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「足ツボ」ことリフレクソロジーの起源は中国ではなく二十世紀アメリカだった【事物起源探究創刊号】

※松永英明個人誌『事物起源探究 創刊号』(2010年5月)より。

■リフレクソロジーの起源を探る

 二〇〇六年はじめ、私は座骨神経や大腿神経に痛みが走って困っていた。そうなると街中の「マッサージ」とか「鍼灸」といった文字に目が行ってしまう。
 そんななかで、最近目立つようになったのが「英国式リフレクソロジー」など足裏系の「反射区療法」である。「反射区」というのは、足の裏か手のひらとか(実は他に耳というパターンもある)の「この部分は心臓に対応」とか「この部分は胃に対応」といったように、それぞれの部分を刺激すれば体の別の部分に効果をもたらすという考え方だ。
 ところが、よく勘違いされていたりするのだが、これは伝統的な経絡・ツボ・鍼灸(はり・きゅう)の理論とはまったく違う。全身のエネルギーの経路である経絡と、その要所要所にあたるツボは、足の裏のゾーンとつながっていない。
 そもそも、足の裏にツボは「湧泉」一つしかないのだ。
 というところまでは前からわかっていたのだが、じゃあその反射区理論はどこから生まれてきたのか。それを改めて調べてみようと思った。

◎経絡・ツボ理論で足の裏を見る

 まず、漢方・中医学で伝統的に受け継がれている経絡・ツボの理論を確認しておこう。これは、気(生気)の通る道筋を十二本の正経などのラインで表現し、その中の気のポイントとなる部分をツボと呼んでいるわけである。だから、明確な「ラインとポイント」で表現される。
 さて、この経絡の多くは手の指・足の趾(あしゆび)から体の中心に向かって伸びているわけだが、今回のポイントはあくまでも足の裏にこだわらなければならない。実は、足の裏にある伝統的なツボは「湧泉」ただ一つで、これは「足の少陰腎経」に属する。これ以外に足の裏にツボはない。それ以外の足のツボは、たとえば足の爪の外側角だったり、足の横だったり、と、すべて足の裏以外の場所に存在している。
 簡単に言えば、「伝統的な経絡・ツボは、足の裏をほとんど使わない」ということになる。

木下晴人著『臨床経穴図』(医道の日本社)より、中医学や漢方における足裏のツボは「湧泉」ただ一つである。なお、湧泉の位置はリフレクソロジーの「ソーラープレクサス」のポイントに近い。

◎反射区理論

 さて、一方の反射区理論(リフレクソロジー)だが、これは「ゾーンセラピー」という理論が元になっている。
 これは全身を十の「ゾーン」に分割する。そして、同じゾーンに属する部分のどこかが悪くなれば同じゾーンの他の部分にも影響が現われ、逆にゾーン内で適切な刺激を与えれば、同じゾーンに対応する器官の病気もよくなる、というものだ。
 そういうわけで、足の裏にはゾーンに対応するマップができあがる。そして、それぞれの内臓器官に対応した足の裏のゾーンを刺激すれば、病気などにいい影響がある、という考え方だ。これが「リフレクソロジー」理論ということになる。
 藤田真規『フジタマキのリフレクソロジーパーフェクトガイド』(BABジャパン出版局)では反射区とツボの理論について要領よくまとめているので、簡単に引用したい。

○違い1 理論が違います!
 反射区 10本のエネルギーラインが理論のベースになります
 ツボ 経絡が理論のベースになります
○違い2 とらえ方が違います!
 反射区 面としてより広い範囲をとらえます
 ツボ 点としてより狭い範囲をとらえます
○違い3 身体への反応の仕方が違います!
 反射区 身体の一部分に全身が反射投影されます
 ツボ 全身に分布します

英国式リフレクソロジーにおける反射区のフットチャート。
藤田真規『すぐできる英国式リフレクソロジー』(池田書店)より。
リフレクソロジー理論のもととなったゾーンセラピーにおける10本のエネルギーラインの図。
中医学の経絡・ツボの理論とはまったく基盤から異なることがわかる。
藤田真規『フジタマキのリフレクソロジーパーフェクトガイド』(BABジャパン)より。

