
春花さんはしばらくじっと考え込んで、言った。
「こうして静かに雨の音を聴いていると、不思議と過去のことが思い起こされます。それも、楽しい思い出じゃなくて、切ない記憶が。出会いより別れ、得たものより失ったものを思い出します。
わたしも雨の日に、過去のことや失ったものを思って、涙することがあります。でもね、その涙は決して悲しいだけのものじゃない。わたしの涙を、まるで雨がすべて洗い流してくれるような気がするのです。雨にはきっとそんな浄化作用がある。雨の日のカタルシス、ですね。
こんな和歌があります。
ふりまさる音につけても恋しきは昔の人や雨となりけむ
雨音がよりいっそう強くなるにつれて、過去に置いてきたはずの恋しさがよみがえってきた。雨音を聞いてこんなにも恋しくなるのは、昔別れたあなたが雨となって、わたしのそばにいてくれるのだろうか…。」
「とても素敵な歌だね。
彼女とは、お互いのことをそれこそたくさん話した。彼女は僕が他の人には話せないようなことも黙って聞いてくれて、ただそばにいてくれた。とても優しい人だったんだ。その歌みたいに、この雨が彼女だったらいいのにな。
不思議だ。別れてからのほうが彼女の優しさを思い出して、愛しくなる。」
グッと涙をこらえる僕に、春花さんは優しい眼差しを向けた。
「大翔さんのかつての恋人は、もしかしたらあなたのことを恨んでいるかもしれない。恋しい想い出として、懐かしく思い出しているかもしれない。それはもう、誰にもわかりません。
まるで傷つけ合うためだけに出会ったような人、そして、お互いのためにもう二度と出会わないほうがいい人って、どうしてもいます。人間はとても愚かな生き物で、傷つけ合わずにはいられないから…。
大翔さんのその後悔は、紛れもなく彼女を愛していたからで、その気持ちはきっと彼女に届いているはず。たしかに大翔さんは、最後に彼女に残酷な仕打ちをしてしまったかもしれない。
でも、彼女は彼女で、大翔さんに甘えすぎてしまった自分の弱さや未熟さを、振り返っているかもしれません。大翔さんは自分とあんな風に別れたことを後悔しているかもしれないと、かえって心配しているかもしれない。だって彼女は、とても優しい人だったんでしょう。
わたしはそう信じたいです。」
「あんな風に別れなければ良かった。もっと違った形で愛したかった。何度思ったかわからないよ。
僕はきっと、これからもこの思いを引きずって生きていくのだろう。それがせめてもの償いだと思っている。
でも、今日こうして春花さんに話をして良かった。ずっと一人で抱えていくには、僕には重すぎたんだ。」
「大翔さんにお出ししたお茶は、キンセンカ。花言葉は『深い悲しみ』。春枕はお客さまのどんな悲しみも受け止め、寄り添います。
もう雨の日に一人で苦しむ必要はないんですよ。」
春花さんの言葉に、僕は熱くなった目頭をそっと押さえた。
春枕のお店を出ても、まだ雨は降り続いていた。この雨が彼女だったら…そう思うと、冷たく無情に感じた雨が、今はとても優しいものに感じられた。
僕は彼女を愛していた。でも、彼女はもうそれを知ることはない。僕は彼女への想いと後悔を、これからも抱きしめて生きてゆく。
そんな僕を慰めるかのように、雨は僕を静かに濡らした。
(おわり)
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