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そもそも「欲求」に善いも悪いもない。

今から10年ほど前の私ならタイトルの言葉に不満を感じただろう。
だってさ、煩悩は身心を悩まし煩わせる心のはたらきといわれ、悪とされているやん。でもどうしても解せなくて現在に至る。

私はこれまでの学びを通して欲求はあっていいと結論づけている。その欲の質やカタチがどうであれ「ある」ものだから、それはそのまま受け入れようという考えだ。またその欲求の根底にある感情や思考がどのようなものであるかに意識を向ける機会になるのではと考えるようになって、自身の欲求を丁寧に観察することで心身ともに健康であり、より幸福感を得られるようになるんだと気づいた。


例えば《海外旅行に行きたい》
でもお金や時間がないという理由でその欲求は叶わないものBOXに長く放り込んでいる人がいる。またお金や時間はどうにかなるにせよ、それを叶えるに値しないと自分の価値を低く持つことで実現不可能にしている人もいる。
さらにその欲求を持つこと以上にすべきことがあるだろうと戒め、自分自身を非難する人もいる。

今から25年ほど前の話だが、私にも《海外旅行に行きたい》という欲求があったので参考に書いてみる。

《海外旅行に行きたい》という純粋な欲求はいつのまにか《悪》であり、それを叶えられる人は何かしら秀でているものがあるからだと自分に言い聞かせ夢は叶えるものではなく、見るものと化する。

そんな負のスパイラルを生み出す《欲求》はない方がいいのだろうか?
いや、あるものはなくすことはできないのである。

では本題の欲求の根底にある感情や思考がどのようなものであるかに意識を向けるをやってみよう。

《状況と思考と感情》
①当時子育てで忙しく、自分の思い通りの自由がないと嘆いていた。家族で海外に行って鬱々した気分を発散したい。非日常を味わうことで幸福感を得たい。子連れで海外旅行に行ける(大変そう)ことで勇敢さを自覚したい。

②元旦那さんとの共通の思い出を得たい。夫婦で過ごす時間が少ない。共通の趣味がなく、唯一ある「英語を話す」ことに関してはお互い楽しみを見出しやすいと感じた。寂しい。子ども中心に過ごしていて、(人生が)退屈だと感じていた。今思うと自己肯定感が低く、自分を発揮する機会を欲していた。

整理すると
《海外旅行に行きたい》という欲求は自立したいという内なる欲求に繋がる機会であったことになる。そして自立することは私にとって幸福感を得られることの一つだということ。自分の人生を自分が楽しませる手段でもあるのだ。

ただ、この時はその内なる欲求に気づくこともなく、単にお金と時間とエネルギーを費やし、一時の満足を得るだけのものとなった。そしてその数か月後にはそのエネルギーを費やしたことへの罪悪感や後悔、またそれを感じたくないがゆえに、もっとよりよいカタチで旅行を計画しようと、謎の努力を積み重ねていった。

では
欲求の根底にある感情や思考がどのようなものであるかに意識を向ける機会を得て、自立したいという内なる欲求に気づいていたとしたら、私は何を選択しただろうか。

私はずいぶん長いこと欲求があることが悪だとしていたから、結局のところ回り道しただろうなという思いは横へ置くと、そうだな…やっぱり心の奥底にあった「起業」を実行しただろうな。

お金も時間もエネルギーもうんと自分の想いをカタチにするために注いだだろうな。(実際は34歳で起業したので、それよりもうんと早い時期に)

あなたにはどんな欲求があるだろうか?
質やカタチを損なわず、想いのままで手にしているだろうか。
自分にはふさわしくないと、安価なものや手に入りやすいものでごまかしてはいないだろうか。または私にはふさわしくないといい、まるで罰を与えるかのように、得ないという選択をしていないだろうか?

実は現在の環境の中に幸せはすでにある。
この宇宙はすべてを与えていて、それらを自由に選ぶ余地を私たちひとりひとり平等に与えている。としたら、心に浮かぶあなたの欲求もすでにあるもので、それは幸せそのものなのだ。


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