◎反射区理論を中国にさかのぼる

 というわけで、この二つの理論は根本的に違うことをまず把握いただけたと思う。そして、経絡・ツボ療法に関しては、出典が明らかで、『黄帝内経素問』『黄帝内経霊柩』『黄帝八十一難経』『黄帝内経太素』といった中医学の古典や、『黄帝内経明堂』『黄帝三部鍼灸甲乙経』などの鍼灸の古典が存在している。
 しかし、反射区理論はこれらの本のどこにも載っていない。素直に考えれば、中国には反射区理論がなかったと考えるのが妥当なラインだろう。前出の藤田真規は「英国式リフレクソロジー」をうたった日本最大リフレクソロジーサロングループの「マキ フジタ ヒーリング・スクール」校長であるが、ここでは中国説は採用していない。しかし、二〇〇六年の段階で特に台湾系のリフレクソロジーサロンのサイトで以下のような解説が見られた。

中国古代の有名な医学書「黄帝内経」(こうていだいけい)の中に「観趾法」(かんしほう)という記述があります。この「観趾法」というのは、足のツボに刺激を与え、その刺激に身体が反応する原理を利用して治療効果を得ようとする方法でした。
漢の時代になり華陀(かだ)という聖医が「観血法」をわかりやすくまとめた「華陀秘笈」(かだひさゅう)という本を著わしました。この本が唐の時代に日本に伝わってきて、今日の鍼灸術「足心道」になっています。「指圧」も、この「観趾法」から発展したものです。「観趾法」はその後、ヨーロッパやアメリカにも伝わっていきます。20世紀始め1913年米国人医師であるウィリアム・フィッツジェラルド博士が、西洋医学の観点から「観趾法」を研究しています。その成果は米国医学界に「健康のための反射学」として発表され「区域療法」(Zoon Therapy)として注目されました。

中国古代の有名な医学書「黄帝内経」の中の「素女編」という部分に、「観趾法(かんしほう)」という記述があったと言われています。
のツボに刺激を与え、その刺激に体が反応する原理を利用して治療効果を得ようとする方法だったようです。
やがて、漢の時代になり、華陀という聖医が観趾法をわかりやすくまとめた「華陀秘笈」という一冊の本を著わしました。これが唐の時代に日本に伝わり鍼灸術や指圧へと発展していきました。
しかし、その後の歴代王朝の交代や天災、戦争などで黄帝以来の「観趾法」は、正当に評価され医学として発展することはありませんでした。
とはいえ、「観趾法」はその後、幾多の困難を乗り越え欧米諸国に伝わっていきました。まず、米国人医師のウィリアム・フィッツジェラルド博士が、西洋医学の観点から「観趾法」を研究し、「区域療法」として、一層注目されました。

中国語のサイトでも、同様の記述が見られた(注)。

(注)リフレクソロジーの「偽史」を記したページであるが、私がこの調査の最初の報告をブログで行なった後にいずれも削除されている。サイト自体はいずれも残っているので、当方の指摘によって誤った情報のベージだけ削除に至ったものと思われる。

