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小説「春枕」特別編〜ふりまさる音につけても恋しきは(1)〜

梅雨。
雨がすべてを濡らす季節。


急な雨に降られた僕、水瀬大翔(たいと)は雨宿りができる場所を探して、銀座の街を歩いていた。

すると、僕の目に「春枕」というお店の看板が飛び込んできた。なんの変哲もない白い看板が、なぜか僕には光って見えた。


「いらっしゃいませ。店主の春花と申します」

店内は静かに雨音が響いていた。
僕も名前を名乗り、席に腰を下ろした。

春花さんは雨音に耳を傾けながら言った。

「とても優しい雨が降っていますね。

 雨の音って、私たちを外の世界から切り離してくれるみたい。まるで雨のカーテンがおりてきて、いろいろなものを遠ざけてくれるようですね。

 雨はわたしたちを匿ってくれるのです。そして、守ってくれる。そんな気がしませんか。」

僕は雨音を聴いていると、いたたまれない気持ちになった。雨の日は嫌いだ。雨は、冷たくて無情なものだ。優しいものなんかじゃない。雨の中に一人たたずんでいると、僕という人間の愚かさやみじめさを露呈されるような気がする。思わず僕は、ずっと隠していた思いをこぼしてしまった。



「梅雨の時期が来ると思い出すんです。僕が二十五歳のころに付き合っていた、二十歳の彼女を。もう十年前のことになります。

 彼女の笑顔を好きになったはずなのに、思い出すのはいつも泣き顔なんです。僕と一緒にいることで、たくさん寂しい思いをさせてしまった。もともととても寂しがり屋な女の子だったのに。

 彼女とは、今日のような雨の日に別れました。いや、別れたというより、僕が一方的に突き放したんです。」

思わず、僕は眉間に皺を寄せてしまう。

「わたしで良かったら、お話を聞かせていただけますか。大翔さん、なんだかとても苦しそう…。ずっと一人で抱えてきたんですよね。誰かに話すことで楽になることもありますよ。」

雨音がますます強くなってきた。 

「初めて彼女と出会った時、僕には彼女がキラキラと輝いて見えたんです。明るい笑顔が本当に可愛らしいと思った。僕たちが付き合うようになるのは、出会ってから割とすぐでした。

 でも、恋人同士になってから、彼女の本当の姿に気が付いたのです。その笑顔の下で、彼女はとても繊細で弱い姿を隠していた。彼女は幼い頃に両親が離婚して、父親という存在を知らずに育ったらしいのです。女手一つで娘を養うために母親は昼も夜も働き詰めで、彼女はいつも孤独だったといいます。でも、自分を養うために一生懸命に働いてくれている母親のことを思って、その寂しさを一人でずっと我慢していたらしい。

 彼女は今までの寂しさを僕にぶつけてくるようになりました。彼女は僕の前で感情を抑えられなくなったり、束縛してくるようになりました。それが僕にはすごく重かった。結局、僕は彼女を受け止めきれなかったんです。

 彼女と向き合うことに疲れてしまった時、優しくしてくれた女友達に気持ちが動いてしまった…。最低ですよね。僕は、彼女から逃げたんです。」


(つづく)


※この物語は、フィクションです。

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