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舞(まい)で敵をも圧巻した白拍子『静御前』 

こんにちは!日本人の大和魂を蘇らせる🔥

氷神です!




僕がこの静御前を知ったのは国試啓蒙家の小名木先生の書籍「美しい日本人たち」で知りました


この記事は、そちらの書籍で記載されてる内容も引用しております。



その昔…

静御前という歴史を通じた有名な美女がおりましたこの女性は非常に強い女性でもありました、そして白拍子でもありました。

白拍子とていうのは雨を降せる事ができる舞する人の事をいいます、雨が降らなければ作物ができませんので、日照りが続くと雨乞いをしなければなりません雨乞いの儀式をするために巫女さんが舞を舞わなくてなりません、この静御前が舞を舞うと高確率で雨が降ったんだと思われます、その事から神に通ずる舞ができるという事で京都で一番の白拍子で有名でした。

平安時代末期、ある日の事です。後白河法皇に招かれて参内した静御前は「おもてをあげよ」と言われ顔を上げました

そこにいたのは平家を打ち破った源義経だったのです!二人は顔を合わせた瞬間に惹かれあっていたのです

静御前に惹かれてしまった義経はなかなか鎌倉に帰ってこない頼朝に「すぐ鎌倉にかえるように」催促を受けます

何度も使者を送っても帰ってこない義経に頼朝は「義経謀反!」と疑いをかけ兄弟なのに敵対する事になったのです...

頼朝は京の地にいる義経に兵を派遣させます!捕縛の兵が送られたと知った義経は兄と戦う事を選択します!岩手県奥衆院平泉までいけば、そこで兵を整えて反撃体制を取ろうと考えました、近習である弁慶と共に京の都を船で出発しますが、大阪湾を出たところで船が難破してしまいます、船をあきらめ陸路で奥州へ向かう事を選択します、追手に追われながらも義経と静御前はずっと手を握り合っていたそうです、

冬の寒い時期の頃、あたり一面は雪が降り積もっていました、逃げついた先、吉野の山大峰山に辿り着きます

そこの碑(いしぶみ)には「女人禁制」と書かれています当時の人達は誰もが見てなくてもお天道様が見てる...そんな志の人達です、義経は静御前に言います...

義経:「静(しず)ここからなら都もさほどとおくない。そなたは都の生まれ。必ず戻るから、都に帰って待っていておくれ」

静御前:「私は義経さまの子を身ごもっています!別れるくらいならいっそ、ここで殺してくだい」

義経は自分の子を身ごもっている静御前に驚きましたが、

しかしこう放ちます...

義経:「静(しず)これを私だと思って使っておくれ。そして私の前でもう一度、あの舞をみせておくれ」

そう言って、自分の化身とおもわせる鏡を静御前に渡し義経は大峰山の中に登って行くのでした...





その姿をいつまでも見続ける静御前。




雪山の大峰山、転々と続く義経足跡を見続けていたのです...



山道には義経たちの足跡が、転々と続いていました…




しかし義経と離れた後、京の都に帰ろうとする静御前は頼朝の派遣された兵に捕らえられてしまいます

頼朝のいる鎌倉まで連れいかれて、鎌倉の地で幽閉されてしまうのです...

幽閉され、そこで義経の行先を問われるのですが、静御前は凛として口を割らず、酷い取調べを受けるのです...

鎌倉に幽閉された静御前ですが、幽閉され時が過ぎ四月七日
桜の綺麗な季節が鎌倉にやってまいりました

この日に頼朝臨席での大花見会が鶴岡八幡宮で行われることになりました。
静御前は神に通じる舞ができる白拍子です!


頼朝はこの桜の前で静御前に舞の披露を命じました
しかし静御前は


「私はもう二度と舞うまいと心に誓っています」

と頼朝の命令に反しました
その場にいた頼朝の妻、北条政子が静御前に言いました


「天下の舞の名手がたまたまこの地にいるのに、その芸を見ないのは残念なこと。舞は八幡大菩薩にご奉納するものです。どのような状況であれ、神に仕える白拍子がこれを断ることはできませぬ」


そう言われ、恐らく静御前は渋々納得して、着替えをすませ舞台上がったことでしょう...


会場は、なみある歴戦の鎌倉の御家人たちで埋め尽くされています。
その御家人たちは義経の追手達です...


曲名は「しんむしょう」そして「君が代」を舞ました
ちなみに君が代は軍歌主義ソングのように思われますが、大東亜戦争よりも800年以上前に、静御前が舞った歌でもあるのです


この二曲を舞い終わりましたが
御家人たちは、なんか納得がいきません


「神に通じる舞ができる白拍子なのにこの程度か?」


静御前の舞は何か欠けていたのです
会場をがざわつき始め


舞い終わった静御前はずっと手のひらを床について頭を伏せたまま動かない状態になっていました...