◎存在しない古典「華陀秘笈」

 なるほど、と納得するのはまだ早い。ここで出てくるキーワードを抜き出してみると、
・「黄帝内経」素女編の「観趾法」
・名医・華陀が著した「華陀秘笈」
・「足心道」
・ウィリアム・フィッツジェラルド博士
ということになる。そこで、中国古典で関係あるという二つの文献を調べてみた。
 まずは「黄帝内経」素女編だ。ところが、これが実は現存しないものなのだ。『黄帝内経素問』『黄帝内経霊柩』と、その解説書『黄帝内経太素』のいずれにも「素女編」などという篇は存在しないのである。「素女経」という後世の図書はあるのだが、これは房中術、すなわちセックスを利用して健康になるための技術書であって、足裏とは何の関係もない。
 もちろん、この原典が存在しなくても、後世の本にその名残が伝わっている可能性はある。もしかしたら、三国志にも登場する神医・華陀の「華陀秘笈」に書かれているかもしれない――と期待して「華陀秘笈」という本を徹底的に調べてみたのだが、これがまったく見つからない。そういう題名の本があるなら、タイトルだけでもひっかかるはずだが、足裏の歴史という上記の内容以外にまったく出てこないのである。これは異常な事態だ。偽書だとしても、名前くらいは出てくるはずなのに。もちろん、調べたのはネットだけではない。中国書を含む文献検索でも見つけることはできなかった。
 いや、一つだけ引っかかった情報があった。「魔域儡尸(魔境のキョンシー)」という二〇〇四年の台湾映画で、「邪王派魔女チン・ティンはかつて華家荘に行って『華陀秘処』を奪い、キョンシー丹の錬成方法を完全なものとしていた」と書かれている。
 そういうわけで、「黄帝内経」素女編も、「華陀秘笈」も、「死霊秘法(ネクロノミコン)」や「セラエノ断章」くらいの実在性しかない(つまり架空の書籍)といえそうである。おそらく、ミスカトニック大学附属図書館なら読めるのかもしれないが、通常はお目にかかることもできないであろう(注:ネクロノミコンやセラエ断章やミスカトニック大学はいずれもクトゥルフ神話体系に出てくる架空の存在である)。
 冗談めかして書いたが、要するに、中国古典にリフレクソロジーの起源は求められないということである。また、鍼灸は「華陀秘笈」ではなく、上記『黄帝内経素問」『黄帝内経霊枢』『黄帝内経明堂』などが伝来し、日本でも研究され、発展を遂げたものである。

◎「足心道」の歴史は昭和から

 もう一つのキーワード「足心道」について調べてみよう。上記サイトの記述では「この本(華陀秘及)が唐の時代に日本に伝わってきて、今日の鍼灸術「足心道」になっています。」と書かれており、「足心道」は非常に古いもののような印象を受ける。
 しかし、「足心道」ではこの点について、いたずらに起源を古く求めることなく、正直に表わしている。足心道道の公式サイト内「足心道とは?」の記述によれば、

昭和初年、足心道の創始者柴田和通は、東洋医学の考え方、ことに「十四経絡(じゅうしけいらく)」を踏まえながら、実際に多くの人々の足を観察。手足と内臓との関連を体系づけるとともに施術の方法を研究しました。そして、まったくオリジナルな手足の観察法「観趾法」と施術法「操法」からなる〈足心道〉を確立したのです。

と書かれているのである。
 これによれば、「観趾法」も「操法」も柴田和通氏のオリジナルであり、その組み合わせから成るのが足心道ということになる。「足心道」と命名されたのは昭和二十三年。「華陀秘笈」だの「素女編」だのという怪しげな文献は登場しない。
 念のため、足心道三代目本部長・柴田富子氏の著書『足ツボ健康法――簡単よく効く足心道』も読んでいたのだが、歴史についてはまったく同様の記載だった。足心道の「足ツボ健康法」の内容は、伝統的な経絡理論と、足裏反射区理論を合わせて活用しているものである。
 こうなると、東洋にリフレクソロジー・足裏健康法の起源を求めることは難しそうである。そこで、次の手がかりはアメリカの「ウィリアム・フィッツジェラルド博士」だ。

◎ウィリアム・フィッツジェラルド博士

さて、一方で西洋系のリフレクソロジーで共通して主張されている歴史としては、以下のとおりである。

・もともとエジプトやインドや中国でリフレクソロジーみたいなものがあったらしい。
・一五八二年、Adamus博士とAtatis博士の本が出版された。
・そのすぐ後、Bell博士の本がライプツィヒで出版された
・一九一七年、アメリカのDr. William Henry Hope Fitzgerald(フィリアム・ヘンリ・ホープ・フィッツジェラルド博士)が『Zone Therapy or Relieving Pain at Home」という書籍を発行。ゾーンセラピーのスタート。
・一九三八年と一九四五年、Eunice Ingham(ユーニス・イングハム)女史が「Stories the Feet Can Tell Thru Reflexology」「Stories the Feet Have Told Thru Reflexology」という二冊の本を出版し、足裏の反射区マップと、リフレクソロジーという名称を広める。
・一九七四年、Hanne Marquardt(ハンネ・マルカート女史)の「Reflex Zone Therapy of the Feet」がさらに詳細な反射区理論を公開。

