見出し画像

小説「春枕」特別編〜海に入る難波の浦の夕日こそ〜

今日は祖父の命日だった。

祖父はとても長生きで、亡くなる前日まで元気に畑仕事をしていていた。夜に床について、そのまま眠るようにして旅立ったのだった。人は大往生だと言い、わたしもそう思ったが、それでも悲しかった。

わたしを可愛がってくれた人を喪ったことは、自分を形づくる大切なピースをひとつ失ってしまったようで、とても心細かった。

わたしはまだ若いせいか「死」というものがピンとこなかった。しかし、祖父の死によって、人間は本当にいつ死ぬかわからない、大切な人はいつか必ずいなくなってしまうのだ、と思い知った。

「大切な人を喪った時こそ、行ってほしい場所がある」と、母を亡くした友人の美咲に紹介され、銀座の「春枕」というお店へやってきた。

「友人の二条美咲の紹介できました、坂下優実と申します。」

「わたしは店主の春花です。優実さん、ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりました」

春花さんはそう言うと、一本のお線香に火を灯した。まるであたたかく包み込んでくれるような優しい香りに、こころが落ち着く。

「美咲から聞いているかもしれませんが、今日は、わたしを可愛がってくれていた祖父の命日なんです。祖父が亡くなったのは数年前ですが、毎年命日が来ると、普段は心の奥に眠っている悲しみが強くなるのです。」

「ちょうど今はお盆の時期ですね。優実さんのおじいさまの魂が、こちらの世界に戻ってきていてもおかしくはないですね。きっと、優実さんに自分のことを思い出してほしいのかしら。」

春花さんはそう言って、わたしにお茶を淹れてくれた。

「こちら、ドクダミのお茶になります。花言葉は、追憶。亡きおじいさまを偲んで、ゆっくりお召し上がり下さい。」

わたしは温かいお茶を飲んで、ほっと息をついた。

「祖父は本当に優しい人でした。祖父は内気で照れ屋だったから、目立った愛情表現を見せることはありませんでしたが、いつも優しかったの。わたしが大人になるまでずっと、そっと離れたところで見守ってくれていました。」

「おじいさまは、優実さんのことが可愛くて仕方がなかったのですね。

 わたしはこの場所で、大切な人を喪った方たちの気持ちにそっと寄り添ってきました。お話を聞いていると、いつも感じることがあるのです。

 亡くなった方の肉体は、もうこの世界には存在しない。でも、その方が残した愛は決して消えることがない。

 わたしたちはみな、愛されて産まれてきて、愛し合って生きてゆく。そして、子孫を残しても残さなくても、誰かの胸の中に愛を残して死んでゆく。わたしたちは、そんな風にして愛のバトンをつないでいるんです。

 優実さんはおじいさまから愛のバトンを渡された。そして、次の誰かに受け継いでいくのでしょうね」

「愛のバトン、素敵な考えね…。 

 わたしは、おじいちゃんは本当に立派な生き方をしたと思っているのです。沢山の人を愛し、愛されて。とても真面目で誠実な人でした。

 おじいちゃんに優しくしてもらったように、ほかの誰かに優しくできたらいいな。」

わたしはそう言って、そっと涙を拭った。

すると、障子越しに夕日が差し込み、店内には美しい西日がまっすぐに伸びてきた。

亡くなった人は、夕日が沈む方向にある西方浄土へ行くという。祖父もそこへ行ったのだろう。そこは一体どんな世界だろうか。きっと、美しい世界だろうな。

「わたしたち、きっと同じことを考えているはず。この西日の先の世界に、優実さんのおじいさまがいらっしゃるのでしょうね。そして、この光の道を通って、お盆の季節にかえってきた。

 海に入る難波の浦の夕日こそ西にさしける光なりけれ
 海に差す難波の浦の夕日こそ、西方浄土に差す光だろう。 

 夕日って「慈悲」の色をしていると思いませんか。わたしはいつも、そう思うんです。すべてをあたたかく包み込んでくれるようなだいだい色の光を見ていると、わたしたちはゆるされて愛されて、ここにいるんだなって感じるのです。

 まるでそれは、夕日の向こう側の世界から、わたしたちを見守ってくれる亡き人の眼差しのようではないですか。」

春花さんはそっと呟いた。

「いつか私たちも、この光の道を歩いていく日が来るんですね。」

そう言って、わたしは遠くを見つめた。

「そうですね。その時が来たら、わたしたちもこの美しい道を歩いて、あちらの世界へ行けるのかもしれません。」 

春花さんは、そっと微笑んだ。

おじいちゃんを思い出して、もしまた寂しくなることがあったら、夕日が作りだすこの光の道を見つめよう。この道は、彼方の世界と此方の世界をまっすぐにつないでくれているはずだから。

「おじいちゃん、そちらへ行くのはまだまだ先だけど、それまで待っていてね。ちゃんと愛のバトンをつないでいくからね」

生きている人間は誰もが「死」を恐れる。それはきっと、自分という存在(肉体や意識)が消えてなくなってしまうことへの恐怖心だ。

でもわたしたちは、この世界に愛のバトンを残してゆくことができる。その意味では、わたしたちの魂は永遠に生き続ける。

産まれてくることを選べないように、一体いつ死ぬのかわからない。けれど、やがてその日がやって来るまで、わたしは懸命に誰かを愛していこう。そう、この夕日に誓った。

(おわり)

「海に入る難波の浦の夕日こそ
 西にさしける光なりけれ」
 藤原為家

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?