この時、静御前の脳裏には愛する義経の姿がはっきり浮かんでいたのかもしれません


そして静御前はこう思います



「どうせ敵の前じゃないか。いっそのこと、思うことを歌ってやろう」



静御前は…




ゆっくり、





本当にゆっくりと立ち上がりました




手にした扇をそっと広げました
そして歌い始めました...




しずやしず しずのをだまき繰り返し 昔を なすよしもがな



吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞこいしき





(いつも私を、静、静、お前はおだまきの花のように美しいと呼んでぐださった義経さま。幸せだったあの時に戻りたい。吉野山で、雪を踏み分けながら山の彼方にさって行かれた義経さま。後に残されたあの時の義経様の足跡が、今も愛おしくてたまりません...)



歌いなが舞う
舞ながら歌う。



美しい。あまりにも美しい。場内にいた坂東武社たちは、あまりにその美しい舞に圧倒されたのです‼️


鶴岡八幡宮の花見大会で義経を思う気持ちを最大限に、表して舞った静御前の舞は

武将達をも圧巻する舞でその美しい舞を見てあっけに取られていました…


しかし頼朝ただ一人は遺憾の表情で、こう申すわけです

「ここは鶴岡八幡である。その神社で舞う以上、鎌倉を讃える歌を舞うべきである。にもかかわらず、無叛人(むほんにん)である義経を恋する歌を歌うとは不届き至極!



...






いやお前の弟やろ‼️


と僕は本を読んでる時に一人ツッコミをいれたのですが

そんなどうでもいい話は置いて(笑)


そして頼朝はこう言います

「敵将の子を生かしておけば、のちに命取りとなるであろう。そのことは自分が一番よく知っている。生まれてくる子が男なら殺せ」

この時、静御前は妊娠六カ月です

義経の子が男の子だったら、いずれ自分に歯向かってくるから生まれてきたら殺せって言うんです!


酷い...

酷すぎる...

弟の子を殺せだなんて


隣にいた北条政子が言いました

「では、生まれてくる子が女子ならば、母子ともに生かしてくださいませ」

政子のせめてもの心遣いです

頼朝は「ならばそのようにせよ」と言いました

仕方ありませんよね先に「男なら殺せ」といったのですから


時は過ぎ七月十九日、静御前は出産します





男の子なんです。゚(゚´Д`゚)゚。


そして出産した、その日に頼朝の命を受けた安達清常が静御前の元にやって来ました


静御前は頑なに、自らの赤子を引き渡そうときしません!


つーか絶対渡さないで😭(心の声)



清常は諦めました


清常が去った後、安心したのか静御前は疲れて寝入ってしまいます

しかし静御前が寝入ったすきに静御前の母の磯野禅尼(いそのぜんに)が赤子を取り上げ清常に渡してしまいました

その日うちに由比ヶ浜の海に浸けて殺し、遺体もそのまま海に流してしまいました。



と『義経記』にはそう描かれていたそうです


しかし、この「美しき日本人たち」にはこのつづきが描かれていました




静御前が産褥期間を終えて鎌倉を去る時が来ました

母親に裏切られ、我が子を亡くした静御前は、放心状態で

峠を登っていました


すると峠の途中で安達清常が馬に乗り待ち構えていたのです

静御前を目にした清常はこう放ちます


「静殿、こちらを通られると思い、お待ち申しておりました」


そうすると馬の後ろにいる女性に



「おい!これへ」とその女性は赤子を抱いていたのです



その赤子を静御前に渡そうとします



清常は「ささ、抱いてやってください。ほら、わ子や、母君ですぞ。」




なにがなんだか、分かっていない静御前はおもむろに渡された赤子を受け取りました



その赤子を受けとった瞬間、静御前は思いました


「我が子だ...生きていた...」



そう!清常は海に浸けて流したりしてなかったんです‼️


静御前の母、禅尼は清常の事を武士と信じ!赤子を渡してたんです


我が子を受けとった静御前は大粒の涙を流し


母の行いも、清常の志も全てを、さとしました...

そして静御前は母と子と共にその峠を後にしました。


その後、静御前の消息はわからないそうです...


いかがだったでしょうか?

この静御前、鶴岡八幡宮で愛する人の敵対する者前で舞を踊ったとで記載しましたが


一体どんな心境だったのか心中を察することすらできません...

美しき、悲しき、歴史的な女性のお話でした


静御前の話は小名木先生も「結び大学」で熱く語っております


こちらの動画長めの再生時間長めですが、こちらもご視聴していただけたらと思います


それでは今回は、ここまで最後までお読みいただき、ありがとうございます

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