 十六世紀の内容はよくわからないし、リフレクソロジーの本でも歴史から省かれていることが多いので直接関係があるかどうかはわからない。
 要するに、リフレクソロジーの前身であるゾーンセラピーが最初の形を生み出したのは、二十世紀初めの一九一七年(大正六年)であった。これはどのリフレクソロジー文献でも共通して認められているポイントである。これは「足心道」よりも十年ほど早い。このゾーンセラピーがやがてリフレクソロジーとなり、世界中に広まっていくわけである。台湾式もこのアメリカ発祥リフレクソロジーの系譜上にある。

◎「リフレクソロジーは一九一七年アメリカに始まった」

 というわけで、古代伝承や民間療法に原型はあるのだろうが、きちんとした形でゾーンセラピーとしてまとめられたのが一九一七年アメリカ。その後、リフレクソロジーと名前を変えて、世界中に広まっていった。東洋ではあたかも鍼灸のような古い歴史があるかのごとき偽装を受けながらも、新しい癒しの方法として受け入れられつつある――というのがここまでのまとめである。
 つまり、リフレクソロジーは、まだ1世紀の歴りさえもない「新しい医療」なのである。
 もっとも、リフレクソロジーだけが新しいわけでなく、医療法としてはたとえばアロマテラピー(芳香療法)もけっこう新しい。精油の蒸留法は十一世紀にさかのぼるが、アロマテラピーという言葉が初めて使われたのが一九二八年なのである。
 それでは、以下に改めてリフレクソロジーの歴史をまとめてみよう。

■リフレクソロジーの歴史

◎神話的起源伝説

 手や足に対する治療術は古代から存在した。そのつながりが明確になっているわけではないが、エジプト第六王朝(紀元前二四五〇年ごろ)のサッカラーの壁画では、二人の座った人が手と足にマッサージを受けているところを描いている。また、紀元前三○○○年ごろの中国や、古代インド医学でも同様に手や足への治療が存在したようだ。インカ文明には手や足に加療する方法があり、それがアメリカ合衆国の領土にいたアメリカ先住民に伝わった可能性もある。
 しかし、これらはすべてどのような理論であったかは明らかではなく、手や足に施術をするということのみが共通しているだけであり、現代リフレクソロジーと直接のつながりをもつわけではない。
 一部、中国式リフレクソロジーの宣伝において、古代中国にリフレクソロジーの起源があるとされることがあるが、これらはいずれも根拠のない説である。

◎ゾーンセラピー前史

 十六世紀、ヨーロッパのいくつかの国でゾーンセラピーが実践された。これについて書かれた最初のものは一五八二年に出版されたアダムス医師(Dr. Adamus)とアタティス医師(Dr. A'tatis)の本である。また、ライプツィヒのボール医師(Dr. Ball)も同じテーマについて書いた。
 一七七一年、ドイツの生理学者ヨーハン・アウグスト・ウンザー(Johann August Unzer)は、身体の連動反応に関して「反射」という言葉を初めて使った。
 一八三〇年、指圧療法士テレンス・ベネット医師(Dr. Terrace Bennet)が神経血管の保持点を発見した。主に頭部のポイントを発見したが、そのポイントが特定の臓器などへの血流の流れに影響するようだと推論した。
 一八三三年、イギリスの生理学者マーシャル・ホール(Marshall Hall)は、延髄と脊髄の反射機能についての研究において「反射反応」という用語を使い、無意識の反射と意志的な動きの違いを実証した。
 一八三四年、スウェーデンの医師ペール・ヘンリック・リング(Pehr Henrik Ling)は、特定の器官から生じる痛みは皮膚の特定の部位に反映されるが、これらの器官への直接的な関係はない、と記した。イギリスの神経科医ヘンリー・ヘッド卿(Sir Henry Head)などの研究者がこの考え方に従った。ヒード卿が発見した施術ゾーンは「ヘッドゾーン(Heads zones)」として知られる。このころ、治療麻酔が生まれた。
 一八七〇年、ロシア脳研究所創設者であるイワン・パブロフ(Ivan Pavlov)とウラジミール・ベクテフ(Vladimir Bektev)などのロシアの心理学者がゾーンセラピーを研究し始めた。
 一八九〇年、ヘンリー・ヘッド卿は皮膚の敏感なエリアが神経を通して病んだ器官と接続しているという発見について発表した。「膀胱は足裏を刺激することによって活性化する」と書いている。
 一九〇〇年、ドイツのアルフォンス・コルネリウス医師(Dr. Alfons Cornelius)は、反射マッサージで自分の健康を改善した。

◎近代リフレクソロジーの起源としてのゾーン理論

 二十世紀に入り、アメリカのウィリアム・H・フィッツジェラルド(William Henry Hope Fitzgerald)医師は、ゾーン無痛法(zone analgesia)・ゾーンセラピー(zone therapy)という同様の概念を提示した。
 フィッツジェラルド医師のゾーンセラピーは、特定の場所への圧力刺激によって、体全体の痛みを和らげる方法であり、ゾーン無痛療法(ZoneA nalgesia)とも呼ばれる。フィッツジェラルドは体を十の縦のゾーンに分けた。左右それぞれに五つのゾーンがあり、そのゾーンは頭から指先・足指まで、前から後ろまで広がる。人間の肉体のすべての部位がこれら十のゾーンの一つにあらわれ、それぞれのゾーンは手や足に反射作用エリア(反射区)を持つことになる。フィッツジェラルド医師は、体のある部位に圧力を加えることによって、対応する部分の感覚を麻痺させたり、あるいは痛みを和らげることができるということを示した。
 フィッツジェラルド医師のゾーン無痛療法に関する論文を出版するよう促したのは、同僚のエドウィン・バウアーズ(EdwinBowers)医師である。一九一七年、フィッツジェラルド医師とバウアーズ医師は、ゾーンセラピーの解説書『家庭での痛み緩和(Relieving Pain at Home)』を共著として出版した。
 フィッツジェラルド医師は、ボストン市病院とコネティカットの聖フランシス病院で耳鼻咽喉科医だった。この施術はゾーン無痛療法と名づけられ、傷の場所に対応するゾーンなどに圧力を加えた。痛みを軽減したり無痛という結果を生み出すために、舌、口蓋、咽頭壁の後ろの圧点も使った。フィッツジェラルド医師は、身体の縦割りのゾーンを描いた最初のチャートを作った人物でもある。
 フィッツジェラルド医師は非常に面白い事実を見付けた。それは、ゾーンに対して圧力をかけると、痛みを和らげるだけではなく、多くの場合において根本的な原因をも和らげるということである。同じ結果は、ゾーン理論を受け継いだ現在のリフレクソロジーでももたらされる。
 シェルビー・ライリー医学博士(Dr.ShelbyRiley)はフィッツジェラルド医師とともに働き、ゾーン理論をさらに展開した。ライリー医師は手と足に縦割りのゾーンだけでなく水平に横切るゾーンも加えた。

◎リフレクソロジーの誕生

 一〇三〇年代、ライリー医師の同僚であった理学療法士ユーニス・イングハム(Eunice D. Ingham)が治療方法を調査して独自の反射区理論を展開した。
イングハムは数百の患者で検証した結果、足の爪点は対応する全身の器官の鏡像として位置するという驚異的な発見を行なった。イングハムはその発見を一九三八年刊行の『足が語れる物語(Stories the Feet Can Tell)』と『足が語った物語(Stories the Feet Have Told)』で発表し、それがリフレクソロジーの基礎となった。この著書はヨーロッパ各国で翻訳され、リフレクソロジーが広まるもととなった。
 イングハムのリフレクソロジーについての著書はゾーンセラピーであると述べる者もいるが、それは不正確な記述で、圧力無痛法としてのこの二つの療法には違いがある。大きな違いとしては、リフレクソロジーは圧点と体の苦痛エリアとの間に正確な相互関係を定義しているということが挙げられる。さらに、イングハムは足と手を十二ずつの圧力ゾーンに分けたが、フィッツジェラルドのゾーンセラピーでは、全身をカバーする十の縦の区分に分けている。
 一九五〇年代後半、イングハムの甥であるドワイト・バイヤーズ(Dwight Byers)がイングハムのワークショップを助けるようになった。一九六一年、バイヤーズとその妹で正看護師のユーセビア・メッセンジャー(Eusebia Messenger)がイングハムに合流し、フルタイムでワークショップにて教えることとなった。
 一九六八年、バイヤーズとメッセンジャーは全国リフレクソロジー研究所(National Institute of Reflexology)を設立した。一九七〇年代半ばにはユーセビア・メッセンジャーは引退し、ドワイト・バイヤーズは組織を国際リフレクソロジー研究所(International Institute of Reflexology)と改めて、リフレクソロジー理論と技術をさらに洗練させていった。
 ユーニス・イングハムは一九七四年に八十五歳で亡くなった。イングハムの功績としては、

一、足の反射区がすべての臓器・線や身体の部分の鏡像であるという発見。解剖学的モデルによる反射区マップの作成。
二、フィッツジェラルド医師による持続的な圧迫よりも、強めたり弱めたりする刺激の方が身体への刺激果があることの発見。
三、リフレクソロジーを自然療法士・足病医・整骨療法家・マッサージセラピスト・理学療法中と同様、一般の非医療系セラピーの一つとした。

などが挙げられる。現在の世界各地のリフレクソロジーは、実質的にイングハムに起源を持つといえる。
 ドワイト・バイヤーズとその妻ナンシー(Nancy)は、国際リフレクソロジー協会を通してユーニス・イングハムの考えを系統化し、整理統合していった。ドワイトは『元祖イングハム式フット・リフレクソロジーによるよりよい健康(Better Health with Foot Reflexology The Original Ingham Method)』を一九八三年に発行し、二〇〇一年には改訂版を出している。

◎リフレクソロジーの発展

 英国のドリーン・ベイリー(Doreen Bayly)はアメリカに渡り、ユーニス・イングハムからリフレクソロジーを教わった。そして、一九六六年に英国にリフレクソロジーを伝えたのである。その著書『今日のリフレクソロジー(Reflexology Today)』は一九七八年に出版された。ベイリーは一九六〇年代初期からリフレクソロジー訓練コースを開いていたが、一九七八年、イギリス初のスクールであるベイリー・リフレクソロジースクール(The Bayly School of Rreflexology)を解説している。
 ドイツのハンネ・マルカート(Hanne Marquardt)もユーニス・イングハムに直接教えを受けた人物であるが、マルカート方式という新しい方法を展開した。これは、人体を「頭・頚部」「胸部・上腹部」「腹部・骨盤部」の三つに分け、足の反射ゾーンもそれに対応させて探し当てることができるようにしたものである。一九七五年、マルカートの最初の著書『Reflexzonenarbeit am Fuß』が出版された。これは英訳『Reflex zone Therapy of the Feet』、日本語訳『足の反射療法』(医道の日本社)など世界的にリフレクソロジーのバイブルとなっている。

◎台湾式リフレクソロジーの誕生

 スイス人の看護師ヘディ・マザフレ(Hedi Masaflet)も、イングハムからリフレクソロジーを教わった一人である。マザフレは『Gesund in die Zukunft』(リヒテンシュタイン公国ファドゥーツのTrema Publishing)を一九七五年に出版している(英語版タイトル「Good Health for the Future」)。
(※マザフレが中国での布教中に中国観趾法/足心道を学んで帰国後にこの本を執筆したというのは嘘であり、東洋式リフレクソロジーを中国起源にしようとする誤った情報である。マザフレはイングハムの教え子であり、その内容も西洋式にほかならない)
 このマザフレの著書を読んで独自の方法を生み出したのが、同じくスイス人のジョセフ・オイグスター神父(Fr. Josef Eugster、台湾名:呉若石)であった。オイグスター神父は台湾に渡ってキリスト教の布教活動を行っていたが、膝のリウマチが悪化した。そこでスイス人の友人から上記マザフレのリフレクソロジー本を渡されたのが一九七八年であった。この本を読んで足裏を刺激したところ、リウマチが克服されたことから、この健康法を広めることとした。_
 一九八○年五月、オイグスター神父は休暇としてスイスに帰国し、このときマザフレのリフレクソロジースクールに行って教わった。そして持ち帰ったマザフレの著書を翻訳出版させたのが李百齢翻訳による中国語版『病理按摩法』である。一九八二年には「若石服務処」を設立、台湾式リフレクソロジー(若石健康法)が成立した。
 この影響を受けて生まれたのが、官有謀の「足心道」(後に「官足法」に改名)である。官有謀は「東洋医学の原理にもとづいた中国足心道の秘術」と主張していたが、実際にはイングハムのリフレクソロジーの流れで生まれたものであり、その反射区対応も反射区の番号を含めてほぼ同様のものとなっている。官有謀は当初「中国足心道」を称していたが、日本独自の「足心道」との兼ね合いから、現在は「官足法」と改称している。

◎日本での流れ

 日本では昭和初期、これらのリフレクソロジーとは別に「足心道」が作られた。足心道は柴田和選が東洋医学の「十四経絡」を踏まえて、足に現れた変化によって時体の異常をチェックする「観趾法」、足をもみほぐす「操法」を創設した。一九四八年(昭和二十三年)に、観趾法・柴田操法・柴田家庭健康術を総称して「足心道」と命名している。これは西洋のリフレクソロジーとは直接の関係を持たない独自の理論・技術である。
 一方で若石健康法(台湾式リフレクソロジーも展開していった。
 日本で西洋式のリフレクソロジーが広まったのは、一九九〇年代である。元JALキャビンアテンダントの藤田桂子が創設した日本リフレクソロジー協会(RAJA)による「英国式リフレクソロジー」(現在は「元祖英国式リフレクソロジー」)である。JAL時代にリフレクソロジーやロミロミと出会った藤田は家族の健康のために自らリフレクソロジーを学んだ。
 その娘・藤田真規はイギリス、アメリカ、ノルウェーなどでリフレクソロジー専門的に学び、西洋式のリフレクソロジーの技術を日本風にアレンジした「英国式」を作り上げる。英国式のネーミングは、藤田真規が最初に学んだのがイギリスであったことと、英国式という言葉の好印象を採用したものであり、実質的には日本藤田式ともいうべき技術である。
 RAJAは一九九六年にマキ フジタ ヒーリングスクールを設立し、翌一九九七年には直営店としてクイーンズウェイの全国展開を開始する。卒業生の職場を確保したことで生徒も集まり、また折からの癒しブームに乗って一気に知名度を高めた。スクールの卒業生の独自開業も行われ、「英国式リフレクソロジー」サロンが急増する。
 一方、RAJA英国式とは違って、英国ルネ・ターナーらの技術をそのまま受け継ぐ(日本式ではないイギリス方式そのままの)英国式リフレクソロージーサロンも現われた。そのため、現在RAJAは「元祖英国式リフレクソロジー」と称している。なお、「イタ気持ちイイ!」という表現もRAJAの登録商標である。

北京の書店で見つけた本に、中国式リフレクソロジーのフットチャートが載っていた。
表現や細部の違いはあるものの、
基本的に西洋式リフレクソロジーと反射区の場所が共通していることがわかる。
張衝山『図解手脚按摩診病大全』陝西師範大学出版社より。


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